勇者の終わり(1)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~ 第五章
地下書庫に、長い沈黙が落ちていた。
誰も、何も言わなかった。
焼け焦げた記録のページを見つめたまま、エルク、リア、シュウ、ミレナンは、それぞれの内側で、何かを整理しようとしていた。
グローワが、静かに、口を開いた。
「彼は、世界に捨てられた」
その声は、これまでよりも、わずかに低く沈んでいた。
「そして、世界の真実を知った」
グローワが、もう一度、封印箱に手を触れる。
紋様が、再び、淡く光った。
古い記録の最後のページから、視界が、再び、過去の景色へと溶けていった。
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雨上がりの墓地に、勇者Aは、一人で立っていた。
仲間たちの墓標が、四つ、並んでいた。
苔が、その表面に、少しずつ広がり始めていた。
時間は、止まることなく、流れ続けていた。
王城からは、毎年のように、英雄を祝う使者が訪れた。
民衆は、彼の名を、伝説として語り継いだ。
詩人たちは、彼を題材にした歌を作った。
しかし、それらすべてが、勇者Aの心には、届かなかった。
「救ったはずなのに」
墓標に向かって、彼は、そう呟いた。
「何も、残らない」
国は、彼に、爵位を与えようとした。
土地を与えようとした。
すべてを、彼は、丁寧に断った。
「俺が欲しいのは、そういうものじゃない」
ある日、王の使者に、彼は、そう答えた。
「俺は、ただ——」
その先の言葉を、彼は、口にしなかった。
使者も、それ以上は、深く聞かなかった。
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その頃から、勇者Aは、グローワの研究室に、頻繁に顔を出すようになった。
「また来たのか」
グローワが、机に広がる資料を片付けながら言った。
「他に、することがない」
勇者Aが、椅子に腰を下ろした。
「英雄様には、することが、いくらでもあるはずだ。各国からの招待状が、毎日のように届いていると聞くが」
「断ってる」
「全部?」
「全部」
グローワは、小さく息を吐いた。
「お前は、変わった男だな」
「そうか」
「歴代の召喚者の中で、最も優れた力を持ち、最も多くを犠牲にし、最も多く与えられる立場にある。だが、お前は、それをすべて、要らないと言う」
「欲しいものが、違うだけだ」
「何が、欲しい」
グローワが聞いた。
勇者Aは、しばらく、黙っていた。
そして、静かに言った。
「答えが、欲しい」
「答え?」
「俺たちは、何のために、ここに呼ばれたのか。仲間は、何のために死んだのか。その答えを、まだ、見つけられていない」
「魔王を討伐した。それが、答えではないのか」
「それだけなら、もっと早く、楽になれたはずだ」
勇者Aが、グローワを見た。
「でも、楽になれない。何かが、まだ、終わっていない気がする」
その言葉に、グローワは、何も返せなかった。
ただ、自分の研究資料の中に、彼の手伝いができる場所を、探すことにした。
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それから、勇者Aは、グローワとともに、世界各地の門の調査を始めた。
「門は、すでに、いくつも存在している」
グローワが、地図を広げながら説明した。
「規模は小さく、不安定で、ほとんどは、自然に閉じている。これまで、大きな問題にはなっていない」
「それを、お前は、どう見ている」
「興味深い現象だとは思っている。だが——」
「だが?」
「いずれ、増えるとは思う。だが、何百年も先の話よ」
グローワが、そう言った。
当時の彼女にとって、それは、慎重な、しかし、まだ余裕のある見立てだった。
勇者Aは、その言葉に、何も言わなかった。
ただ、地図に描かれた、いくつもの小さな印——門の存在を示す印を、長い間、見つめていた。
調査を進めるうちに、勇者Aだけが、奇妙な感覚を覚えるようになった。
門に近づくと、声が聞こえる。
誰のものともわからない、断片的な声。
記憶の欠片のようなものが、頭の中に、直接流れ込んでくる感覚があった。
「お前にも、聞こえるか」
ある夜、門の調査を終えた帰り道で、勇者Aが、グローワに聞いた。
「何が」
「声だ。門の近くで」
グローワは、首を振った。
「私には、何も聞こえぬ」
「そうか」
勇者Aは、それ以上、深くは語らなかった。
だが、グローワは、その時、初めて、彼の中に、自分には理解できない何かが、芽生え始めていることに気づいた。
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調査が進むにつれ、勇者Aが感知する「声」は、次第に、明確な情報を持つようになっていった。
世界は、一つではない。
複数の世界線が、かつて、何らかの理由で、一つの場所に重なり合った。
それが、今、この世界の正体だった。
人間。
魔族。
エルフ。
ドワーフ。
それぞれが、元々、別々の世界の住人だった。
門は、その重なりの境界に生じる、傷のようなものだった。
そして、その傷は、時間とともに、広がり続けている。
世界は、分裂している。
崩壊が、すでに、始まっている。
その確信が、勇者Aの中で、日を追うごとに、強くなっていった。
「グローワ」
ある日、勇者Aが、研究室で言った。
「お前にも、見せたい」
「何を」
「俺が、見ているものを」
グローワは、その提案を、慎重に受け止めた。
彼の能力に、何らかの理論的な裏付けがあるのなら、それを共有することは、研究として、価値があるはずだった。
しかし、実際に、彼の感知能力を借りて、門の奥を覗いた時——グローワは、言葉を失った。
無数の世界の残滓。
かつて存在した、無数の生命の記憶。
それらが、絶え間なく、軋み、重なり、すり減っていく様子。
「これが……」
グローワが、震える声で言った。
「お前が、見ているものか」
「そうだ」
勇者Aが、静かに答えた。
「これが、ずっと、見えている」
「いつから」
「魔王を討伐した、あの日からだ」
グローワは、その時、初めて、彼が抱えているものの重さを、理解した。
それは、研究データとして扱えるような、単純なものではなかった。
彼は、ずっと一人で、世界の崩壊の前兆を、見続けていたのだ。
「いずれ、何百年も先の話だと、お前は言った」
勇者Aが、グローワを見た。
「だが、俺には、そんな時間はないように見える」
「なぜ、そう思うのか」
「軋みが、強くなっている。少しずつ、確実に。お前たちの理論が、追いついていないだけだ」
その言葉に、グローワは、すぐには反論できなかった。
彼の能力が、自分たちの理論を超えた領域を、すでに観測している可能性を、否定できなかった。
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数日後、勇者Aは、一人で、山岳地帯へ向かった。
魔族領との境界。
かつて、若いノクトと出会った、あの場所だった。
そこで、再び、彼と再会した。
ノクトは、以前よりも、少し落ち着いた様子で、岩の上に座っていた。
人間に対する明確な敵意は、もう、その目には見られなかった。
「また来たのか、勇者」
「他に、話せる相手がいない」
勇者Aが、苦笑した。
「グローワには、話せないことがある」
「俺に、何を話す」
「お前ならどうする、と聞きたい」
ノクトが、わずかに眉を寄せた。
「何をだ」
「世界が、壊れていたら」
その問いに、ノクトは、少し考えてから答えた。
「壊れているなら、滅びる。それが、自然の道理だろう」
「直せるなら?」
「直せるなら——直せ」
ノクトが、即座に答えた。
「だが、何の話をしている」
勇者Aは、しばらく、答えなかった。
遠くの空を見つめ、それから、静かに言った。
「全部、壊してでも?」
その言葉に、ノクトは、初めて、表情を変えた。
「どういう意味だ」
「世界を、一度、壊す。今ある形を、すべて崩す。それで、本当の意味で、世界が一つに戻るなら——それは、救いか? それとも——」
「お前は、何を考えている」
ノクトの声に、警戒の色が混じった。
「俺にも、まだ、わからない」
勇者Aが、答えた。
「ただ、そういう可能性が、見えている。今のままでは、いつか、すべてが崩れる。それなら、いっそ——」
「やめろ」
ノクトが、初めて、強い口調で言った。
「お前は、勇者だ。世界を救う者だ。壊す側に、立つ者ではない」
「救う、というのが、どういう形を指すのか、俺には、もう、わからなくなっている」
その言葉に、ノクトは、何も返せなかった。
ただ、その瞬間、ノクトの中に、初めて、明確な恐怖が生まれた。
戦場で、どれほど強大な相手と対峙しても、感じたことのない恐怖だった。
それは、力に対する恐怖ではなかった。
正しさを失っていく者の、静かな変化に対する、恐怖だった。
「お前は……」
ノクトが、低く呟いた。
「変わってきている」
勇者Aは、それに対して、何も否定しなかった。
ただ、寂しそうに、笑った。
「そうかもしれない」
その日から、ノクトは、彼と話す回数を、少しずつ、減らしていった。
だが、視線だけは、決して、彼から離さなかった。
何かが起きる前に、それを止められないか。
ノクトの中で、その思いだけが、静かに、深く、根付いていった。




