外伝:鳴り響いた『銀糸』と、寡黙な職人の涙
外伝です。
カンナで木材を削るシュッ、シュッという音が、薄暗い工房の中に響いている。
真新しい木の香りと、古いニスの匂いが混ざり合うこの場所が、俺の数十年来の居場所だった。
「……ふむ。少し削りすぎたか」
分厚い眼鏡の奥で目を細め、リュートのネックの滑らかさを指先で確かめる。
外からは、復興作業に汗を流す男たちの威勢のいい声や、荷馬車が行き交う音が聞こえてくる。スタンピードの傷跡はまだ残っているが、この街は驚くほどの生命力で息を吹き返しつつあった。
そして、その喧騒のさらに奥。
西の噴水広場の方角から、風に乗って微かに届く、透き通るような旋律。
あの見たこともない異国の六弦楽器が奏でる、極上の音色だ。
俺はカンナを置き、作業台の傍らにある古びた木箱に視線を落とした。
今はもう空っぽになった、掌に収まるほどの小さな箱。
そこにはつい数ヶ月前まで、俺の三十年間に及ぶ『後悔』が封印されていた。
* * *
三十年前。俺は楽器職人ではなく、そこそこ名の知れた冒険者だった。
剣の腕には自信があったし、何より俺には、帰りを待ってくれている最愛の妻がいた。彼女はよく笑い、そして歌うことが大好きな、太陽のような人だった。
だが、流行り病が彼女の身体と心を蝕んだ。
熱は下がり命は取り留めたものの、その後遺症で彼女は心を固く閉ざし、大好きだったはずの「声」を失ってしまったのだ。
『精神の安定と治癒には、魔境の奥に生息する銀糸蜘蛛の糸が効く』
そんな眉唾物の噂を耳にした俺は、半ば狂ったように単身で死地へと乗り込んだ。
仲間の制止も振り切り、満身創痍になりながら、文字通り命と引き換えにして、白銀に輝く数本の糸を小箱に収めて街へと帰還した。
――だが、遅かったのだ。
俺が留守にしている間に、彼女は自ら命を絶ってしまった。
声を失い、暗闇の中でただ一人怯えていた彼女の絶望に、俺は気づいてやれなかった。魔境へなど行かず、ただ傍で手を握ってやればよかったのだ。
俺は剣を捨てた。
誰にも使われることのなかった『銀糸蜘蛛の糸』を小箱に封印し、彼女が好きだった楽器を直す職人として、死んだように余生を過ごすことを選んだ。
* * *
それから三十年の月日が流れ、俺の工房に一人の少女がやってきた。
言葉が通じない異邦人。ボロボロの服を着て、異国の壊れた楽器を抱きしめていたその小さな少女の瞳を見た瞬間、俺の心臓は激しく波打った。
(……ああ。昔の妻と、同じ目をしている)
世界から拒絶され、分厚い壁の向こう側で膝を抱えて震えているような、絶望の目。
彼女もまた、何らかの理由で「声」を失っていることはすぐに分かった。
だから俺は、三十年ぶりにあの小箱を開けたのだ。
銀糸蜘蛛の弦は、驚くほどあの異国の楽器に馴染んだ。
金などどうでもよかった。ただの自己満足だ。俺が救えなかった妻の代わりに、せめてこの少女の心が、この弦の響きで少しでも癒やされればいい。
そう思って、あの楽器を少女に持たせたのだ。
……だが、俺は甘かった。
あの少女は、俺が考えていたよりもずっと、ずっと強かったのだ。
スタンピードが街を襲った夜。
避難所の暗闇の中で震えていた俺の耳に、それは届いた。
数万の魔物の咆哮を切り裂いて、西の門から響き渡った、不器用で、掠れていて、それでも誰かを守ろうとする必死な『声』。
そして、その歌声と完全に共鳴し、街全体を黄金の光で包み込んだ、銀糸の波動。
『倒れても、何度でも、私があなたの傷を癒やすから!』
意味の分からない異国の言葉。
けれど、その声に込められた強烈な祈りは、痛いほどに伝わってきた。
「……あぁ、ああ……」
避難所の冷たい床の上で、俺は三十年ぶりに声を上げて泣いた。
俺が持ち帰った糸は、無駄ではなかった。
あの弦は三十年の時を超えて、一人の少女の『誰かを救いたい』という祈りと結びつき、何万人もの命を繋ぎ止める奇跡の光となったのだ。
俺の胸の奥にずっと刺さっていた冷たい氷が、彼女の歌声によって、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
* * *
カランコロン、と。
工房のドアベルが鳴り、俺はゆっくりと過去の記憶から現実へと引き戻された。
「……おう。いらっしゃい」
わざとぶっきらぼうな声を出して振り返ると、そこには赤いベルベットのギターケースを背負った少女と、その後ろを偉そうについて歩く一匹の黒猫が立っていた。
少女は俺の顔を見るなり、花が咲いたような、それはそれは綺麗な笑顔を浮かべた。
「しぇ、い、ら(ありがとう)……おじい、さん」
辿々しい、けれど確かな彼女自身の声。
その言葉を聞いた瞬間、俺の目頭が再び熱くなりかけたが、なんとか咳払いで誤魔化した。
「……ふん。いい音が出るようになったじゃねえか。だが、いくら魔法の弦とはいえ、無茶な弾き方をすればいつかは切れる。……手入れの仕方を教えてやるから、そこに座りな」
俺がそう言うと、少女は嬉しそうに頷き、ギターケースを開けた。
足元では、相変わらず得体の知れないオーラを纏った黒猫が、『俺の楽士の楽器だ、せいぜい丁寧に扱えよ、人間』とでも言いたげな琥珀色の瞳で俺を睨みつけている。
俺は小さく鼻で笑い、職人の顔に戻ってギターのネックを手に取った。
三十年間の呪縛は、もうない。
これからはただの楽器職人として、この街を救ってくれた小さな恩人の『音』を、生涯をかけて守り抜いてやろう。
外からは、今日も平和で温かい、新しい一日の喧騒が聞こえていた。




