第29話:私はもう、逃げない。傷ついた人たちを守るために
「おい、そこの子供! 死にに行く気か! 引き返せ!」
「西はもうダメだ! 逃げるんだよ!」
私とすれ違う大人たちが、血相を変えて怒鳴りつけてくる。
親切心から引き留めようとしてくれている手もあったけれど、私は身をよじってそれを振りほどき、ただひたすらに西の門を目指して走った。
息が苦しい。背中のギターケースが、走るたびにドスンドスンと背中を叩く。
空気を吸い込むたびに、鼻腔を突く焦げ臭さと、むせ返るような鉄の匂いが濃くなっていくのが分かった。
ズズンッ……! ゴォォォンッ!!
足元を激しく揺らす地鳴り。
悲鳴と怒号が入り交じる濁流の中を逆行するのは、まるで強風に向かって歩いているような途方もない労力が必要だった。
『……おい人間。息が上がっているぞ。そんなペースでは、着く前に倒れる』
私のすぐ横を、黒猫が全く同じペースで並走していた。
パニックになって逃げ惑う人々の足や、散乱する荷車や瓦礫を、黒猫は音もなく滑るように避けていく。
その琥珀色の瞳は、前方の燃え盛る空を冷静に見据えていた。
『言っておくが、俺はお前を守る結界は張るが、お前を背負って走ってはやれんからな。自分の足で歩け』
冷たい言葉に聞こえるけれど、その実、私の足元に危ない瓦礫があれば、黒猫がスッと前足で弾き飛ばして道を切り開いてくれているのだ。
「……っ、しぇ、い、ら」
私は荒い息を吐きながら、声にならない声で相棒に感謝を伝えた。
怖くないと言えば嘘になる。足はガクガクと震えているし、心臓は口から飛び出しそうなほど早鐘を打っている。
でも、一度踏み出した足は、絶対に止めない。
やがて、逃げ惑う人々の波が途切れ始めた。
誰もいなくなった大通りの先。立ち上る黒煙の向こう側に、ついに西の正門の広場が見えてきた。
「……あぁっ」
私は、その光景を前にして、思わず足を止めて息を呑んだ。
街を囲んでいた頑丈な石の城壁は、まるでビスケットのように無惨に打ち砕かれていた。
重い鉄の扉はへし曲がり、そこから、文字通り「黒い津波」のように、悍ましい魔物の群れが街の中へとなだれ込んできている。
ゴブリン、オーク、魔狼。
私が図鑑でしか見たことがないような、恐ろしい異形の怪物たち。
そして、その絶望的な波の最前線で。
たった数人だけ残ったボロボロの冒険者たちが、必死に壁を作って持ちこたえていた。
「下がれっ! 後衛はもう魔力が尽きてる! 早く東へ逃げろ!」
血を吐くような怒号。
見覚えのある、巨大な大剣。
全身を返り血と自分の血で赤く染め上げた、ガルドさんの姿があった。
「ガルド! お前ももう限界だ、一緒に退くんだ!」
「馬鹿野郎……ここで俺たちが退いたら、この大通りを一気に抜けられて、街の連中が喰い殺されるだろうが!」
ガルドさんの左腕は、ありえない方向に曲がってだらりと垂れ下がっていた。
残った右腕だけで身の丈ほどもある大剣を握りしめ、襲いかかってくるオークを次々と薙ぎ払っている。
だが、その動きは明らかに鈍っていた。
何度も膝が折れそうになり、その度に剣を杖にして無理やり立ち上がっているのが、遠目からでもはっきりと分かった。
「ウガァァァァッ!!」
魔物の群れの中から、一際巨大な咆哮が轟いた。
他の魔物たちを蹴散らすようにして前に出てきたのは、四メートル近い巨体を持つ岩の化け物――ロック・トロールだった。
トロールは濁った目で満身創痍のガルドさんを睨み下ろすと、丸太のような両腕を高く振り上げた。
「……くそっ。ここまでかよ」
ガルドさんは、逃げることを諦めたように、フッと力なく笑った。
折れた腕では、あのトロールの攻撃を防ぐことも、避けることもできない。
彼は、背後にいる仲間たちを庇うように両足を踏ん張り、死を覚悟した目を閉じた。
「ダメっ……!!」
私は、気づいた時には叫ぼうとしていた。
声は出ない。ヒュッという空気が喉から漏れただけだ。
それでも、私の体は勝手に動いていた。
『……ふん。行くのか』
黒猫の声を背中で聞きながら、私は崩れた石畳を蹴って走り出した。
炎の熱さも、魔物の恐ろしい咆哮も、もう耳に入らなかった。
ただ、あの人を死なせたくない。
いつも優しく笑ってくれた、この街の温かい人たちを、絶対に失いたくない。
「……っ!」
私は、後退しようとしていた冒険者たちの脇をすり抜け、ガルドさんとトロールの間に広がる、瓦礫の山へと飛び乗った。
「なっ……!? お、お嬢ちゃん!?」
私の姿に気づいたガルドさんが、目を見開いて絶叫した。
「馬鹿野郎、なんでこんな所に! 逃げろォッ!!」
ガルドさんの悲痛な叫び声。
頭上には、私とガルドさんをまとめて粉砕しようと、トロールの巨大な拳が振り下ろされようとしている。
絶体絶命の戦場のど真ん中。
私は、瓦礫の一番高い場所で振り返り、ガルドさんに向かって泣き笑いのような笑顔を向けた。
(大丈夫。もう、逃げないから)
背中のギターケースを、勢いよく前に回す。
カチャリ、と金具を外し、中から生まれ変わった私の相棒を引っ張り出した。
赤いベルベットのケースはそのまま床に放り捨て、私は銀糸の張られたギターをしっかりと構えた。
振り下ろされる巨腕の風圧が、私の髪を激しく揺らす。
私は深く、深く息を吸い込み、弦の上に置いた指先に、ありったけの願いを込めた。
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次回お楽しみに。




