第27話:【黒猫の裏側】人間の意地は嫌いじゃない。だが、少し数が多すぎるな
(……なんと悲しく、そして美しい音色か)
俺は地下貯蔵庫の冷たい床で、静かに目を閉じていた。
娘の指先から紡がれる、銀糸蜘蛛の弦の響き。
普段、広場で弾いているような陽気なマタタビの音色ではない。
それは血と絶望に満ちたこの地下室の空気を、ほんの少しだけ浄化するような、極限まで澄み切った『祈り』の音だった。
銀糸に宿る精神安定の魔力が、娘の悲痛な願いと共鳴し、瀕死の冒険者たちの痛みを麻痺させていくのが分かる。
(だが、限界だな)
俺は薄く目を開け、血だまりの中に横たわる冒険者たちを見つめた。
娘の木箱の音には、確かな力がある。精神を癒やし、魔力を安定させる極上の波動だ。
しかし、物理的に引き裂かれた肉体を繋ぎ合わせ、失われた血液を補うような『治癒魔法』の力は、悲しいかな、備わっていない。
「ごふっ……!!」
眼帯の男が血を吐き、娘が絶望に顔を歪めて演奏を止めた。
ボロボロと大粒の涙をこぼし、自分の非力さを呪うように木箱を抱きしめる俺の専属楽士。
(……阿呆が。お前の音色は十分に彼らの心を救った。泣く必要などどこにもない)
俺は苛立ちを隠すように、尻尾の先をパタンと床に打ち付けた。
そもそも、こんな状況を招いたのは外で戦っている人間の防衛部隊の貧弱さが原因だ。
俺は娘に気づかれないよう、意識の奥底で『魔力探知』の網を地上の西の門へと広げた。
(……ほう)
探知網から伝わってくる戦況は、絶望的の一言に尽きた。
数万に膨れ上がったスタンピードの群れが、城壁の西側を黒い津波のように覆い尽くしている。
対する人間の防衛戦力は、すでに数えるほどしか残っていない。
だが、驚いたことに、門はまだ突破されていなかった。
(あの筋肉ダルマ……ガルドとか言ったか。まだ生きて門の前に立っているのか)
俺の探知は、無数の魔物たちのど真ん中で、消えかけの蝋燭のように揺らぐ一つの大きな命の灯火を捉えていた。
両腕の骨が砕け、全身から血を流しながらも、巨大なロック・トロールの足止めをたった一人で続けている男。
何度殴り飛ばされても、その度に折れた剣を杖代わりにして立ち上がり、門を背にして絶対に退こうとしない。
限界などとうに超えているはずだ。だというのに、その精神力だけでトロールの足首に食らいついている。
(……ふん。人間の意地というのも、なかなかどうして、嫌いじゃない)
俺は暗闇の中で小さく鼻を鳴らした。
あの筋肉ダルマは、いつも娘に不器用な差し入れを持ってきた男だ。
俺の極上マタタビタイムに無粋な言葉を投げかけた罪はあるが、娘への好意に嘘はなかった。
(あの男が死ねば、防衛線は崩壊する。街は火の海になり、この地下室もいずれ魔物の手に落ちるだろう)
(……仕方ない。俺の楽士をこれ以上泣かせないためにも、少しばかり運動をしてやるか)
俺が本気を出せば、数万の魔物の群れなど、ほんの一欠伸する間に消し飛ぶ。
『奥義・広範囲肉球スタンプ(メテオ・ストライク)』でもぶちかまして、西の荒野ごと更地にしてやろうか。
そう思い、俺がゆっくりと立ち上がろうとした、その時だった。
「……っ」
俺の目の前で、涙を拭った娘が立ち上がった。
そして、自分の背丈ほどもある赤いベルベットの木箱を背負い直し、重い地下室の扉の方へと振り返ったのだ。
『……おい。どこへ行くつもりだ、人間』
俺は咄嗟に娘の前に立ち塞がり、低い声で威嚇した。
『言ったはずだ。俺の結界の中にいれば、お前だけは助かる。外へ出れば、ただの餌だぞ』
俺の言葉は嘘ではない。
今、あの西の門の地獄へこの無力な娘が向かえば、トロールの足音一つで踏み潰されるだろう。
だが、娘は逃げなかった。
声の出ない喉を震わせ、俺の琥珀色の瞳を、真っ直ぐに、強い意志の宿った瞳で見つめ返してきたのだ。
(私は、行くよ)
声にはならない。だが、その瞳の奥にある決意の炎が、俺の魔力核をビリリと震わせた。
(……この馬鹿娘が)
俺は、少しだけ目を細めた。
元の世界で心を壊し、声すら失い、ただ怯えて隠れることしかできなかった臆病な少女。
それが今、血の匂いと死の恐怖が渦巻く戦場へ、自らの意志で向かおうとしている。
誰かを助けるために。大好きな人間たちを守るために。
(……本当に、世話の焼ける楽士だ)
俺は小さくため息をつき、威嚇するために逆立てていた毛をスッと下ろした。
娘の決意は固い。俺がここで止めたところで、這ってでも外へ向かうだろう。
ならば、俺がすべきことは一つだけだ。
『……好きにしろ。だが、俺の歩くペースから遅れるなよ』
俺は娘の横をすり抜け、先導するように地下室の扉へと向かって歩き出した。
この娘が戦場に立つというのなら。
俺はその後ろを歩き、この世のすべての絶望から、こいつの命を完璧に守り抜いてやるだけだ。
俺の肉球は、そのためにあるのだから。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【☆☆☆☆☆】をいただけますと幸いです。
次回お楽しみに。




