第26話:震える指先。このギターの音色は、命を繋げない
地下貯蔵庫の冷たい空気は、血の匂いと絶望の溜め息で重く淀んでいた。
「うぅ……がはっ……」
「しっかりしておくれ! 誰か、綺麗な布をもう一枚!」
女将さんの悲痛な声と、床に寝かされた冒険者たちの苦しげな呻き声が響く。
運び込まれた常連のおじさんたちの傷は、素人目に見ても致命的だった。
血を吸って赤黒く染まった包帯。みるみるうちに土気色に変わっていく顔色。
私は、ゆっくりと立ち上がり、自分の木箱の上に置かれたギターケースへと歩み寄った。
『……人間』
足元で、黒猫が短く鳴いた。
止めるような、案じるような、不思議な響きを持った声。
私はそれに答えることなく、カチャリ、と冷たい金具を外してケースの蓋を開けた。
新しく張り替えたばかりの、銀糸蜘蛛の弦。
お爺さんが丁寧に磨き上げてくれた、艶やかな木のボディ。
それを両手で抱え上げ、私は再び木箱の上に腰を下ろした。
私には、回復魔法は使えない。
魔物を切り伏せる剣も振れないし、ポーションを作る知識もない。
私にできることは、ただ一つだけだ。
私は震える右手を持ち上げ、そっと弦の上に置いた。
目を閉じ、深く息を吸い込む。血の匂いが肺を満たしたが、それをごまかすように、ゆっくりと指を弾いた。
ポロン……。
暗く冷たい地下室に、場違いなほど澄み渡った、美しい和音がこぼれ落ちた。
銀糸の弦が放つ微かな精神安定の魔力と、木の温もりが混ざり合い、波紋のように空間へと広がっていく。
「あ……」
「この、音は……」
治療の手を動かしていた女将さんが、ハッとして顔を上げた。
怯えて泣いていた子供たちが、涙で濡れた目を丸くして私を見つめる。
私は、過去の自分を慰めるために弾いていた、一番優しくて、一番穏やかな子守唄のようなメロディを紡ぎ始めた。
どうか、痛みが引きますように。
どうか、苦しいのが少しでも和らぎますように。
声の出ない喉の奥で必死に祈りながら、一本一本の弦を丁寧に、慈しむように弾く。
ギターの振動が私の胸を震わせ、その祈りが音となって、傷ついた冒険者たちの上に降り注いでいった。
「……ふぅ……」
奇跡のような瞬間だった。
苦痛に顔を歪め、浅い呼吸を繰り返していた眼帯のおじさんの顔から、スッと険しさが抜けたのだ。
激しい痛みが遠のいたのか、彼らは微かに目を開け、私の方を見て、安心したようにフッと微笑んだ。
「……お嬢ちゃんの、音だ……。あぁ、なんて綺麗な……」
「……痛みが……消えていくみたいだ……」
血まみれの冒険者たちが、掠れた声で呟く。
地下室を支配していた死の恐怖が、ほんの少しだけ薄れ、穏やかな空気が満ちていく。
私の音楽が、彼らの心に届いている。
痛みを和らげ、安らぎを与えられている。
(よかった……。私でも、少しは役に……!)
そう思って、さらに心を込めてストロークしようとした、その時だった。
「ごふっ……!!」
突然、眼帯のおじさんが大きく体を跳ねさせ、口から大量の赤黒い血を吐き出した。
「いやっ!? 血が、血が止まらないよぉっ!」
女将さんが悲鳴を上げ、必死に傷口を布で押さえつける。
しかし、傷口から溢れ出す血の勢いは止まるどころか、床に広がって大きな水たまりを作っていく。
私は、バチンッと弦を弾く手を止めてしまった。
「あ……」
ギターの美しい余韻が消え去った地下室に、再び凄惨な現実が舞い戻ってくる。
いくら彼らの心が安らいでも、どれだけ痛みが麻痺しても。
引き裂かれた肉体は元には戻らない。流れた血は、体の中には帰っていかないのだ。
音楽は、目に見えない心は癒やせても、物理的な『命』を繋ぎ止めることはできない。
その残酷すぎる真実が、私の胸を鋭い刃で抉った。
「……っ、う、あぁ……っ」
ギターを抱えたまま、私はボロボロと大粒の涙をこぼした。
無力だ。
私の音色は、私の『声』代わりのこの楽器は、ただの気休めでしかない。
今まさに命を落とそうとしている人たちを前にして、こんな木箱を鳴らしたところで、何の意味があるというのか。
(ガルドさんは……)
今この瞬間にも、西の門で一人、絶望的な戦いを続けているガルドさんの姿が頭に浮かんだ。
折れた腕で大剣を握り、トロールの巨体に立ち向かっている。
ここで私が綺麗な音楽を奏でていても、あの人は死んでしまう。
「……っ!」
私は袖口で乱暴に涙を拭い、ギターを抱きしめたまま立ち上がった。
『……おい。どこへ行くつもりだ、人間』
足元から、黒猫が私の行く手を阻むようにスッと立ち塞がった。
その琥珀色の瞳は、今までで一番冷たく、そして鋭く私を射抜いていた。
『言ったはずだ。俺の結界の中にいれば、お前だけは助かる。外へ出れば、ただの餌だぞ』
黒猫の言葉は正しい。
何の力もない私が、魔物の溢れる外へ出たところで、犬死にするだけだ。
でも。
ここで自分の無力さに泣きながら、大好きな人たちが死んでいくのを待つなんて、絶対に嫌だ。
私は、声の出ない喉を震わせ、真っ直ぐに黒猫の目を見つめ返した。
(私は、行くよ)
声にはならない。けれど、私の瞳に宿った決意の炎は、きっとこの小さな相棒に伝わっているはずだ。
私はギターケースを背中に背負い直し、地下室の重い木の扉へと振り返った。
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次回お楽しみに。




