第20話:優しい日常の裏で、街に迫る「スタンピード(魔物暴走)」の足音
新しい『銀糸蜘蛛』の弦を張ったギターの音色は、何日経っても色褪せることなく、私の日常を鮮やかに彩り続けていた。
「シェイラ、お嬢ちゃん。今日も本当に綺麗な音だねぇ」
「ああ。この音を聴くと、胸のつかえがスッと取れるみたいだ」
いつもの噴水広場。
私の演奏が終わるたびに、集まった人たちが笑顔で声をかけてくれる。
私は立ち上がり、大きく頷きながら、声にならない声で「しぇ、い、ら」と何度も口を動かして感謝を伝えた。
完璧な発音には程遠いけれど、私の気持ちはしっかりと彼らに届いている。
異世界に来て、もうすぐ一ヶ月。
言葉も分からず、声も出せず、ただ怯えていた私が、今ではこの街の風景の一部になっている。
朝は女将さんの美味しいスープで温まり、昼間は広場でみんなの笑顔に囲まれてギターを弾く。
夕方は冒険者ギルドで、傷ついた人たちに寄り添うようなメロディを紡ぐ。
この平和で優しい時間が、ずっとずっと続けばいいのに。
私は心からそう願っていた。
けれど。
その日、街の空気はどこか少しだけ違っていた。
「……?」
私はギターを弾きながら、ふと周囲を見渡して小首を傾げた。
お昼を過ぎた頃から、広場を行き交う人々の足取りが、なんだかひどく急ぎ足になっている気がしたのだ。
いつもなら私の演奏を聴いてのんびりしていく商人たちが、険しい顔をして荷車を引いていく。
犬や猫の耳を持った子供たちも、親に手を引かれて足早に家路についていた。
それに、今日は常連の冒険者たちがあまり姿を見せない。
『……ふん。どうやら、この街の阿呆どももようやく事態に気づき始めたようだな』
足元で丸くなっていた黒猫が、薄く目を開けて空を見上げた。
その琥珀色の瞳は、いつものようにリラックスしたものではなく、ひどく冷たく、鋭い光を帯びていた。
「……?」
私が不思議に思って黒猫の視線を追うと、西の空――城壁の向こう側に広がる山脈のあたりに、どんよりとした黒い雲のようなものが集まっているのが見えた。
ただの雨雲ではない。なんだか、空気がチリチリと焦げるような、嫌な胸騒ぎがする。
「おう、お嬢ちゃん。まだこんなところにいたのか」
不意に、重い金属の擦れる音がして、野太い声が降ってきた。
振り返ると、大柄な冒険者のガルドさんが立っていた。
でも、いつものような陽気な笑顔はない。
全身を分厚い鉄の鎧で固め、背中には傷だらけの巨大な両手剣。その顔は、私が今まで見たことがないほど険しく、血走っていた。
「あ……」
私が驚いて立ち上がると、ガルドさんは私の頭に大きな手をポンと置いた。
力強い、けれど少しだけ震えているような手だった。
「今日はもう、宿に帰んな。女将さんのところから出ちゃダメだぞ」
ガルドさんは身振り手振りを交えながら、私に『早く帰れ』『安全な場所にいろ』と懸命に伝えてくる。
その切羽詰まった様子に、私の心臓がドクンと嫌な音を立てた。
何か、とんでもないことが起きようとしている。
言葉が分からなくても、街を包み込む異様な緊張感だけで、それだけは痛いほどに理解できた。
「俺たちは、ちょっくら西の門を防衛しに行ってくる。お嬢ちゃんの音楽が聴けねえのは残念だが、まあ……俺たちが帰ってくるまで、お預けだな」
ガルドさんは無理に作ったような笑顔を浮かべると、私のギターケースに銀貨を一枚だけポイッと投げ入れた。
そして、振り返ることなく、他の重武装した冒険者たちが集まる西の城壁の方角へと走っていった。
私は、彼の大きな背中が人混みに飲まれて見えなくなるまで、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
* * *
【黒猫の視点】
(……チッ。やはり、あのオーガの群れはただの前兆に過ぎなかったか)
俺はギターケースの中から身を乗り出し、西の空を覆い尽くそうとしている淀んだ魔力の雲を睨みつけた。
街の人間どもはパニックになりかけている。
無理もない。西の山脈からこの街に向けて、何千、何万という魔物たちが雪崩を打って押し寄せてきているのだから。
『魔物暴走』。
数年に一度、魔素の異常な偏りによって発生する、魔物たちの大移動。
それが、よりによってこの街を真っ直ぐに狙って進軍してきている。
俺の鼻は、すでに遠くから漂ってくる血と泥と、無数の獣の吐息の匂いをはっきりと捉えていた。
(……この街の防衛力では、到底持ちこたえられまい)
先ほど走っていったガルドという筋肉ダルマや、ギルドの連中がどれほど奮闘しようと、数の暴力の前には半日と持たずに門は突破されるだろう。
街は火の海になり、あの温かいスープを作る女将も、差し入れを持ってきた冒険者どもも、すべて魔物の胃袋に収まることになる。
(だが、俺には関係のないことだ)
俺の使命は、ただ一つ。
この世界で唯一、俺の魔力核を癒やす極上のマタタビ――あの娘の命と、その木箱を守り抜くことだけだ。
いざ街が陥落しそうになれば、俺が娘を背中に乗せて、空でも飛んで安全な土地へ逃げればいい。
この程度のスタンピード、俺が本気を出せば全てを星にしてやることも可能だが、わざわざ人間のためにそこまで労力を割く義理はない。
そう思って、俺は娘の顔を見上げた。
「……っ」
娘は、ギュッと両手を胸の前で握りしめ、ガルドが消えていった西の空を、ひどく不安そうな、そして悲しそうな目で見つめていた。
その瞳は小さく震え、今にも泣き出しそうに揺れている。
(……阿呆が。そんな顔をするな)
俺の胸の奥で、微かな苛立ちがチリッと音を立てた。
俺がどれだけ完璧に娘を守ろうとも、この娘は、この街の人間たちのことが大好きなのだ。
ガルドや、宿屋の女将や、果物屋の老婆が魔物に引き裂かれれば、この娘は間違いなく心を壊す。
娘の心が壊れれば、二度とあの澄み渡るような極上の音色は響かなくなる。
『……おい人間。そんなところで突っ立っているな』
俺は娘のズボンの裾を咥え、軽く引っ張った。
『あの筋肉ダルマの言う通りだ。今日はもう宿へ戻るぞ。……俺が、お前だけは絶対に守ってやる』
俺の言葉の意図が伝わったのかは分からない。
娘はハッとして私を見下ろし、それからギターをケースにしまうと、逃げるように広場を後にした。
* * *
宿屋に戻ると、一階の酒場には誰もおらず、女将さんが青ざめた顔で窓の鎧戸をガタンガタンと閉めているところだった。
私を見ると、女将さんはホッとしたように駆け寄り、私を抱きしめてくれた。
その体は、ひどく震えていた。
部屋に戻り、ベッドの上にギターケースを下ろす。
窓の外は、まだ昼下がりだというのに、黒い雲のせいで夕方のように薄暗くなっていた。
「……」
私はベッドの端に座り、両手で膝を抱え込んだ。
怖い。
森に放り出された時とは違う、街全体を飲み込むような得体の知れない恐怖が、ジワジワと肌にまとわりついてくる。
ガルドさんたちは、無事だろうか。
みんな、あの恐ろしい何かに立ち向かっているのだろうか。
何もできない自分が、ひどくもどかしかった。
声が出せれば。魔法が使えれば。剣が振れれば。
私にあるのは、この古いギターだけなのに。
その時だった。
ゴォォォォォォォォン……ッ!!!
ゴォォォォォォォォン……ッ!!!
街の空気を震わせるほどの、重く、低く、悲痛な鐘の音が鳴り響いた。
それは、街の非常事態を知らせる、大聖堂の警鐘。
「きゃあっ!」
外の通りから、人々の悲鳴と怒号が聞こえ始める。
「来たぞ! 西の門に魔物の群れだ!」という、誰かの絶望的な叫び声。
ついに、優しい日常が崩れ去る音がした。
私は震える手で、傍らにあったギターのネックをギュッと握りしめた。
赤と青の月が昇る前に、この街の最も長い、そして最も過酷な夜が始まろうとしていた。
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次回お楽しみに。




