第19話:【黒猫の裏側】安眠妨害は万死に値する。夜更けの魔物ワンパン狩り
新しく張り替えられたギターの弦は、夜の宿屋の小さな部屋でも、信じられないほど美しい余韻を響かせていた。
今日の夕方、冒険者ギルドでこの『銀糸蜘蛛』の弦を初めて弾いた時のことは、きっとずっと忘れない。
ジャーン、と一撫でしただけで、騒がしかったギルドが水を打ったように静まり返ったのだ。
深く、温かく、そしてどこまでも澄み渡るような和音。
ガルドさんたち常連の冒険者はもちろん、普段は私の演奏を遠巻きに見ているだけだった人たちまでが、涙ぐみながら拍手をしてくれた。
「お嬢ちゃんの音、なんだか神聖な魔法みたいに心に染み込んでくるぜ」と、ガルドさんは目を真っ赤にして笑っていた。
私はベッドの端に座り、月明かりに照らされて銀色に鈍く光る新しい弦を、指の腹でそっと撫でた。
絹のように滑らかで、指が全く痛くならない。
それに、なんだか弦自体が微かに温かいような気さえする。
『ふむ。その銀糸には微弱だが精神安定の魔力が宿っているからな。お前の優しい弾き方と合わさって、極上の相乗効果を生み出しているというわけだ』
床に置かれたギターケースの中から、黒猫が満足げな声を上げた。
赤いベルベットの上に丸くなり、目を細めて新しくなった木箱の香りを堪能しているようだ。
『今日のギルドでの演奏は、過去最高だったぞ。俺の魔力核も、いまだに心地よいゆらぎの中に漂っている……』
黒猫は大きな欠伸をして、前足で顔を洗う。
相変わらず偉そうな口調だけれど、私の音楽を誰よりも一番近くで聴いて、一番褒めてくれるのは、いつだってこの小さな相棒だった。
「……しぇ、い、ら」
私は声にならない声で、黒猫に向かって微笑みかけた。
『ふん。お前が俺に感謝するのは当然だ。さあ、夜も更けた。明日の演奏に備えて、さっさとその柔らかい布の上で眠れ』
黒猫が顎でベッドをしゃくるのを見て、私はクスッと笑いながらシーツに潜り込んだ。
窓の外には、静かな夜空と二つの月。
ギターが新しくなって、言葉も少しだけ伝えられるようになった。
明日はもっと、たくさんの人に私の音を届けたい。
温かい希望を胸に抱きながら、私はゆっくりと深い眠りへと落ちていった。
* * *
【黒猫の視点】
(……たまらん。この銀糸の余韻、木箱の反響、そして新しい保革油の香り)
俺は赤いベルベットの上で完全に脱力し、至福の微睡みへと沈み込んでいた。
今日のギルドでの演奏は、まさに神がかり的だった。あの娘の迷いのない心と、最高級の素材が組み合わさった結果だ。
(俺の専属楽士は、間違いなくこの世界で最高の音を紡ぐ。そしてその音を独り占めできるこの場所こそが、世界で最も尊い聖域なのだ)
喉の奥でゴロゴロと治癒の音を鳴らしながら、俺は意識を手放そうとした。
完璧な夜だ。何もかもが満たされている。
――ピクリ。
だが、極限までリラックスしていた俺の右耳が、微かな、しかし決定的な『異音』を拾い上げた。
(……風の匂いが、腐っているな)
俺は薄く目を開け、窓の外の暗闇を睨みつけた。
街の城壁の外、西の荒野の方角から、ひどく重くて鈍い足音が多数近づいてくる振動を感じる。
ただの野生動物ではない。強烈な血の匂いと、破壊衝動に満ちた魔力。
『闇夜のオーガ(ナイト・オーガ)』の群れだ。
身長三メートルを超える巨体に、丸太のような棍棒を持った凶悪な魔物。それがおよそ二十体、この街の西門を目指して真っ直ぐに進軍してきている。
(……チッ。なぜこんな夜更けに、オーガの群れなどが街に近づいてきているのだ)
普段なら、あのような大物はもっと遠くの山奥に生息しているはずだ。
何かに追われているのか、あるいは何かに操られているのか。
理由はどうでもいい。問題は、あの馬鹿力を持った巨鬼どもが街の門を叩けば、見張りの兵士がけたたましい警鐘を鳴らすということだ。
そうなれば街中が大騒ぎになり、ベッドで気持ちよく眠っている俺の楽士が、怯えて目を覚ましてしまう。
(俺の聖域に染み付いた極上の余韻を、あんな醜悪な鬼どもの足音で上書きされてたまるか)
俺は一切の音を立てずに立ち上がり、窓の隙間から夜の闇へと溶け込んだ。
安眠妨害は万死に値する。警鐘が鳴る前に、塵一つ残さず消し去ってやる。
西の荒野へ到達するのに、瞬き一回の時間も必要なかった。
俺は街の城壁から数キロ離れた荒野のど真ん中で、進軍してくる二十体のナイト・オーガの前に立ちはだかった。
「グルルル……? ナンダ、コノ小セェ黒イ影ハ……」
先頭を歩いていたオーガのリーダーが、足元にいる俺を見下ろして濁った目を瞬かせる。
人間の大人を丸呑みできるほどの巨大な口から、腐肉の臭いが漂ってきた。
「ゲハハッ! 一口サイズノ、夜食ダ!」
オーガが丸太のような棍棒を振り上げ、俺ごと大地を粉砕しようと力任せに振り下ろした。
もしこれが地面に激突すれば、轟音が街まで届いてしまう。
(……うるさい。静かにしろ)
俺は棍棒が激突する寸前、フワリと宙に浮き上がり、オーガの振り下ろした棍棒の先端にちょこんと着地した。
「ガ……?」
『お前らのその汚い足音と鳴き声が、俺の睡眠の妨げになる。音を立てずに死ね』
俺は伝説の魔獣としての魔力を、右の前足に極限まで圧縮した。
周囲の音が全て吸い込まれるような、絶対的な静寂の空間を作り出す。
これなら、どれだけ派手にぶっ飛ばしても、街には風の音一つ届かない。
『奥義・無音肉球スタンプ(サイレント・プレス)』。
俺が棍棒の上から、オーガの顔面に向かって軽く前足を押し当てた瞬間。
音のない爆発が荒野を包み込んだ。
「――――ッ!?」
悲鳴を上げる間もなく、先頭のオーガの巨体が空間ごと圧縮されたようにひしゃげ、そのまま背後の群れに向かって凄まじい速度で弾け飛んだ。
後続のオーガたちも、その理不尽な衝撃波に巻き込まれ、ドミノ倒しのように次々と大地にめり込んでいく。
ドゴォォォォォォンッ、という幻聴だけが俺の脳内で響く。
現実の荒野には、ただ静かな夜風が吹いているだけだ。
数秒後。
俺の目の前には、扇状に大きく抉り取られた荒野のクレーターと、完全に原型を留めていないオーガたちの残骸だけが転がっていた。
(ふん。俺の肉球の衝撃吸収と静音性能を舐めるなよ。赤子の寝息よりも静かな殺戮だ)
俺は前足の汚れをペロリと舐め落とし、満足げに鼻を鳴らした。
これで、今夜の安眠は完全に守られた。
だが、背を向けて街へ帰ろうとした時。
俺はふと立ち止まり、オーガたちが歩いてきた西の山脈の奥深くを睨みつけた。
(……おかしい。オーガの群れにしては、やけに統率が取れていた。それに、あいつらの背後から……もっと巨大で、おぞましい気配が膨れ上がってきているな)
ただの魔物の群れではない。
何千、何万という魔物たちが、一つの巨大な意志に導かれるように集結し始めている、ひどく嫌な匂いがした。
(……スタンピード(魔物暴走)か。面倒なことになりそうだ)
だが、俺が守るのはあの娘と、あの娘が奏でる極上のマタタビだけだ。
街の連中がどうなろうと知ったことではないが、あの娘の日常が脅かされるのなら、話は別だ。
(まあいい。どんな数が来ようと、俺の肉球フルスイングで全て星にしてやるまでのこと)
俺は再び影に溶け込み、音もなく宿屋の部屋へと帰還した。
ベッドの上では、娘が穏やかな寝息を立てながら、幸せそうに微笑んでいる。
俺はその寝顔を少しだけ見つめ、再び赤いベルベットのケースの中へと丸くなった。
明日も、この娘の澄んだ音色が響く平和な一日でありますように。
俺は夜の闇の中で、こっそりとそう願ったのだった。
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次回お楽しみに。




