第18話:還るべき場所と夜明けの祝詞(のりと)
1. 閃きと躊躇い
「緑の錠剤」の売人であるゼミ生の行方を追う一方で、馨には早急に解決しなければならない厄介な問題があった。
西新宿署に逮捕された、気弱な大学生とDV被害者の美穂だ。彼らの肉体には、強力な地縛霊である「幕末の志士」と「お竜姐さん」が完全に憑依し、定着してしまっている。
馨は事態を収拾するため、警察の協力を得て、天音を連れて西新宿署の面会室を訪れた。
馨と天音は、まず大学生がいる取調室のドアを開けた。 しかし、制服姿の天音が部屋に足を踏み入れた瞬間、パイプ椅子で震えていた大学生の態度が劇的に変貌した。
「な、なんだ貴様は……! 近寄るなッ!」
突然、大学生の奥に潜んでいた「幕末の志士」の魂が表層に飛び出し、目を見開いて椅子から転げ落ちるように部屋の隅へと後ずさったのだ。
「お、おい! どうした急に!」 立ち会っていた刑事が慌てて大学生を押さえようとするが、彼は天音を指差して半狂乱で暴れ続ける。天音自身はきょとんとしているが、馨はその異常な怯え方を見て、ある可能性に思い当たった。 (……こいつらの中にいる地縛霊が、天音の放つ『浄化の力』に本能的な恐怖を感じて表に出てきたのか?)
その推測を確かめるため、馨は「少しこいつを落ち着かせてやってくれ」と刑事に頼み、天音を連れて急いで別の取調室にいる美穂の元へと向かった。 そして、天音が美穂の部屋のドアを開けた途端――こちらも全く同じ反応を示した。怯えて泣いていた美穂の顔つきが一瞬で変わり、奥に潜んでいた「お竜姐さん」が悲鳴を上げたのだ。
「ひぃッ……! やめな、アタシにその光を近づけるんじゃないよ!」
天音の全身から無意識に放たれている強大な「浄化のオーラ」に、彼らの中に隠れていた地縛霊が死(消滅)の恐怖を感じ、パニックを起こして暴れ出したのは間違いなかった。
その激しい反応を二度目の当たりにして、馨の脳裏に一つの解決策が閃いた。
(天音の浄化能力をピンポイントで使えば、元の肉体を殺すことなく、憑依した地縛霊の魂だけを強制的に引き剥がして消滅させられる……!)
だが、馨はその提案を口にすることを直前でためらった。
志士もお竜姐さんも、馨にとっては長年この新宿で言葉を交わしてきた馴染み深い住人だ。「浄化」とは即ち、数十年、あるいは数百年の間この街を見つめ続けてきた彼らの存在を、この世から完全に「消す」ことと同義だからだ。
2. 鉄格子の向こうの望郷
その日の夜。留置場の冷たい鉄格子の向こうで、憑依された二人は小さな窓から四角く切り取られた夜空を静かに見上げていた。
「……拙者が死んだあの日も、国許の空はあのように澄んでいた」
志士がぽつりとこぼした。
「残してきた妻と、まだ幼かった娘は……あれからどうやって生きたのだろうか。動けぬ魂となってから幾星霜、拙者はただ、それだけが心残りであった」
その切々とした望郷の念に、お竜姐さんもまた、生前の自らの記憶と後悔に思いを馳せ、黙って耳を傾けていた。
そこへ、馨が再び面会に訪れ、鉄格子越しに天音の力による「浄化(肉体の返還)」を静かに提案した。
罪のない若者たちの人生を奪ったままにはしておけない。馨の苦渋の決断に、志士は静かに頷き、そして一つの条件を提示した。
「もうすぐ、旧暦の夏の終わり……歌舞伎町の片隅にある異国の街で、『死者が帰ってくる祭り』が開かれると風の噂で聞いた。我らは地縛霊ゆえ、今までその場所へ赴くことができなかった。だが……今の我らには『動ける肉体』がある」
志士は真っ直ぐに馨を見つめた。
「その祭りに参加させてくれるなら、その後はあの娘の浄化を受け入れ、大人しく肉体を返そう」
その話を聞いていたお竜姐さんも、「アタシも、どうしても最後に会いたい奴がいるんだ。それに乗るよ」と同意した。彼らの最期の願いを、馨が断れるはずもなかった。
3. 境界が交わるチャイナタウンの夜
数日後の深夜。馨は岩尾署長や加賀見たちを必死に説き伏せ、馨と辰巳の二人で絶対に逃がさないよう監視するという厳重な条件のもと、特別措置として二人を祭りの夜の歌舞伎町へと連れ出した。
彼らが向かったのは、歌舞伎町の最深部にひっそりと存在する、古びたチャイナタウン(中華街)の路地裏だった。
そこでは、旧暦の夏の終わりに地獄の釜の蓋が開き、死者たちが現世へ帰ってくるという「中元節(鬼節)」の盛大な祭りが執り行われていた。
「……なんだここは。いつもの新宿じゃねぇぞ」
同行していた辰巳が、思わず息を呑んで立ち止まった。
狭い路地の頭上には無数の赤いランタン(提灯)が連なり、妖しくも温かい朱色の光を落としている。通りには大量の線香や、紙銭(しせん:死者のためのあの世のお金)を燃やす煙が真っ白に立ち込め、胡弓の物悲しい音色と、邪気を払う爆竹の火薬の匂いがむせ返るように充満していた。
そしてこの特別な夜、大量の線香の煙と人々の祈りの熱気に当てられ、この路地一帯だけは現世と幽世の境界が完全に溶け合っていた。
馨のような霊能力者でなくとも、辰巳や、そして霊が見えないはずの天音の目にも、地上に降り立った死者たちの姿がはっきりと見え、その声を聞くことができたのだ。
「相馬さん……あそこにいる人たち、みんな……透けてます」
初めて視覚として「死者」を捉えた天音が、信じられないものを見るように目を丸くして馨の袖を掴んだ。
4. 生者と死者の交差点
チャイナタウンの路地には中華屋台が所狭しと並び、優しくも狂気に満ちた奇跡の光景が広がっていた。
ある屋台の円卓では、白髪の生きた老人が、若くして軍服姿のまま亡くなったかつての戦友(死者)の霊と肩を並べ、涙ぐみながら紹興酒を酌み交わしている。
またある路地裏では、母親の霊が、すっかり立派な大人に成長した生きた息子の顔を愛おしそうに撫でようとし、息子は「母さん、俺は元気にやってるよ」と泣き笑いの顔で語りかけている。
屋台に並んだ熱々の点心や肉まんの前には死者たちが群がり、嬉しそうにその「湯気と匂い」を胸いっぱいに吸い込んで生前の記憶を楽しんでいた。
種族や時代、そして生死の壁すら超えて、人々が懐かしい再会を喜び、共に笑い、共に涙を流す。猥雑な新宿の片隅に現れた、一夜限りの温かい空間だった。
「その場から一歩も動けない地縛霊」であったなら、絶対に叶わなかったこと。それは自らの足で歩き、「会いたい人を探す」ことだ。
志士とお竜姐さんは、圧倒される馨たちをよそに、生者と死者が入り混じる熱気と煙の波を掻き分けながら、必死に自分の想い人を探し歩き始めた。
やがて、赤いランタンの下。
志士は、死者の波の中から、自分を探しに来ていた着物姿の妻と、美しく成長した娘の魂を見つけ出した。彼女たちもまた、死者としてこの祭りを訪れていたのだ。
「……おお、おお……!」
志士は男泣きに泣き崩れ、幻の家族を力強く抱きしめた。
お竜姐さんもまた、路地の片隅で、ずっと謝りたかったかつての想い人を見つけ出していた。彼女はいつものドスを効かせた声ではなく、年相応の女の顔で涙を流し、数十・数百年の時を超えた再会を果たしていた。
馨と天音、そして辰巳は、彼らの邪魔をすることなく、少し離れた場所からその奇跡の時間を静かに見守り続けた。天音の瞳からは、自分でも理由のわからない温かい涙が溢れ落ちていた。
5. 結末:夜明けの祝詞
やがて夜明けが近づき、祭りの終わりと共に、ランタンの灯りが一つ、また一つと消えていく。死者たちの魂が、名残惜しそうに次々と空へ(あの世へ)と帰っていく。
幻想的な空気が薄れゆく路地裏に、志士とお竜姐さんが戻ってきた。
その顔には、1000年分の未練が嘘のように消え去った、どこまでも清々しく、満ち足りた笑顔があった。
「探偵殿。……いや、馨。動けぬ我らに、最後にこの足で歩く奇跡をくれて感謝する。もう思い残すことは何もない」
志士が深々と頭を下げた。お竜姐さんも、憑き物が落ちたような穏やかな顔で頷いた。
「アタシもだよ。……さあ、可愛いお嬢ちゃん。アタシたちを綺麗に送っておくれ」
二人は肉体を返す決意を馨たちに告げた。
馨は深く頷き、天音を前に立たせた。
「頼む、天音。……最高の祝詞で送ってやってくれ」
天音は溢れる涙を拭い、静かに目を閉じた。
彼女の小さな唇から、美しく神々しい祝詞が紡ぎ出される。それはかつて西新宿の広場で地縛霊たちを問答無用で消し去った時とは違う、慈愛と鎮魂の祈りに満ちていた。
温かく清らかな白銀の光が二人を包み込む。
志士とお竜姐さんの魂は、肉体からふわりと抜け出し、光の粒子となって朝焼けの空へと静かに還っていった。
残された大学生と美穂は、まるで長い夢から覚めたようにその場に崩れ落ちた。彼らの肉体は無事に本来の持ち主へと返還されたのだ。
辰巳が二人を抱き起こす横で、馨は白み始めた新宿の空を見上げながら、古き隣人たちへの無言の弔い(とむらい)を捧げるのだった。




