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地縛霊探偵の事件簿  作者: 赤紫


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遠き空の約束

1. 同僚の策略と哀しき脱藩


時は幕末。ある田舎の国許くにもとに、剣の腕が立つ一人の若き武士がいた。彼には深く愛し合う妻と、まだ言葉もおぼつかない幼い娘がおり、貧しくも平穏で満ち足りた日々を送っていた。

ある日、親しくしていた同僚の武士が彼を呼び出し、熱を込めて語った。

「このままでは国が滅びる。俺と共に脱藩し、江戸で新しい時代を切り拓かねばならない」

しかし、彼は静かに首を横に振った。

「私には守るべき妻と娘がいる」

国を憂う気持ちは確かにあったが、彼は何よりも家族の平穏を愛しており、その誘いを固辞したのだ。


だが数日後、彼の平穏は理不尽に打ち砕かれた。彼の屋敷から突如として「藩の重役暗殺を企てる密書」が発見され、身に覚えのない反逆罪に問われたのだ。それは、彼を仲間に引き入れるためか、あるいは自らの罪をなすりつけるためか、あの同僚が仕組んだ卑劣な罠だった。

絶望する彼の前に、その同僚が現れ、偽りの助け舟を出した。

「このまま捕まれば妻子も打ち首だ。お前が単独で逃げたことにすれば、妻子には手を出させない」

愛する家族の命を守るためには、彼に選択の余地はなかった。同僚の言葉を信じ、すべての罪を一人で被って、江戸へと脱藩するしか道は残されていなかったのだ。


2. 新宿の路地裏での裏切りと自害


江戸へ逃れ、現在の新宿にあたる内藤新宿周辺の薄暗い路地裏に潜伏していたある夜のこと。彼は、幕府か藩の追手たちに完全に包囲されてしまった。

闇夜に浮かび上がった追手たちを先導していたのは、他でもない、あの「同僚の武士」だった。同僚は出世や保身のために、最初から彼をスケープゴートとして売り飛ばしていたのである。


「裏切ったな……!」

激怒し、腰の刀を抜こうとする彼に対し、同僚は冷酷な笑みを浮かべて言い放った。

「お前がここで一人で腹を切り、首謀者として死ねば、国許の妻子は見逃してやる。だが少しでも抵抗すれば、お前の妻子を惨殺する」

多勢に無勢というだけでなく、遠く離れた家族の命を人質に取られては、彼に反撃する術はなかった。


彼は静かに刀から手を離し、冷たい泥濘ぬかるみの上に座り込んだ。そして、ただただ国許の家族の無事を祈りながら、自らの腹を十文字に切り裂き、無念の自害を遂げたのである。


3. 動けぬ魂と途絶えた時間


それから、百数十年の途方もない時間が流れた。

彼が息絶えた寂しい泥濘の路地裏は、いつしか欲望とネオンがけばけばしく輝く歌舞伎町へと姿を変えていた。しかし、自害した彼は地縛霊となり、一歩も動けないままその場に永遠に縛り付けられていた。


「拙者が死んだあの日、残してきた妻と娘は……あの裏切り者の手によって殺されてしまったのではないか」

自分が何者であったか、名前すら忘れてしまっても、家族の安否に対する強烈な未練と心配だけが、彼を何十万時間にもわたって苦しめ続けていた。


4. 妻と娘の生涯


一方、国許に残された妻と娘は、同僚の気まぐれか藩の裁断かは不明だが、奇跡的に処罰を免れていた。

夫の愛と誇りを信じ続けた妻は、周囲からの冷たい視線に耐えながら女手一つで必死に働き、娘を立派に育て上げた。娘はやがて良縁に恵まれて嫁ぎ、幸せな家庭を築いた。

妻は生涯夫を深く愛し続け、満ち足りた思いで天寿を全うした。そして娘もまた、母と同じように幸せな一生を終え、二人の魂は連れ立って黄泉の国へと旅立っていったのである。


5. 狂気の薬と交換条件


そして現代。歌舞伎町の路地裏で、気弱な大学生が闇サイトで手に入れた「緑の錠剤」を飲み込んだことで、志士の魂はその大学生の肉体に吸い込まれるように憑依した。

生きた人間の肉体を奪うという霊的なタブーを犯してしまった彼だが、事態の収拾に動いた探偵の相馬馨から、「天音の祝詞による浄化(肉体の返還)」を静かに提案される。


それに対し、志士は馨に一つの「交換条件」を提示した。

「浄化を受け入れて肉体を返すかわりとして、旧暦の夏の終わりに歌舞伎町のチャイナタウンで開かれる『中元節(鬼節)』の祭りに自分を参加させてほしい」

馨もその条件を承諾した。中元節の祭り――それは、生者と死者の境界が溶け合い、死者たちが現世へ帰ってくる奇跡の夜だった。


6. 永遠の別れと消失の祝詞


祭りの夜。赤いランタンが妖しく揺れ、線香の煙が立ち込めるチャイナタウンの路地裏で、志士は生者と死者が入り混じる熱気と煙の波を掻き分け、自らの足で必死に歩き回った。動けぬ地縛霊であったなら、決して叶わなかったことだ。


そしてついに、赤いランタンの下で、彼は着物姿の妻と娘の魂を見つけ出した。

実は、妻と娘の魂は、「もしかしたら夫(父)に会えるのではないか」という一縷いちるの望みを抱き、毎年、百数十年の間ずっと、彼が旅立った江戸(新宿)で開かれるこの「中元節」の祭りに、黄泉の国からやってきていたのだ。


「……おお、おお……!」

百数十年ぶりの再会に、志士は男泣きに泣き崩れた。

さらに、再会を喜んで涙を流す妻と娘の背後には、娘の夫や、娘の子供、そしてその子供たち……と、志士があの日、命を懸けて守り抜いたことで繋がれた「何世代にもわたる彼の子孫たち」の魂がズラリと並び、この奇跡の再会を温かく、そして誇らしげに見守っていたのである。


「私たちは無事に、幸せに天寿を全うしましたよ」

その妻の言葉と、背後に並ぶ立派な子孫たちの姿を見た瞬間、彼を縛り付けていた百数十年の「呪いのような未練と心配」は完全に消え去った。


やがて夜明けが近づき、祭りの終わりと共に「黄泉の国」へ帰る時間が訪れた。

妻と娘、そして子孫たちの魂は黄泉の国へと帰っていく。しかし、自害によって地縛霊となった志士は黄泉の国へ行くことは許されず、天音の浄化の力によって「無」へと還ることになる。


それは永遠の別れを意味していた。しかし、彼の顔に悲壮感は微塵もなかった。

「これでようやく、思い残すことは何もない。……さあ、お前たちは還るべき場所へ還りなさい」


憑き物が完全に落ちたような、どこまでも清々しい笑顔で家族との最後の別れを迎えた彼は、天音の紡ぐ慈愛の祝詞の光に包まれた。そして、肉体から抜け出した彼の魂は、朝焼けの空へと溶けるように、静かに「無」に還っていくのであった。

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