第16話:緑の錠剤と還ってきた亡霊たち
狂騒の幕開け
「ピッ……ピッ……ピッ……」
無機質な電子音が、一定のリズムで薄暗い室内を満たしていた。 壁という壁を分厚い専門書や乱雑に積まれたバインダーが埋め尽くし、古い紙の匂いと埃っぽさ、そして微かな消毒用アルコールの匂いが入り混じった閉鎖的な空間。ブラインドが固く下ろされて昼夜の区別すら曖昧なその部屋の中央に、ポツンと置かれたリクライニングチェアがあった。
そこに深く腰掛けているのは、まだあどけなさの残る少女――生前の辰巳真由。 彼女の頭部には、医療用のメッシュキャップ越しに無数の電極コードが吸盤のように這わされており、それらは太いケーブルの束となって、隣のデスクに鎮座する無骨な大型の測定機器へと繋がっている。
「素晴らしい……。やはり君が『彼ら』と波長を合わせる時、脳の特定部位から未知の周波数が発生している」
緑色の波形が乱高下を繰り返す複数のモニター画面に顔を近づけ、白衣姿の初老の男が歓喜に満ちた声を漏らした。男の瞳には、常軌を逸した強烈な探求心がギラギラと燃え上がっている。 真由は頭に無数のコードを繋がれたまま、どこか焦点の定まらない虚ろな瞳で何もない虚空を見つめ、そこにいる「誰か」と会話をするように小さく唇を動かしていた。
「ピッ、ピピピピピッ……!」
彼女が『見えない者』と言葉を交わすたび、脳から送られる特異な電気信号が甲高い電子音となって、狭い室内に狂騒的に鳴り響く。男はその波形データを食い入るように見つめ、震える手で記録のキーボードを叩き続けていた。
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週末の歌舞伎町。欲望とアルコールが入り交じるけばけばしいネオンの下では、行き交う人々の波が肩をぶつけ合い、絶え間ない喧騒が渦巻いていた。 客引きのしつこい声、酔っ払いたちの甲高い笑い声、そして様々な言語が入り乱れる猥雑な熱気。誰もが自分の目的と欲望を満たすことだけに夢中になり、他人のことなど気にも留めない狂騒の只中で、その「異常」は唐突に始まった。
深夜の路地裏で、気弱そうな大学生が数人の男たちに壁際へと追い詰められていた。
彼は本来、この危険な夜の街を一人でうろつくようなタイプの青年ではない。所属する大学の派手なサークル仲間たちから常に「便利なパシリ」や「ATM代わり」として扱われており、この日も歌舞伎町での飲み会で無理やり二次会の高額な会計を押し付けられた挙句、一人置いてけぼりにされていたのだ。惨めな自己嫌悪と理不尽な扱いに泣きそうになりながら、駅へ向かう近道のつもりで人気の少ない薄暗い路地へ足を踏み入れたのが運の尽きだった。
相手はさほど年齢の変わらない若者たちだが、ハイブランドの派手なスウェットや偽物の高級時計で身を固め、夜の街で徒党を組んで悪ぶる典型的な「半グレ」の集団だった。ヘラヘラと下卑た笑いを浮かべながら獲物を面白半分に小突き回す彼らの前では、普段の大学生なら残った財布の中身まで巻き上げられ、ただ泣き寝入りするだけの完全なカモに過ぎない。
しかし、その大学生は震える手でポケットから「緑色の錠剤」を1つ取り出して一気に飲み込んだ。
直後、突然自らの喉を掻きむしり、白目を剥いて激しくもがき苦しみ始めた。「ぐあッ……ああぁぁッ!」と獣のような苦悶の呻き声を上げ、汚れたアスファルトの上を激しくのたうち回る。
そのあまりにも異常な苦しみ方に、ヘラヘラと笑いながら獲物を小突いていた半グレたちも、「お、おい……こいつヤバいクスリでも食ったのか……?」と顔を引きつらせ、気味悪がって思わず後ずさりし、大きくたじろいだ。
やがて、しばらくもがき続けた後にピタリと痙攣を止めた大学生が、うつむいたままゆらりと立ち上がり顔を上げる。
気弱だった大学生の表情は完全に別人のそれへと変貌していた。
「……不埒者めが。夜道で狼藉を働くとは、万死に値する!」
大学生の背筋がピンと伸び、その瞳に狂気じみた鋭い光が宿る。彼は足元に落ちていた錆びた鉄パイプを拾い上げると、まるで熟練の剣術使いのように上段に構え、チンピラたちに向かって一切の躊躇なく振り下ろした。
「ガッ!」という骨が砕けるような鈍い音が響き、先頭でヘラヘラと笑っていた男が白目を剥いて崩れ落ちた。 「な、なんだテメェ!」 仲間の無残な姿に激高した残りの半グレたちが、怒号を上げて一斉に飛びかかろうとする。しかし、大学生の動きは彼らの予想を遥かに超えていた。彼はただの錆びた鉄パイプを、まるで業物の名刀のように滑らかに、そして恐ろしいほどの速さで振るい始めたのだ。
鋭い踏み込みから繰り出される流麗な袈裟斬り。相手の闇雲なパンチを紙一重で躱しざまに放つ、正確無比な鳩尾への突き。その一切の無駄を省いた洗練された太刀筋は、素人の喧嘩殺法などでは断じてなく、血で血を洗う幕末の修羅場を幾度もくぐり抜けてきた本物の「剣術」そのものだった。
「ひぃッ!」「ば、化け物……!」
鉄パイプが空気を切り裂く鋭い風切り音と共に、次々と男たちの骨が軋み、路地裏に断末魔のような悲鳴が木霊する。気弱でひ弱だったはずの青年の肉体を完全に支配した圧倒的な剣技の前に、夜の街で徒党を組んで悪ぶっていただけの半グレたちは手も足も出ず、為す術もなく次々とアスファルトの血の海に沈んでいった。
数秒後、血まみれで倒れ伏すチンピラたちを見下ろし、大学生は手に持った血濡れの鉄パイプを鋭く横へと振り抜いた。
ピシュッ、と空気を裂く音と共に、パイプにこびりついていた赤い血糊がアスファルトに半円状の飛沫となって飛び散る。さらに彼は、鯉口を切るように左手を腰に添え、鉄パイプをゆっくりと、寸分の狂いもない滑らかな動作で『見えない鞘』へと収める見事な残心の所作をやってみせた。
だが、当然ながら彼の腰に本物の鞘などあるはずもない。指を離れた鉄パイプは、ガランッ!とけたたましく大きな金属音を立ててアスファルトの地面に叩き落ちた。
暗い路地裏にカラカラと無様に鉄パイプが転がる音と、「斬り捨て御免」という場違いで古風な言葉だけを残し、大学生は悠然とした足取りのまま路地裏の闇に消えていった。
同じ夜。歌舞伎町の喧騒から少し離れた、壁の薄い古いアパートの一室でも、緑の錠剤が引き起こすもう一つの「異常」が幕を開けようとしていた。
「おい美穂! ふざけんな、金がねぇってどういうことだ!」
ドンッ! という鈍い音と共に、美穂(20代)の華奢な身体が薄汚れたふすまに叩きつけられた。
「ご、ごめんなさいユウヤ……でも、今月はもう家賃と光熱費を払ったら、本当に……ッ!」
「うるせぇ! 俺がパチンコで負けたのはお前の運が悪いせいだろうが! さっさと財布出せ!」
美穂と同棲している交際相手のユウヤは、定職にも就かず美穂の稼ぎをギャンブルと遊びに使い込む典型的なヒモ男だった。少しでも文句を言えば、今日のように容赦なく暴力を振るう。心身ともにボロボロになりながらも、恐怖と歪んだ依存心から、美穂はこの地獄のようなアパートから逃げ出すことができずにいた。
ユウヤが美穂の髪を乱暴に掴み、無理やり財布を奪い取ろうと手を伸ばした、その時だった。
(……嫌だ。もう、こんな毎日は嫌だ!)
絶望と恐怖の中、美穂は震える手でポケットに隠し持っていた「緑の錠剤」を掴み出し、一気に飲み込んだ。
それは数日前、少しでも強くなってこの状況から抜け出したいと藁にも縋る思いで、闇サイトで見つけた『気弱な自分を完全に別人のように強く変えられる薬』だった。
直後、美穂は突然自らの喉を激しく掻きむしり、白目を剥いて畳の上をのたうち回り始めた。
「ぐあッ……ああぁぁッ!」
「うおッ!? な、なんだお前、急に発作かよ……気味悪ィな」
予想外の異常な苦しみ方にユウヤがたじろぎ、数歩後ずさった。
やがて、しばらく激しくもがいていた美穂が、ピタリと痙攣を止めてうつむいたままゆらりと立ち上がる。
実はこの古いアパートの部屋には、かつて昭和の時代に男に裏切られて自刃し、それ以来ずっとこの部屋に居座り続けていた地縛霊――『鉄火肌の極妻(お竜姐さん)』がいた。緑の錠剤を飲んだことで脳波の波長が完全に合い、お竜の強烈な魂が、美穂の肉体にすっぽりと憑依してしまったのだ。
「……女に手ェ上げるたぁ、男の風上にも置けねぇ外道だねぇ」
顔を上げた美穂の表情からは、先ほどまでの気弱で怯えきった面影など微塵も消え失せていた。その瞳には、修羅場をくぐり抜けてきた者特有の、凄みのある鋭い光が宿っている。
「はぁ? 何言ってんだお前、頭おかしくなったのか!」
舐められてたまるかと、ユウヤが再び美穂の頬を張ろうと右手を振り上げた。
だが、憑依した美穂(お竜)の動きは、ヒモ男のチンピラパンチよりも遥かに速く、そして容赦がなかった。
「なめるんじゃないよ、小童が」
ドスッ!
美穂はユウヤの腕を左手で軽く弾き落とすと同時に、ちゃぶ台の上にあった分厚いガラスの灰皿を右手で躊躇なく掴み上げ、ユウヤの額目掛けてフルスイングで叩き割った。
「ぎゃあぁぁッ!?」
頭部から鮮血を噴き出し、ユウヤが悲鳴を上げて床に転げ回る。しかし、お竜姐さんの制裁はそれで終わらない。
「自分の足で立てねぇヒモ野郎が、偉そうに女を泣かしてんじゃねぇよ!」
美穂(お竜)は圧倒的な気迫と喧嘩慣れした無駄のない動きで、床を這いつくばるユウヤの背中を容赦なく蹴り上げ、部屋の隅へと追い詰める。さらに転がっていたビールの空き瓶を壁でカチ割って鋭い凶器を作り上げると、泣き叫ぶユウヤの鼻先に突きつけた。
「ひぃッ! ご、ごめんなさい! 殺さないで、美穂、俺が悪かったから!」
「……アタシの顔をよく見な。アタシは美穂なんて可愛い名前じゃねぇ。お竜だ」
恐怖に小便を漏らしてガタガタと震えるヒモ男を見下ろし、美穂の肉体を借りたお竜姐さんの強烈な説教と、容赦なき怒号が狭いアパートに響き渡った。




