第15話:渇水の底と姉弟の還る場所
第15話:渇水の底と姉弟の還る場所
1. 紐解かれた戸籍と真実
相馬探偵事務所の中で、馨はフル稼働しても生ぬるい風しか出さない古いエアコンの下、机の上に広げられた書類の束と睨み合っていた。
それは、独自の手ルートで取り寄せた長野県の旧・龍人村(現・高岡ダム)の古い戸籍謄本や住民記録のコピーだった。
馨は、雨合羽で正体を隠し、クラブで「結月」、アイドルとして「マユ」と名乗っていたあの女の正体に、ようやく辿り着いていた。
彼女の本名は「辰巳 真由」。
記録と独自の調査が導き出した事実は、馨にとって衝撃的なものだった。なんと彼女は、九頭龍会で馨の監視役をしていたあのチンピラ・辰巳の「実の姉」だったのだ。
真由は幼い頃から地縛霊が見えるという特異な能力を持っていた。そのため、両親から「気味が悪い」と迫害され、厄介払いのように龍人村に住む父方の祖父母の元へ預けられていた。
2. ニュースと弟の疾走
同じ頃、九頭龍会の事務所にいた辰巳は、テレビのニュース速報に釘付けになっていた。
『記録的な渇水により、高岡ダムが完全に干上がり、湖底に沈んでいた旧・龍人村の全容が十数年ぶりに姿を現しました』
ひび割れた湖底と、泥にまみれた廃屋の骨組みを映し出す画面を見た瞬間、辰巳の顔色が変わった。
彼は兄貴分である瀧口の制止する声も振り切り、事務所を飛び出すと車に飛び乗り、長野県へとアクセルを踏み込んだ。
ハンドルを力強く握りしめる辰巳の脳裏に、幼い頃のわずかな記憶がフラッシュバックする。 何もない空間に向かって独り言を言い、優しく微笑みかけていた姉の姿。両親はそんな彼女を「気味が悪い」と蔑み、露骨に遠ざけたが、幼い辰巳(健太)にとって彼女は誰よりも優しく、大好きな自慢の姉だった。 自分だけには『健太』と穏やかな声で呼びかけ、柔らかい手で頭を撫でてくれた温もり。そして、厄介払いのように龍人村の祖父母のもとへと連れ去られていく彼女を乗せた車を、泣き叫びながらいつまでも追いかけたあの日の光景が、今も辰巳の胸の奥に焦げ付いて離れないのだ。
辰巳が柄の悪いチンピラを装い、姉の村を沈めた張本人である九頭龍会に潜入していたのには、本当の理由があった。それは、ダムに沈んだ村から行方不明になった姉・真由の行方を、何年もの間、組織の内部から追い続けるためだったのだ。
辰巳は確信していた。村が再び地上に姿を現したなら、姉は絶対にそこへ向かうはずだ、と。
3. 十数年ぶりの再会
ひび割れた泥がどこまでも広がる高岡ダムの湖底。 そこへ至るため、真由は一般客が立ち入れるダムの堰堤の端から、職員以外は立ち入りを固く禁じられている高いフェンスをいとも容易く乗り越えた。異常な猛暑によって急激に水位が下がり、普段は深い水の底にある管理用のコンクリートスロープや、削り取られた赤土の斜面が、醜い泥の波を被ったまま剥き出しになっている。連日の強烈な直射日光に晒され続けたコンクリートは、うっかり素手で触れればジュッと皮膚が焼け焦げて張り付いてしまうほどの異常な熱を帯びていたが、真由はその急で滑りやすい斜面を、まるでかつての通学路を歩くかのように、一切の迷いのない足取りで真っ直ぐに降りていった。
湖底に降り立った彼女の目の前に広がっていたのは、荒涼とした景色だった。
見渡す限りの泥の平原が、容赦ない太陽に焼かれて亀甲状に深くひび割れている。その広大な泥の海の中から無残に突き出しているのは、かつて人々の温かな生活があった旧・龍人村の残骸だ。 水圧と泥に押し潰され、ひしゃげた家屋の骨組み。茶色く変色して傾いた電柱。錆び付いて泥に半分埋もれたトタン屋根や、文字の読めなくなった道路標識。それらの金属や人工物の残骸もまた、真夏の熱をたっぷり吸い込んで巨大な鉄板のように熱せられ、触れる者すべてに火傷を負わせるような殺人的な熱を放っている。十数年という長い間、冷たい水の底で息を潜めていた村は、すべての色が泥の灰色と土気色に塗り潰され、生者の気配を完全に拒絶する死の世界と化していた。
だが、真由はその泥と廃墟の広がる異様な景色を前にしても、全く怯むことはなかった。 巨大なすり鉢状になった剥き出しの湖底には、逃げ場を失った熱気がねっとりと溜まり込み、景色がぐにゃりと歪むほどの蜃気楼のような陽炎があちこちで揺らめいている。まるで地獄の釜の底と化した龍人村の跡地を、彼女は一人、静かに歩いていく。足元で乾いた熱い泥がパキパキと崩れる音だけが、不気味なほどの静寂の中に響いていた。
彼女が迷いなく向かったのは、かつて村外れだった森の跡――当然、豊かな緑はとうの昔に腐り落ち、今は黒ずんだ無数の枯れ木だけが、天に向かって怨嗟の腕を伸ばす墓標のように立ち並ぶ場所だった。
その枯れ木の群れの中央、かつて一際高くそびえていたであろう大木の根元に、彼女は十数年ぶりに「吉岡」の地縛霊との再会を果たす。
水圧と泥に無残に押し潰された村の惨状とは対照的に、吉岡は生前と全く変わらぬ姿でその場所に留まり続けていた。首には愛用の双眼鏡を下げ、今はもうカラスが止まることもない真っ黒な枝先を、昔と同じように熱心に見上げている。
その変わらない穏やかな横顔を見た瞬間、真由の脳裏に、冷たい水底に沈めて蓋をしていたはずの孤独な少女時代の記憶が、鮮明にフラッシュバックした。
『あの子、また何もない空き地に向かって独り言を言ってるよ』 『気味が悪いから近づいちゃ駄目って、お母さんが言ってた……』
「地縛霊が見える」という特異な能力を持っていた真由は、実の両親から気味悪がられてこの龍人村の祖父母のもとへ厄介払いのように預けられた。しかし、閉鎖的な村社会においても、見えないモノと会話をする少女は完全に孤立し、子供たちの間でも格好の迫害の的だった。
誰にも理解されず、石を投げられ、泥だらけになって逃げ込んだ村外れの薄暗い森。膝を抱えて独り泣きじゃくっていた幼い真由の前に、ひょっこりと顔を出して優しく声をかけてくれたのが、他所から鳥類の研究に訪れ、この場所で自ら命を絶って地縛霊となった奇妙な男――吉岡だった。
『泣くことはないよ。君のその目は、他の誰にも見えない世界を観察できる、素晴らしい才能じゃないか』
大人たちすら真由を異常者扱いして避ける中で、吉岡だけは彼女の言葉を真っ直ぐに信じ、同じ目線で語り合ってくれた。彼は真由にカラスの言語や生態を教え、真由は吉岡の代わりに村の出来事を教える。死者と生者の垣根を越えて、二人だけの秘密の時間を共有した。孤独な少女にとって、吉岡は世界でただ一人の理解者であり、生きる術を教えてくれる「先生」であり、そして、かけがえのない唯一の親友の魂だったのだ。
「……先生」
陽炎の揺らめく灼熱の湖底で、真由がひび割れた声で呼びかける。 すると、枯れ木を見上げていた吉岡がゆっくりと視線を下ろし、立派に成長した彼女の姿を認めて、あの頃と同じように優しく微笑みかけてくれたような気がした。ダムの冷たい底に沈められてもなお、十数年もの間、たった一人でこの場所で彼女を待ち続けてくれた恩人。
真由は、ひび割れた熱い泥の上に静かに膝をついた。
彼女の表情は、まるで十数年前、誰にも理解されずにこの森で泣きじゃくっていたあの孤独な少女に戻ったかのように、あどけなく。声色は甘えるようだった。
「先生……あのね、私、やっと終わらせたよ」
真由は子供のように無邪気な笑みを浮かべ、吉岡を見上げて語りかけ始めた。
「村を沈めて、先生の居場所を奪ったあの悪い男……堂本をね、私が殺してあげたの。先生が教えてくれた、カラスたちの力をいっぱいに借りてね。これでやっと、先生の仇をとれたんだよ」
その「殺してあげた」という無邪気な言葉を聞いた瞬間、穏やかに微笑んでいた吉岡の顔が凍りついた。 生前、ただ純粋に鳥の生態を愛し、地縛霊となってからも「ここは私にとって最高の実験室だ」と笑って研究に没頭していた平和主義者の彼にとって、それは天地がひっくり返るほど望んでいない凶行だった。ましてや、自分が不憫に思い、唯一優しく接していた孤独な少女が、自分のために人殺しという大罪を犯し、その手を血に染めたという事実は、吉岡の魂を激しく揺さぶった。
『ま、真由ちゃん……君は、なんてことを……! 私はそんなこと、誰の命を奪うことなど、少しも望んでなどいなかったのに!』
吉岡は悲痛な声を上げ、首から下げた双眼鏡を握りしめる手をガタガタと震わせた。
しかし、真由には吉岡の深い悲嘆すら届いていないようだった。彼女は憑き物が落ちたような、どこまでも澄み切った瞳で吉岡の焦燥を見つめ返し、ふわりと笑う。
「もういいの。気にしないで先生。だって、私にはもう、現世に何の未練も残っていないから。……これからはずっと、ここで先生と一緒にいられるよ」
その「何の未練もない」という言葉の裏に隠された、真由の狂気じみた決意――自ら命を絶ち、自分と同じ地縛霊となってこの泥の底に永遠に縛られるという目的――に気づいた吉岡は、血相を変えた。
『駄目だ! 真由ちゃん、君はまだ生きているんだ! こんな泥の底なんかに囚われちゃいけない! 生きて、ここから逃げなさい!』
彼は必死に叫び、真由の愚行を全力で止めようと両手を伸ばす。だが、物理的な肉体を持たない悲しい地縛霊の手は、彼女の華奢な肩に触れることすら叶わず、ただ空しくすり抜けるだけだった。
4. 届かない叫び
「姉ちゃん!!」
湖底の廃墟に、泥だらけになりながら必死に走ってくる辰巳の姿があった。
異常な猛暑で干上がったとはいえ、巨大なすり鉢状になったダム湖の底は完全に乾ききってはいない。表面はひび割れていても、その下には十数年分のヘドロのような泥が深く堆積しており、一歩踏み出すごとにズブズブと足をとられる最悪の足場だった。容赦なく照りつける直射日光が泥の平原をフライパンのように熱し、そこかしこから立ち上る強烈な陽炎が、景色をぐにゃぐにゃと歪ませて視界を遮る。全てが土気色の泥を被った元・龍人村の廃墟の残骸が、蜃気楼のように揺らめいては辰巳の行く手を阻んだ。
それでも辰巳は、高級な革靴が泥に飲まれて脱げそうになるのも構わず、何度もぬかるみに足を取られて無様に転び、派手な柄シャツもスーツも泥だらけにしながら、ただ真っ直ぐに姉のもとへと泥を掻き分けて進んでいく。
「姉ちゃん!! 待ってくれ、姉ちゃんッ!!」
数年ぶりに探し求めていた姉の背中を見つけた辰巳は、息を切らし、泥と汗にまみれた顔をくしゃくしゃにして絶叫した。
「俺だよ、健太だよ! ずっと、ずっと探してたんだ……! 姉ちゃんがこの村ごとダムに沈められたって聞いて、俺、姉ちゃんを探し出すためだけに、身分を隠して九頭龍会のヤクザにまで潜り込んだんだよ!」
熱気で歪む陽炎の向こう側に立つ姉の姿に、辰巳は泥まみれの両手を必死に伸ばす。
「もういいだろ!? 村を沈めた堂本への復讐は終わったんだ! もう十分だろ、 ……頼むから、もうこれ以上俺を一人にしないでくれ。一緒に東京へに帰ろう!!」
弟の血を吐くような必死の説得の声が、陽炎の揺らめく灼熱の湖底に、悲痛な木霊となって響き渡った。
真由はゆっくりと振り返り、立派に成長した弟の姿を見て優しく微笑んだ。
「健太、大きくなったね。私を探してくれてありがとう……でもね、私にはもう、帰る場所なんてないの」
5. 永遠の束縛
真由は弟に向かって、静かに、しかし決して揺るがない意思で首を振った。
「私はもう二度と、私の唯一の理解者(先生)と離れ離れにはならない」
嫌な予感に辰巳が駆け寄ろうとした、まさにその瞬間だった。
真由は服の下に隠し持っていた鋭利な刃物を取り出すと、吉岡の霊のすぐ目の前で、ためらいなく自らの首元を深く切り裂いた。
「やめろぉぉぉッ!!」
辰巳の絶叫が渇水のダムに木霊するが、間に合わなかった。
大量の血を流し、真由は駆け寄った弟の腕の中で静かに息を引き取った。自らの命を絶つことで、その魂を吉岡と同じ場所へ「永遠の地縛霊」として縛り付けるという、狂気にも似た悲しい道を選んだのだった。
6. 結末
数日後。 相馬探偵事務所の古びた窓から差し込む西日は、傾きかけてなお、ねっとりとした不快な真夏の熱を帯びていた。ペンキの剥げかけた雑居ビルの外は、欲望とネオンが澱む歌舞伎町の喧騒や、絶え間なく行き交う人々のざわめきが、茹るような熱気と共にひしめいている。
フル稼働しても生ぬるい風しか出さない今にも死にそうな古いエアコンの下で、馨はチアキが黙ってデスクに置いていったアイスコーヒーのグラスを前に、ただぼんやりとテレビの夕方ニュースを無言で見つめていた。
『――渇水で干上がった高岡ダムの湖底で、若い女性の遺体が発見されました。警察は現場の状況から、自殺とみて身元の確認を急いでいます』
ニュースの画面に映し出された長野県の現場には、連日の異常渇水を終わらせるような弱い雨が静かに降り注いでいた。ひび割れていた泥の平原や、直射日光に焼かれていた無残なコンクリートの残骸が冷たい雨に冷やされ、熱で気化した雨粒が白い靄となって湖底全体に立ち込めている。その靄の向こうに霞むようにして、自殺現場を覆い隠すブルーシートだけが、廃墟の真ん中にポツンと寒々しく映し出されていた。
馨には、あの霞むような雨と靄の中で、ブルーシートの傍らに突っ伏して泣き崩れる辰巳の痛ましい背中が、まざまざと思い浮かんでいた。
たった一人の家族を取り戻すためだけに、柄の悪いチンピラを装って、姉の村を沈めた九頭龍会に潜入してまで何年もの間彼女を探し続けていた辰巳。すべては復讐など終わらせて、大切な姉を取り戻すため。しかし、その命がけの行動や説得も虚しく、彼の目の前で姉はためらいなく自らの命を絶ったのだ。
必死の願いが最悪の形で断ち切られた彼の底知れない絶望と喪失感を思うと、馨は自分のことのように胸が締め付けられ、やり場のない強い痛みとやるせなさを感じずにはいられなかった。
一方で、警察や世間から見れば、これは単なる孤独な女性の痛ましい自殺事件に過ぎない。 だが、馨だけは同じ能力者として知っている。両親から気味悪がられ、社会から孤立していた真由にとって、この死は絶望ではなく、唯一の理解者であった吉岡という地縛霊と同じ場所で永遠を過ごすために自ら選んだ狂気じみた「完成」ということを。
それでも、残された生者である弟にとって、これほど残酷で最悪の結末はない。姉はもう二度と帰ってこないばかりか、渇水が終われば再び冷たい水の底に沈むあの場所に、永遠の地縛霊として自らの魂を縛り付ける道を選んだのだ。
「……身勝手な姉貴だな、全く」
馨は誰にともなくぽつりと呟いた。すっかり氷の溶け切ったアイスコーヒーを一口だけ煽ると、馨は辰巳の悲痛な思いと、復讐の果てに自ら地縛霊となる結末を選んだ真由の壮絶な生き様を胸の奥に深く飲み込むように、ただ静かに目を伏せ、テレビの電源を消す。
プツン、という小さな音と共にテレビ画面の光が消え、薄暗くなった事務所の中には、死にかけのエアコンが立てる不安定な駆動音と、チアキが気だるげにパソコンのキーボードを叩く乾いた音。そして窓の外から容赦なく響いてくる、夏の歌舞伎町の無情なざわめきだけが、暗い水底に沈んだように身動き一つしない馨の悲痛な輪郭を、ただ静かに浮き彫りにしていた。
第15話:渇水の底と姉弟の還る場所(完)




