千年の観客と矛盾の祝詞
1. 拒絶される探偵
西新宿の高層ビルの下で起きた地縛霊たちの大量消滅事件から数日。馨はその後、何度も天照大神社へ足を運んでいた。目的はただ一つ、地縛霊を消し去る祝詞を唱えたあの制服の少女――天音から、彼女に除霊を依頼した「雨合羽の女」の手がかりを聞き出すことだ。
だが、結果は連敗続きだった。
「またあなたですか! しつこいです、本当に警察を呼びますよ!」
大鳥居の近くで待ち伏せして声をかけるたび、天音はカバンから防犯ブザーを取り出し、馨を完全な不審者として邪険に扱った。彼女にしてみれば、自分は依頼を受けて「悪霊」を退治しただけなのに、見ず知らずの薄汚れた探偵に突然怒鳴りつけられ、しつこく付きまとわれているのだから当然の反応かもしれない。
「頼む、あの雨合羽の女の特徴だけでも……」「知りません! 近寄らないでください!」
今日もあっさりと拒絶され、天音は足早に巨大な石の鳥居をくぐり、玉砂利の敷かれた参道の奥へと逃げ込んでしまった。
馨は鳥居の手前で立ち止まり、深くため息をついた。目の前には、新宿の喧騒を分厚い壁のように遮断する、鬱蒼とした鎮守の森が広がっている。
見えない境界線に阻まれるようなもどかしさと徒労感を抱えながら、馨は忌々しげに神社の本殿の方角を睨みつけた。そして、ポケットに手を突っ込むと、重い足取りでネオンが瞬き始めた歌舞伎町へと引き返した。
2. 千年の疲れ
ネオンが瞬き始める頃、馨は歌舞伎町の路地裏にいた。室外機の熱風が吹き溜まり、ドブの饐えた臭いが漂ういつもの定位置。そこには、1000年以上前からこの場所に縛られ続けている古参の地縛霊、直垂姿の「ゲンさん」があぐらをかいて宙に浮いていた。
「……でさ、その制服のガキが祝詞を唱えたら、半径100メートルにいた地縛霊が一瞬で消えちまったんだよ。首吊りの兄ちゃんも、婆さんも……」
馨はゲンさんの前に座り込み、手元のスマートフォンで最新の時代劇映画を再生して見せながら、ここ数日の西新宿での出来事を愚痴のように語っていた。
画面の中では、派手なCGの火花を散らして侍たちが刀を交えている。いつもなら「太刀筋が甘い」だの「鎧の作りが違う」だのと文句を言いながらも食い入るように見るゲンさんだが、今日ばかりは画面から目を離し、馨の顔をじっと見つめていた。
『……そうか。地縛霊を問答無用で浄化する少女がいるのか』
「ああ。とんでもない凶器だよ」
馨が缶コーヒーを煽ると、
ゲンさんはふと視線をスマホの画面から外し、室外機の熱風が淀む薄汚れた路地裏から、狭い夜空を切り取るようにそびえるガラス張りのビル群と、けばけばしいネオンの光を静かに見上げ、やがて長年の未練を断ち切るように深く息を吐き出す仕草をして、再び馨の目を真っ直ぐに見据えた。
そして意を決したように静かな、しかし重みのある声で言った。
『馨。その少女に、わしの浄化を頼んでくれ』
馨はコーヒーを吹き出しそうになり、むせ返りながらゲンさんを見た。
「な、何言ってんだよゲンさん! 冗談だろ?」
『冗談ではない。……1000年は長い。もう十分だ。ここで何十万回と日が昇り、人が死に、街が変わるのを見てきた。だが、お前が持ってくるその「すまほ」の作り物ほど、今の世は血も涙もねぇ。……もういいんだ。わしを消してくれ』
ゲンさんの瞳には、深い疲労と、途方もない時間を生き(死に)続けてきた者特有の諦念が宿っていた。
馨は必死に説得を試みた。「待ってくれよ! あんたがいなくなったら、俺は誰にこの街の昔話を聞けばいいんだ! まだ見せてない映画だって山ほどあるんだぞ!」
しかし、ゲンさんは優しく首を横に振るだけだった。その決意が微塵も揺るがないことを悟り、馨は唇を噛み締めた。新宿中の誰よりも付き合いが長く、自分を理解してくれていた古き友が自ら消滅を望んでいる。馨の胸に、悔しさと底知れない寂しさが入り混じった苦い感情が広がっていった。
3. 繋がる同意と人徳
「……でもな、ゲンさん。問題がもう一つあるんだ」
馨は絞り出すように言った。
「あの少女の浄化の祝詞は、ターゲットだけを消すんじゃない。彼女を中心とした『半径100メートルの地縛霊を全て消滅』させるんだ。ゲンさん一人のために、この周囲にいる他の連中まで巻き添えにするわけにはいかないだろう?」
歌舞伎町のこのエリアは、新宿の中でも特に地縛霊の密度が高い。ゲンさんを消すということは、周囲の霊たちも問答無用で道連れにすることになる。さすがのゲンさんも、それには同意するまいと馨は思っていた。
しかし――。
『俺は構わないぜ。ゲンさんには世話になったからな』
路地裏の奥、ゴミ捨て場の陰から若い男の地縛霊がひょっこりと顔を出し、明るい声で言った。
『私もいいわよ。ゲンさんがいなくなるなら、ここでの暇つぶしも面白くなくなるしね』隣の電柱の下から、昭和の女給の霊が同意する。
『俺も!』『私もよ!』
その声を皮切りに、路地裏に潜んでいた地縛霊たちが次々と姿を現し、ゲンさんのために自らも消滅を受け入れると口々に言い始めたのだ。それだけではない。「おい、隣の通りの奴らにも聞いてこい!」と、彼らは伝言ゲームのように、半径100メートル内にいる全ての地縛霊たちへ確認を取り始めた。
『一番街の連中、全員OKだってよ!』
『区役所通りの手前まで、ゲンさんのためなら一緒に消えてもいいってさ!』
あっという間に、半径100メートル、いやそれ以上の範囲にいる地縛霊たちから、誰一人反対することなく完全な同意が得られてしまった。
「お前ら……」
馨は泣きそうになった。1000年という途方もない時間、この場所から動かずとも、ゲンさんがどれだけ多くの迷える魂たちを導き、慰め、慕われてきたのか。その計り知れない人徳の深さに、馨は感嘆の溜め息を漏らすしかなかった。
4. 矛盾の依頼
翌日の夕暮れ。馨は天音を連れて、歌舞伎町の路地裏に立っていた。
「……本当に、ここでいいんですか?」
天音は周囲の薄暗い路地を警戒するように見回しながら、馨に尋ねた。彼女がついて来たのには理由があった。数日前に西新宿の広場であれほど「地縛霊を問答無用で消し去った」と怒り狂っていた男が、今日は一転して頭を下げ、「頼む、歌舞伎町の路地裏で祝詞を唱えてくれ」と懇願してきたからだ。地縛霊と話すことができず、霊の姿さえ見えない彼女には、馨のその矛盾した態度の理由が全く理解できなかった。だが、同時に「自分の唱える祝詞が本当に霊を消しているのか、その力を確かめたい」という彼女自身の密かな欲求もあり、不審感を抱きつつも同行を承諾したのだ。
「ああ。頼む、……あの室外機の上あたりに向かって、できるだけ狭い範囲に祝詞を唱えてやってくれ」
馨が指差したのは、ゲンさんが静かにあぐらをかいている空間だった。
「……わかりました、やってみます」
天音はカバンを置き、居住まいを正して静かに目を閉じた。
5. 視点の交差
【馨の目線】
天音が静かに目を閉じ、その小さな唇から神々しい祝詞を紡ぎ出す。 彼女の澄んだ声は、歌舞伎町の遠くで響く喧騒や、路地裏を埋め尽くす室外機の低い唸り音すらも吸い込むように、朗々と響き渡った。
祝詞の言葉が重なるにつれて、馨は肌に触れる空気が劇的に変化していくのを感じた。長年この路地に染み付いていたドブの饐えた臭いや、ねっとりとした生温かい熱風が、見えない清流に洗い流されるように嘘のように掻き消えていく。代わりに、どこからともなく白檀のような神聖な香りを帯びた、清らかで冷たい風が吹き抜けた。
その時、馨は目を疑うような光景を目にした。
天音の背後の空間が陽炎のように大きく揺らぎ、彼女の小さな背中に重なるようにして、巨大で神々しい「幻影」がフワリと浮かび上がったのだ。 眩いほどの白銀の光を纏った、古の神霊――天照大神社の強大な「御神体」そのものだった。その姿は、千年の時を超えて現れた慈愛に満ちた女神のようでもあり、天音の血脈の源流である遥か遠い先祖の姿のようにも見えた。
馨が息を呑んで見つめる中、顕現した御神体の幻影が、室外機の上に座るゲンさんに向かって静かに腕を伸ばし、その巨大で温かな手でそっと彼を包み込むような仕草を見せた。 その瞬間、けばけばしいネオンに照らされていた薄汚れた路地裏が、神社の奥宮を思わせるような白く清謐な光に満たされる。
祝詞の響きと御神体の放つ光に優しく抱かれ、ゲンさんの直垂姿が淡く透き通っていく。 1000年以上この街の澱を見つめ続けてきたその顔には、一切の苦痛も未練もなく、まるで母親の腕の中に還る子供のような深い安らぎだけがあった。 ゲンさんは最後に馨に向かってニカッと笑い、小さく頷いた。
次の瞬間――御神体の幻影が光の粒子となって天音の身体へ吸い込まれると同時に、フッと、ゲンさんの姿が掻き消えた。
あまりのあっけない消失。光の残滓すら残さず、1000年続いた存在が完全に空間から切り取られたように消え去った。
「……ゲンさん」
馨は喪失感に胸を締め付けられ、しばらくその場に呆然と立ち尽くした。
だが、ふと周囲を見渡した馨の目に、信じられない光景が飛び込んできた。ゴミ捨て場の若い男も、電柱の女給も、路地裏に集まっていた他の地縛霊たちが、誰一人として消えていなかったのだ。彼ら自身も
「あれ? 俺たち消えてないぞ?」と自分の手を見つめて驚いている。
消えたのは、自ら強くを望んだゲンさんただ一人だった。
天音の祝詞が「無差別に全てを消す」のではなく、「そこにいる霊の状態(悪霊か、あるいは強く浄化を望んでいるか)」によって作用が変わる、もしくはゲンさんの強大な魂が周囲への影響を全て自分一人で引き受けたのか――。理由は定かではないが、事実として他の霊たちは無事だった。
「ははっ……! 残ってやがる……お前ら、残ってやがるじゃないか!!」
馨はこらえきれず、歓喜の声を上げた。
【少女(天音)の目線】
祝詞を唱え終えた天音は、ゆっくりと目を開けた。
目の前には、薄汚れた室外機と、ビルの壁があるだけだ。彼女には何が変わったのか、何も見えない。視線を馨に向けると、彼は室外機の上の『何もない虚空』をただじっと見つめ、呆然と立ち尽くしていた。
(……やっぱり、この人は頭がおかしいんじゃ……)
そう思った次の瞬間、虚空を見つめていた馨の瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。大の大人が、何もない壁に向かってポロポロと涙を流している。天音がその異様な光景に息を呑んでいると、今度は突然、馨がパッと顔を輝かせた。
「ははっ……! 残ってやがる……お前ら、残ってやがるじゃないか!!」
馨は涙を拭いもせず、誰もいない路地裏のあちこちを向きながら、まるでそこに大勢の人間がいるかのように、独り言で歓喜の声を上げ始めた。
「よかったな! お前も、姉さんも!……ああ、ゲンさんには感謝しなきゃな!」
誰もいない電柱に話しかけ、ゴミ箱の空間に向かって肩を叩くような仕草をして歩き回る男。霊が見えない天音にとって、それは狂気に満ちた、しかし同時に、とても優しく温かい何かに触れているような、不思議で矛盾に満ちた光景だった。
天音はただ黙って、涙を流しながら見えない誰かをねぎらい続けるその探偵の姿を、路地裏の片隅で見つめ続けていた。




