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豹は九段下の駅を通り過ぎ、左手に武道館を見ながら九段坂を上り、千鳥ヶ淵へと道を折れた。冬枯れした桜の枝の下を疾走していると、とらぬ狸がとことことやってきて豹と並んだ。その妙に人間味のあるとらぬ狸は嫌らしい笑顔を浮かべるともみ手でカンタにはなしかけてきた。いやあ、なんね、是非旦那をバベルの塔に招待したいと思いましたんですがね、ほら、こう暗くっちゃあ影もできないでしょ? こうなるってえと、こちらも商売あがったりでえ、影をはぎ取ることもできやしねえ、なんせ、影自体がないとくるんですからねえ、はいはい。そこで旦那には、是非ともその獣にお願いして、灯りの下に行ってくれってえ、そうお願いしてもらいたいんですよ、はいはい。そこへア・バオ・ア・クゥーがやってきてとらぬ狸と喧嘩をはじめた。勝利の塔へいくのが先だ、いいやバベルの塔だ、とやっているところに、名前が服を着て近づいてきて、S・カルマ氏の犯罪歴を陳述し、赤い繭はおもちゃ箱のなかで純粋性を保ち続けていた。カンタは夜のしじまを引き裂きながら、燃えつきた地図を探すため、カーブの向うを目指し、千鳥ヶ淵を駆け抜ける。所詮は、と空気嫁がカンタの胸元でつぶやいた。わたしたち女なんて、砂のような存在なのよ。風に舞い、溜まり払われ、また風に舞う。エピチャム島の時計という名の虫のように同じところを回り続けることもできない。または石の目を持ち、他人の顔に成りすます。皮膚は常に飢え、洪水のような欲望に流され、水中都市で一人の闖入者となり、誰かと密会を重ねの。それはまさに限定された人生、箱の中の夢。人間そっくりな存在。終わりし道の標べにはあまりにも心もとない幻想。それでも飢餓は常に蝕み、同盟を結ばせる。あるはずのない故郷を目指して。あなたはそんな存在である私を抱いてどこまで行く気なの? どこまで、といわれても、とカンタは言った。成り行き上こうなってしまったんだから仕方がないじゃないか。俺がどうとかこうとか、もうそんな話じゃないんだよ。そりゃあどいつもこいつも俺のことを馬鹿にしくさりやがって、頭には来るよ? だけどそんなこといったって仕方がないじゃないか。俺がいくら腹を立てたって妻はどこかの男と眠り続けているし、雪は積もり続けるし、カッコー時計は一定の間隔を置いて鳴き続けるし、豹だってこの通り走り続ける。何だか分からない化け物に追われながらさ。いったい俺に何が出来たってんだい? 何を選ぶことが出来たってんだい?




