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だがそんなことはお構いなしに彼女はカンタにほほ笑みという名の秋波を送り続けている。据え膳食わねばなんとやら、戸惑うだけ損な状況だが、女性経験の少ないカンタにとっては致し方ない反応だった。人はしかるべき時にしかるべき経験を積んでおかないと、あとで非常に困るのである。負債は利子でもって膨れ上がり、いつしか自身の手に負えなくなる。カンタの足は止まっていた。カンタは童貞気質であった。風俗の控室で怖気づき、嬢の顔すら見ずに帰ってしまうタイプの男である。そんな男が刺激的な水着を着た女を前にしたらどうなるであろう。答えは硬直である。奇妙な光景であった。雪の中でたたずむ男女。男は鼻息荒く興奮のあまり下半身がはちきれんばかりだというのに、それでも前に進めないのだ。そんなみじめな男を根気強く誘惑する女。肉体に食い込む水着を武器に秋波を送り続ける。待てど暮らせど代り映えのしない場面に渡り廊下の人影たちは飽き始めていた。言葉にならない言葉でヤジを飛ばしだしたが、カンタはどこ吹く風で固まっていた。まるで冬の寒さに凍り付いてしまったかのようだが、激しく上下し白い息を吐きだし続ける胸がそれを否定していた。電線の人影もしびれを切らし雪を丸めてつぶてを作るとカンタに向かって放り投げた。きれいな放物線を描いたつぶてはカンタの膝裏に当たった。ちょうど膝カックンの要領で体勢を崩し前のめりに転びそうになったカンタは、大きく両腕を広げ抱きしめる形で彼女にしがみついた。その瞬間を人影は見逃さなかった。人影は電線からひょいっととび降りると、らせん状の軌道を描きながら鳴き声を上げた。人影はみるみるうちに姿を変え、その美しい顔に似つかわしくない翼の生えた獣の体は、まさに虚偽瞞着の厭わしい権化だった。さそりの尾を持つ化け物は、もう一度歓喜の鳴き声をあげ穢れた翼を二度三度と羽ばたかせた。それを合図に渡り廊下の人影たちは次々と柵を乗り越え始めた。人影たちは一回転しながら各々姿を変えた。三頭の犬になるものがいた。牛頭の化け物になるものがいた。半人半馬になるものがいた。禍いの尾、汚れた乱れ髪、ずる賢いトリックスター、霜を踏みにじるもの、犬顔、野蛮、洞窟に住む人々の台風、竜のような笑い、鋭い牙を持つもの、犬をひっかくもの、軽妙な幽霊、赤い顔の狂人、など十二の悪鬼になるものもいた。彼らはスリングショットに抱きつくカンタの周りに次々と降り立った。




