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とすると、この声は妻の声ではないとするのが道理であって、そうなると思いあたる節のないカンタにとっては誰なんだという話になる。カンタは耳を澄ませてみた。相変わらず鈴を転がしたような声でカンタのことを呼び続けている。それはカンタの耳元で囁いているように感じられ、よくよく聞いてみるととっても卑猥な気がした。妻でないとするならば、出来れば金髪で胸とおしりの大きい子がいい、とカンタは思った。そんな子が雪の中でスリングショットの水着を着てカンタのことを呼んでいるのだ。とても寒々しい光景ではあったが、スリングショットはそれを上回る熱い期待をはらんでいた。そんなことを考えていると、もう金髪で胸とおしりの大きい子の声だとしか思えなくなった。どちらかといえば性に淡白な方のカンタではあるが、それでも男である以上それなりの願望は持っていた。風俗にはまる同僚の横で冷ややかな目をしていたカンタではあるが、一度くらいはそんな子とベッドを共にしてみたいと思ったものである。今では声だけではあきたらず、水着がずれてしまうのも構わずに女の子はカンタに手を振っていた。よく日焼けをした健康的な子だ。カンタの目にはそんな光景がはっきりと見えて、窓ガラスに映るカンタの頬は緩んでいた。この店を飛び出すべきだろうか? 投げキッスまでしている幻想を追って雪の中に戻るべきだろうか? 難しい問題だった。こんな機会は人生に一度しかないかもしれない。ないかもしれないが、何かがカンタを引き留めていた。それが分からないうちに、ここから動くのは得策ではないとカンタにもはっきりわかっていた。女の子はそんなカンタの様子を察したのか、物哀しそうに微笑むと手を振ってそのまま吹雪の中に消えていった。再び静かになった店内でカンタは深いため息をついた。いなくなればいなくなればで、やっぱり飛び出しておけば良かったかもしれないと後悔しているカンタがいたからだ。それに最後に残していったあの表情、もしかしたら自分は女の子を傷つけてしまったのかもしれない。カンタとしてはそんな気はなかったのだが、結果的にはそうなってしまった。女の子を悲しませるのはモテないなりに矜持を持っているカンタにとって不本意だった。しかし、それも仕方がないのかもしれない。人間、他人を悲しませずに生きていくことなんて無理な話なのだ。この物悲しい出来事の中で、ただ一つだけはっきりしたことは、やっぱり自分は掘られるより掘る側でいたいということだ。いやしく生は求めるが、それと同時に捨ててはならないものもあるのだ。




