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昨日までの生活は、硝子箱の中で保管されていて、カンタの好きな時に取り出せるのだ。妻の優しい笑顔、妻の優しい声、妻の優しい言葉、そんなものをカンタは鏡の中に見た気がした。当たり前の日常だ。カンタはただいまと言い妻を抱きしめ、妻の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。いきなりどうしたのと笑い声をあげる妻の姿が愛おしくて、さらに腕に力をこめた。手放したくない、とカンタは切実に思った。そうだ、全ては自分の狂言だったのだ。頭がおかしくなっていたのだ。妻が浮気をするわけも無いし、愛人とベッドで寝ているなんてことはない。東京に雪だって降っていないし、まだまだ冷めやらぬ新婚生活の延長線上にカンタ達はいるのだ。カンタは妻の手を取り、彼女の名前をつぶやいた。何度だって言いたくなる甘い響きを持っていた。何度目かのデートで初めて下の名前を呼んだ。嚙みながらおずおずと口にしたその姿に、妻はいつもの笑顔を浮かべて「なあに?」と小首をかしげた。女性とは縁のないカンタの不毛な人生にもたらせたその一輪の花は、生涯大事にしていこうと決心させるだけの力を持っていた。カンタは温水を止めると、コートで手を拭いた。店主の言ったとおりだ、もう痒くはない。手櫛で髪を整え、ついでに小便もしていくことにした。どうでした? トイレから出ると店主に声をかけられた。すっかりよくなりましたよ、ほらこの通り、とカンタは手を上げて見せた。そりゃよかった、もうすぐコーヒーが入りますよ。カンタは礼を言うと席に戻った。暖房の風にあたっているとようやく汗をかきはじめた。カンタはコートを脱ぐと畳んで横においた。ネクタイを緩め、ワイシャツの第一ボタンをはずした。隣のテーブル席に新聞が乗っていたので暇つぶしに広げてみた。日付を見ると今日の(正確には昨日の)夕刊だった。一面は大雪に関するニュースだったが、それは嫌と言うほど体験しているのでカンタはとばすことにした。別段これといって目を引くような記事はなかった。政治家が汚職していようが、どこかで事故がおこっていようが、地球の裏側でミサイルが飛んでいようが、カンタには関係なかった。まして有名企業の収支決算など猶更だ。遠い太鼓の音のように感じられる記事を流し読みしているとコーヒーがやって来た。素晴らしい香りだった。店主に言うとまんざらでもない顔をしてカウンターに戻っていった。一口すすり、アチッ、とカンタは呟いた。淹れたてのコーヒーはカンタの口の中を突きさした。




