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しかし掻けばかくほど痒みが増していく気がした。特に指と指の間が痒い。そんなカンタの様子を見かねてか、カウンターの向こうでサイフォンをいじっていた店主が言った。しもやけは掻いちゃだめですよ、温めて揉むんです、血行不良が原因ですから。そんなことをしたって手が荒れるだけだからおやめなさい。トイレの手洗い場で温水が出ますからちょっと行って揉んできなさい。すぐに良くなりますから。カンタは店主の勧めにしたがうことにした。腰を上げるとかすかな眩暈に襲われた。テーブルに手をついてしばらく動かずにいると、大丈夫ですかと店主が聞いてきたので、カンタは作り笑いを浮かべた。風邪でもひいたのかしらん、とカンタは内心焦ったが、すぐに眩暈は消えてくれた。カンタは軽く頭を振った。痛みもなければ視界がぐらつくこともない。毎年の健康診断でも数値に異常のないカンタである。病は気からというし、単なる疲れだろうということにして忘れることにした。トイレは店内と比べると寒かった。それでも外よりはましなのは言うまでもない。温水に手を浸すとピリピリと刺激がはしった。そのまま我慢して揉み続けていると店主の言う通り痒みが取れてきた。カンタは鏡に映った自分の顔を見た。酷い顔をしていた。エレベーターで見たときよりも五割増しで荒れていた。髪はぼさぼさで伸び始めた髭が青白い顔をより青く染めている。スーツの裾には泥が跳ねていた。クリーニングに出さなければならない。まったく、とカンタは思った。何一つとしてカッコいい要素がなかった。コキュ、コキュ、と郭公時計を真似てみた。正確には寝取られてショックを受ける男は哲学者シャルル・フーリエが分類するところのコルナールなのだが、そんな理屈は今のカンタに必要なかった。寒さ痒さから逃れたと思ったら、今度は寝取られたという事実がカンタの目の前を散らつき、カンタの心を弄ぶのだ。なんだか、とカンタは思った。こうして手を揉んでいると、まるで家のトイレにいるかのような気がしてくる。何も知らずに二人の食べ残しをたらふく食べ、飲みの残しのビールを飲み、そしてもよおした、あの時だ。もしかしたら……まだ自分はマンションから一歩も出ていないかもしれない。ここまで自分の狂言で、全ては幻で、隣の部屋では妻が静かな寝息を立てている……それが現実なのかもしれない。あわせ鏡のような、幻日の中を自分は歩み、暗喩という名の幻想を辿っていただけのことだ。

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