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緑のコードは緑のコード、アカのコードはアカのコード、とカンタはと呟いた。波の音も聞こえず、水族館の場所もわからず、猫の名前も知らず、凡庸さの辿る道筋すら想像もつかなかった。自分にはまるで何もわかっていなかった。戦争について何か聞いたかい、と獣の皮をかぶった男が言った。ASKAがやってきて、十八番のナンバーをうたった。ニ千八年の夏の暑い静岡の会場で、大粒の汗を垂らしていた。緑のコードはアカのコードへ。ああ……とカンタは深いため息をついた。タオルで顔をぬぐうと背もたれに体を預けた。天井ではシーリングファンが静かに回り、あるかななきかの風を送り続け、暖房と共に観葉植物の葉をゆらしていた。やっと一息付けたと思ったら、カンタの両肩にどっと疲れが押し寄せてきた。今では痒く仕方がない指をこすり合わせていると、店主がお冷やをもってやって来た。見事な虎髭の恰幅の良い男だった。お礼にケツの一つでも差し出すべきだろうか? 今のご時世なら一発アウトなことが一瞬頭をよぎり、カンタは慌ててメニューをめくった。とりあえず、この芳ばしい香りのコーヒーを注文することにした。何はともあれ温かい物だ。今のカンタならば白湯だって立派なご馳走に映るだろう。それが熱々のコーヒーとあっては文句のつけようもない。店主は何か言いたそうな顔をしていた。注文を取ったあとでもカンタの前を離れよとしなかった。カンタは失礼と紙ナプキンを取ると勢いよく鼻をかんだ。鼻水に赤い糸くずが混じっていた。どうやら鼻の中を切ったらしい。店主の目である手前ナプキンを丸めてポケットに入れた。そして出来るだけ相手に愛そうよく映るよう精一杯の作り笑いを浮かべて今日は寒いですねといった。店主もカンタのその様子に安心したのか、こわばった顔を崩すとそうですねと頷いた。ちょっとした世間話が続いた。カンタは内心そんなこといいからとっととコーヒー持ってこいやと文句の一つも言ってやりたがった、そんなことをして相手にへそを曲げられても困る。当たり障りのない会話を続けた。いやね、と店主は言った。こんな日でしょ、私も早く店を閉めて帰っちゃおうと思ったんですがね、終電なんかを逃したりタクシーが捕まえられなかったお客さんがくるんじゃないかと思ってずっと開けておいたんですよ。カンタはそういった店主に感謝をした。この店が開いていなかったら今頃どうなっていたか考えたくもない。映画シャイニングのラストのような結末になっていたって不思議ではないのだ。それもこんな関東地方の大都会でだ。




