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それが自分にとってのはてしない物語なのだ。ピンク色の生活を思い浮かべたカンタの顔には不気味な笑みを浮かんでいた。何故か十人のインディアンが脳内に流れ、灰色の脳細胞は死滅し、今はただただ妻との新しい生活に思いをはせた。そんな妄想も、へくしゅんとクシャミ一つで消し飛び、そして誰もいなくなったところで手鼻をかんだ。先ほどから鼻水が止まらず、まともに呼吸をすることすら難しかった。歯をがたがた言わせながら、頭に雪をのせたままカンタは真鍮のドアノブへ手をかけた。この扉の向こうには、新たな世界が広がっている筈だ。ふと、こいう場合呪文の一つでも唱えた方がいいのだろうか? とカンタは思った。アブラカタブラも違うし、開けゴマもどこか違った。そうかと思うと、鬼神の眸に導かれて、カンタの口がひとりでに動いた。社の境内なる足許に、切立の石段は、疾くその舷に昇る梯子かとばかり、遠近の法規が乱れて……そんなことを詠んでみた。カンタは期待を込めてドアノブを回し、扉を引いた。そんなカンタを待ち受けていたものは、むせかえる程温かい空気の塊だった。あまりの寒暖差にカンタの頭はくらくらしたが、ファーストインプレッション、悪くはない。温かい事には越したことはないのだ。だがこの光景はどうであろう、扉の向こうはいたってシンプルな喫茶店だったのだ。拍子抜けとはまさにこのことであるが、芳ばしいコーヒーの香りはささくれたカンタの心に訴えかけるものをもっていた。扉もしめずにしばらく茫然と立ち尽くしているカンタに、エプロンを付けた店の主人は何を言っていいのか分らない様子であった。一目で分かるほどカンタの様子は異常だった。青白い顔には目だけが血走っていた。とりあえず……110番をすべきだろうか、店主が冷や汗を垂らしたその時、カンタの口が動いた。「スミマセン、アイテイマスカ……」辛うじて聞き取れたその言葉に、店主は頷いた。カンタは暖房の前の席に案内されると、しばらくそのまま震えていた。積もった雪が溶けて頬を濡らしたがそれでも構わなかった。気を使った店主がタオルを持きてくれた。カンタは礼を言って受け取り、首に巻いてなお震えいていた。散り散りに乱れたカンタの思考は、暖房の温かい息吹と共に新たに芽吹き始めた。焦点の定まらない死んだ魚の目で店内を見渡し、霞んだ視界のフォーカスを調整し、一つずつ自身の置かれた状況を認識していった。細胞がいれかわっていくのよ、と誰かが言った気がした。それは妻かもしれないし、妄想の中の彼女なのかもしれない。少しばかり早いその言葉に、カンタは焦燥感に襲われた。




