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結果的に言えば、蓮池に突撃してみたまではいいものの、見事にはまって泥だらけになって帰ってきただけだった。しかしたったそれだけでも、カンタにはいい思い出だった。それがどこまでが現実でどこまでが捏造なのか今のカンタには区別することも出来ないが、あの暑い夏の日は確かに真実だった。記憶が蘇ればよみがえるほど、その対比でもって寒さが身に染みた。いくら妄想の世界に逃げ込んでみても、この散らつく雪が無くなってくれることはない。段々と頭が重くなってきて、視界も霞みはじめた。まぶたは重く、このまま目を閉じれば眠ってしまいそうだ。これはもう、諦めるしかないのか……カンタは急な睡魔に襲われた。ほら、今では摺ガラス越しの光景に、ぼんやりとした灯りが明滅している。それは風に揺れる店先の電気ランプで、とうとう幻覚まで見え始めたのだ。東京で遭難、三十代の男性が死亡。明日の三面記事にはそんな言葉が踊るのだろうか。それをみて妻は自責の念にかられたりするだろうか。最後くらい、夫を哀れだと思って泪の一つでも流してくれるだろうか……カンタは妻の名前を口にした。その甘美な響きに新婚時代が想起され、幸せの欠片が輝いた。しかしそれもよく見れば、店先の電気ランプで、生意気にキーキーキーキーと耳障りな音をたてて妄想の邪魔をしてくる。幻覚は幻覚なりに慎みをもって眼の前で揺れていろと抗議をしたかった。幻覚の流儀を逸脱したのなら、それはもう現実であり、そうなれば店の灯としてカンタの前に顕現すべきであった。何と傍若無人な幻覚、人生最後の瞬間を邪魔する権利なんて何物にもないのだ。ふざけんなよ、と口にするより先に、「ラッキー!」とカンタは手を叩いて喜んだ。それは幻覚でも何でもなかった。確かに店の灯がついていて、ランプが揺れているのだ。ぬかるんだ雪に足を取られながらカンタは急いで店の前までいった。ドアノブにはオープンと書かれた札がかかっていた。カンタは自分の目が信じられず、何度もこすって確かめた。しかしオープンの文字は消えることはなく、カンタは感動のあまり泪を流して神様に感謝した。困った時の神頼みとはいうが、言ってみるもんだなと先ほどまでの恨みはどこへやら、ただただ感謝の念で一杯になった。それにしても、古風な作りの店だった。くすんだ煉瓦の壁には分厚い窓ガラスが付いていた。ドアも樫だか唐檜だかそんなもので出来ていて、真鍮のドアノブがついていた。どこにも店名の書かれた看板がないのが気がかりだが、しかしオープンという札までかけているのだ、きっとここは何かしらのお店で、開店しているのだろう。




