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勿論警察を支えているのはカンタをはじめこの国の納税者だし、そういう観点からしてみたら自分にも利用する権利があるのかもしれない。現にカンタは困っていて、貴重な給料から毎月少なくないは額を提供し続けているのだ、こういう時に助けて貰ったって罰はあたらないだろう。だが、とカンタは勘案する。だからといって自分としては、声高に権利を主張する人間にはなりたくなかった。傍から見ていてああいう人間は醜いものである。結局のところ、節度というものが重要となってくるのだ。だがその節度とは各々が違っていて、どこからどこまでをセーフとするか、それはその人個人の持つ価値観にかかっていた。価値観とはその人が歩んできた人生、触れ合った人間、周りの常識によって醸成させるものである。そうなるとカンタが醜いと眉をしかめていた人間にしてみたら、こんなことで悩んでいる自分の姿は心底醜く映るのかもしれない。自分と他者にかかった不条理の橋に、カンタはシーシュポスを想起し、巨大な石ころを山頂まで転がしている彼の姿を想像した。少なくとも、彼には目的があった。それがいかに徒労とはいえ、その明確な目的は、彼の頬を綻ばせることであろう。カンタは二十九歳の若い作家の説を素直に受け入れた。なんたって、今こうして目的もなく行われる行為に、カンタは辟易としているのだから。そんなシーシュポスから抜け目なさを受け継いだオデュッセウスは幸せ者である。彼の狡知があったからこそ、オデュッセウスはイタケー島まで帰りつけたのだ。そんな物のないカンタは、はたしてどうやって切り抜ければいいのだろう。シュウサクの元までたどり着いたとして、はたしてそれが何になるのか、カンタには分からなかった。ついさっき事態は動くはずだと強く念じたのに、もうカンタの願いはガタガタになっていた。自分にはアテナかナウシカアーか、もしくはブルームを必要としていた。この哀れなスティーブンに、おせっかいな大人は宛てがわれていないかと、辺りを見回したが誰もいない。何が何だか分からなくなってきたカンタは、結局自分と他人は違うんだという動かし難い事実を、ぼた雪を眺めながらぼんやりと考えていた。そうしていて、ふいに自分は交番を前に何をしているんだろうという漠然とした疑問に襲われた。自分はただ、温かい屋根の下と熱いお茶が欲しいだけなのだ。それ以外は望んでいない。よく分からない神様はいらないし、よく分からない作家もいらないし、よく分からない大人もいらなかった。




