18.【金麗の自責】
エンテンシャー攻略作戦の失敗に絶望の気配を蔓延させるフロムでは、取りこぼした栄光を、どうにか栄光ではなく犠牲に変えようと、必死の言い訳探しが始まっていた。
発端は、リディアと魔法部隊の男一人を乗せたエンテンシャーに追突し、あまつさえそのまま強引にエンテンシャーを奪い去っていった正体不明の巨大エンテンシャー。魔力技術の先進国であるウドガラド、その面々ですら見たことのないほどに巨大な体躯、それを軽々と駆動させる機巧、マザーシステムとの接続を行わずに精密な操作を可能とする性能。何もかもが、秀でている。そのエンテンシャーの前には、なにが立ちふさがっても無駄なのではないだろうか。そんな錯覚すら起こす。
ただ、間違いないことは。所詮民間のエンテンシャー如きでは、そのまま持っていかれるという事実だけ。
「あのエンテンシャー、魔力反応は……」
「探知魔力が弾かれます。おそらく、リデリア系統の機巧を積んでいるのではないかと予想されます。」
ハーヴェストが苦汁を飲み干し、それでも足りぬと苦虫まで呑み込んだ敗北感の先、催したのはこの敗北によってもたらされた損害、被った責任、失った人員、何もかもをないまぜにした危機感だった。
だからこそ、彼はここまで躍起になって勝てなかった、という事実を、戦えなかった、という言い訳に変えようとしているのだ。
「ウドガラドの最新鋭の魔力製品だぞ?そう簡単に反射できるのか?」
だがしかし、まだ足りない。ハーヴェストは、この言い訳をどうにか理由へと昇華させなければならない。その過程に必要な力が、まだ足りない。
人数すらわからない相手にエンテンシャーを奪われ、強引すぎる逃避行に竜伐を巻き込んだとあっては、もはや言い訳にすらならない。
魔法部隊屈指の最新鋭の魔装。魔力分類理論によって存在が確立した魔力の第八知覚器官。簡単に言えば、魔力を飛ばし、その反射によって魔力情報を視覚化するソナー探知のようなものだ。これを遮るには、同等の威力を誇る魔力製品によって反射するか、魔力の超発散によって魔力情報を混雑させるくらいしか方法がない。
そして、魔法部隊の面々が出した結論は、その前者。リデリア、反射系統の魔装によって、その探知魔力が弾かれているという仮説。敵があのエンテンシャーにどれほどいたのか、その一端を掴むことすら、彼らにはできないのだ。
しかし、あれほど巨大なエンテンシャーだ。その内部構造の広大さは凄まじいだろう。あの純然たる質量の暴力に勝るものなど、この国に存在するだろうか。
「ともかく、王城に直行するエンテンシャーに、例の作戦を。あの所属不明のエンテンシャーは、ウルガ氏に通しておけ。」
「了解しました。」
各地、各方面で、不測の事態、不可解な事象。それを取り敢えず王城指揮に投げておけばいいという安易な判断が巻き起こっている。ただでさえ普段の激務に困憊している王城勤務者たちにとっては、悲鳴を掻きならしたくなるほどの状況となっていた。
もはや、このフロムにはなにもない。
愛国者たちの雄たけびも、爆弾を抱えたお荷物も、戦線を割る希望の星も。
分かったことは、相手の人数が分からないことと、エンテンシャーの規格外さだけ。無理解を理解したところで、不可解が生まれるだけ。そこに解は生まれない。
蟠った敗走の余韻に、剣筋の軌跡だけが、地面で小さく光っていた。
★
揺れる。揺れる。
例え地面から乖離しているエンテンシャーであっても、強引に後ろから押されているのだ。相応の衝撃と荒々しい感触は、どうやってもこのエンテンシャーから乖離しなかった。そしてそれは、その男も同じであった。
それが精神の安全装置から乖離した行為であっても、強引な肉欲がそれらをいとも簡単に押し潰すのだ。相応の罪悪感も、寂寥感も、喪失感も。絶対に、人間からは乖離しない。しかし、人間という器から乖離し、死という器に意識を乗り換えたなら、人にしか当てはまらない感覚からは解放されるだろう。
つまり、どうせ死んで感情のない肉塊となるのなら、死ななかった肉欲の限りを尽くしてもいいのではないか。そんな、人格破綻者の断末魔が、この惨状なのだ。
押し倒されたリディアは、その華奢な両手首を片手で締め上げられ、恐怖に喘ぐ心臓の鼓動が、その衣服を微かに動悸させた。魔装を装着した彼の片手は、恒常的に作動している行動補助機巧によって飛躍的な筋力を発揮している。
女性の平均的な身長、体躯、しかしどこか幼さの残る全身で、それを振りほどくことは不可能だった。
やがて男はリディアの足を開き、その贅沢すぎるシートベルトに体を滑り込ませた。
リディアは、王城での執務から駆り出されたため、戦闘を想定していないロングスカートの制服を着ている。しかし、足を広げれば、その防御すら無意味になる。しかし、それに抵抗してむざむざ男に力強くふとももを押し付けるのも、この状況的に無意味といえば無意味だった。
そんな理知的な思考と、脳髄の中を全て支配し尽くした恐怖に基づいて、リディアはわなわなと震える両足をへたりと地面に放棄した。内股気味に放り出されたそれが、恐怖によって力んでいることは、誰が見ても明白だった。
ぐん、と。エンテンシャーの速度が上がる。突撃から開始した加速は、その勢いを一切緩めず、むしろ徐々に増しながら上昇していき、とうとう加速という脈絡を断裂させたエンテンシャーの動きは、速度の変化に時間軸を考慮しない規格外の場所へと到達していた。
それによって体勢を崩した男の腹を、なんとか蹴り上げて、リディアはその拘束から逃れた。
「足技は巧いみたいじゃねーか。愛し合う時も、その器用さを発揮してくれよな?」
がしかし、それはリディアの本意によるものではなかった。
遊んでいた。リディアを捕まえる過程すらも、興奮へのスパイスとでもいうように。男は、わざとリディアの蹴りによって体勢の有利を放棄して、少女を自由に解き放った。
もちろん、リディアの足技の華麗さを考慮して拘束を解いたというのも嘘ではない。しかし、震えて満足に動けないリディアに反撃しなかったのは、醜い加虐心の成せる業だった。
下種なワードセンスに際限はないのか、それとも、リディアに踏みつけられたプライドがまだ痛むのか、男は不要な扇情で少女を嬲り、帰る恐怖に頬を歪めた。
普通ならば、それは過剰なセクハラだと切り捨てられただろう。しかし、この誰の助けもない状況で、仲間だと、戦友だと安心した存在に、背後から刺されたのだ。平静など、取り繕うことすらできなかった。
かかっているのは、相手のちっぽけな命と、リディアの尊厳、清らかな貞操。明らかに差し出しているリスクが違い過ぎる。
なにより。そんな理屈など関係なく。
この状況に乙女が恐怖するのに、理由なんているだろうか。
「最っ低。」
ぷっくらと甘い感触にのる唇から、侮蔑をしたためた空気が漏れた。
それは、恐怖に行動を縛られた中ですら飛び出した、驚くほどに大きな感情だったのだろう。実際、たった数文字の空気の振動に、声音の震えは含まれなかった。
震える足で、凍てつく胸で、乾いた心の亀裂が走る。リディアの身体は、満身創痍の精神をフル稼働させて、逃亡という選択肢をひねり出した。
普段はピンと伸ばされている背筋が、今はふらつく身体に振り回されて定位置を見失い、それに伴った上半身がおぼつかない動きで扉を掴む。自動開閉の時間を待つことすら惜しく、リディアは誰もいない廊下を駆け抜けた。
「っく……ぅぅ……」
走るたびに揺れる己の胸が、視界の端で踊る金麗の髪が、傷一つない真っ白な肌が、何もかもが、この状況を引き起こした元凶のように思えて、その男に対する負の感情を、なかったことにしたくて。
味方からの悪意を、悪意だと思いたくなくて。少女は、その身の何もかもを恨んだ。
走る度、恐れる度、跳ねる度、人の脳髄に注入されて、甘く魔力を犯して、なにもかもをぐちょぐちょにして、味方のか弱い少女にすら、その悪辣な手を伸ばす。そんな嬌声を、漏れ出る声を、恨んで、恨んで、恨んで。
それでも混入してくる金が、どうしようもなく消えなくて。
「こんな……もの…………!」
視界不良のわずらわしさに、苛立ちを受けて振り切られた手が、空中で踊る金を割く。ふわりと舞って背後に抜け、静かに背中に着地するそれらに留飲を下げつつ、尚良好になることのない視界に違和感を覚えた。
それは、涙だった。
刹那、わっと湧き上がってきたリアルが、どうしようもなくリディアを蹂躙した。
敵と、戦うはずだった。決して、味方同士で争い合うなんて愚行、犯すはずがなかった。それなのに、ここまで情けなく、逃げ回るしかない。こんなにも無力に、喘ぐしかない。
恐怖が、肺を舐った。嫌悪が、背筋を砕いた。焦燥が、全身を走った。絶望が、脳髄を犯した。
悪いのは、自分だ。
こんな体で、あんな密室で、男を誘惑した。それが、自覚のあるなしに関係なく、事実なのだ。これは、決して、あの魔法部隊の男が悪いのではない。この逃走劇の非は、間違いなく自分にある。
それなのに、自分はこうして逃げいている。責任に背いて、走り出している。
なんて弱くて、情けない。
そうして取り繕った自己嫌悪が、ボロボロと零れて、パリパリと破れて、そのうちに庇った本質を暴き出す。
誰がどう見ても明らかだ。そこに、リディアの非はない。
間違いなく、なんの議論の余地もなく、悪いのはその男で、その男が、この事件の元凶なのだ。
その男が、国を、上司を、作戦を。
リディアを裏切ったことは、どうしようもない事実なのだ。
滲んだ涙は、雫となって、零れる雫は滂沱となって、行き場をなくした感情も、行き場をなくした恐怖も、行き渡ることのない笑顔も、行き渡らない安心も。全ては、収まることのない震えのもとに伏した。
もう、リディアは運命を呪うことしかできなかった。この惨状で、元凶の所在を突き詰めたら、絶対的にその醜い裏切りを許容しなければならなくなる。それを、認めざるを得なくなる。
だから、元凶を天に押し付ける。
全ては、運命が悪かった。この世界が、悪かった。
自分は、不幸に愛され過ぎた。
★
魔装の駆動音が、その暗闇の中で低く響き渡っていた。
腕をはめ込むようにして装着する次世代魔装。その重量は中々のもので、その分の性能も保証されているのだが、それを差し引いてもそれは重過ぎる。そこで、魔装の重量を人間の身体の軸に近づけ、体感の重さを軽減しようと作り出されたのがこの魔装だ。
それだけなく、どうしても近接戦闘に別途の武器や技術を必要としてしまう、遠距離型の魔双師たちの特性のために、魔装としても運用可能で、なおかつ近接戦闘時の補助までできるという機能まで兼ね備えている。
多種多様な用途の内包によって、必要とされる技量は従来の特殊魔装の比ではないが、その分、使いこなせれば強い。
暗いエンテンシャー。それは、青白い、薄暗い、そんな無機質な暗さではない。意図的に、作為的に行われたものだ。途中で人の手が介入した暗闇。それだけで、この漆黒にも温かさを感じるのだから不思議なものだ。
エンテンシャーの加速は止まらない。
もはやそこが敵地であるということも忘れて、一向に殺しに来ない敵を忘れて、都合のいい現実を掴み取って、男は余裕の表情でリディアを追う。
ウドガラドの鉄仮面。リディアの一貫した無表情ぶりは、王城内部でも一定以上の知名度を誇っており、彼女に足蹴にされた男たちの死体の山は、王城勤務の男性職員の数とおおよそ一致するといわれているほどだ。
そんな少女が、自分に恐れおののき、涙すら浮かべて、躍起になって純潔を守ろうとしている。それがどれほど男の嗜虐心を煽ったことか。
ただでさえ海綿体でしか物事を考えることのできないサル同然の頭脳に、絶好の餌を与えてしまったも同然だ。
「なぁ~あ~?もういいだろー?ぱぱっと楽しもうぜ??」
エンテンシャー一つといえど、その広さは馬鹿にできない。リディアたちの乗り込んだ普通程の大きさのエンテンシャーでも、この一瞬の間に男がリディアを見失うほどには大きい。
がしかし、それと同時に。
「みーつけた……はは……ははははははっ!」
その一瞬で見失った少女を見つけ出せる程度には、小さい。
リディアの履いていた靴。ヒールのようになっていた部分が半ばからへし折れ、それによって巻き起こったのであろう転倒が、少女の額と足首を赤く腫らしていた。それとは関係なく腫れた瞳に満足して、快晴のような晴れやかな気持ちで、男は肥大化した己のものに手を添えた。
「怪我しちゃった?しちゃった?くへへっ、逃げるからだぜー、大人しくその穴開いとけば楽だったのにな?」
何が可笑しいのか、男は堪え切れないとでもいうように爆笑の限りを尽くした。
実際、可笑しかったのだろう。魔法部隊、国民からは騎士団の二番煎じ、おちこぼれと称される部隊で、その中ですら頂点に達することのできなかった自分が、そんなつまらないカーストをぶち壊して栄光を勝ち取った竜伐を慰み者できるのだから。
喜劇だ。そして、悲劇だ。
突然宝を奪い取ることに成功した男の喜劇で、突然宝という名の供物にされた少女の悲劇。
「『ベルタ』」
雷属性初級魔術『ベルタ』。
通常ならば静電気にしては強いが、電撃と称するには心もとないほどの力でもって顕現するその魔術が、彼の使用する特殊魔装を通すと、価値観が変動する。
それは、決して威力を上げた一撃ではない。もちろん、威力を上げるくらいの性能ならば、彼の特殊魔装にも付随していただろう。しかし、そんなものが些細に思えるくらいに、彼の魔装は優秀過ぎた。
「んじゃ、大人しくしててね?最初は痛いだろうけど、すぐキモチよくなるからさ。」
先の再現をするように、男はリディアの両手首を縛り上げ、その華奢な体を片腕で持ち上げた。魔装による筋力強化、その圧倒的な膂力の違いに、もはや対抗策はなかった。
そして、彼の魔装の性能に驚愕したのは、その一瞬の後だった。
「ッ!?っっっ、……ッ!?!?」
硬直。
なんのひねりもない。それは、迸る稲妻の再現が、死なない程度に全身をしゃぶりつくし、動こうとする有象無象を痙攣させているからに他ならない。雷属性魔術。超速の攻撃魔術。防御はほぼ不可能で、魔力制御に非常に苦戦することから、回避行動を唯一の対抗策としている、優秀な攻撃魔術。
しかし、その側面があるからこそ、初級魔術には誰も目をくれない。優秀な攻撃魔術と称されるのは、少なくとも中級から。所詮強めの静電気程度の魔術を使おうなどと思うのは、よほどの暇人か、よほどの変態だ。
「すごいだろ?魔術の浸透だよ……俺の魔装が、初級魔術を切り刻んで、お前の全身に均等に魔術をばら撒いてくれたんだよ。」
事実だろう。リディアの身体の節々で存在を主張する流動体の感覚は、不可解な軌跡を刻む雷撃の感覚と酷似している。つまり、完全な麻痺状態。
「じゃ、いただきま~す」
動かないリディアに、動かないのだと決定付けた動けないリディアに、男はゆっくりと手を伸ばした。
最初に犠牲になったのは、彼女の貞操観念の象徴ともいえる、いっそ堅苦しいほどのロングスカートだった。ビリビリと引き裂かれ、ミニスカートほどの長さに裁断されていく布。同時に、リディアの穢れなき身体が、徐々に晒されていく。
艶めかしい曲線を描く細い脚、ただそこにあるだけでバランスを整え、彼女のスタイルの規格外さを露呈させる可愛らしい膝。なにより、ほどよく肉のついた、細すぎず、太すぎずの絶妙なバランス。その微かなストライクゾーンの隙間を、まるで狙いすましたかのように撃ちぬき、あろうことかその中心に穴をあける精密なふともも。
冷たいエンテンシャーの床にむっちりと張り付いた生足は、逃亡の余波か恐怖の波動か、汗ばんで色気を増していた。
嫌悪感も、恐怖心も、なにもかも。混乱しすぎて、混濁しすぎて、表情に出す過程すらパスしなかった激情の数々は、互いに互いを潰し合い、残った絶望感に一掃される。そして、もはやどうしようもないという諦観に変わって、なくなったはずの悲しみがじんわりと眼球に充満した。
「もう……やめて……」
やめてくれ。漏れるのは、男への懇願。
どうしてこんなことをするのか、そんな疑問。もちろん、答えは既に出ている。嫌というほどに知らされて、叩きつけられた。
どうすれば、許してくれるのか。同様に、答えは出ている。その魅惑の肢体を差し出せばいい。
どうにか。この状況をどうにかできないだろうか。この恐怖心の中で、果たして正常に魔力を動かすことができるだろうか。そもそも、この痺れ切った体が、どうやっても動いてくれないだろう。
そうして、リディアの全感情は、涙としての存在も許されぬまま、どんな言葉にすらもならずに、残された懇願という選択肢に流れ込むのだ。
懇願した。やめてくれ、助けてくれ。
嘆願した。この行為に、何の意味がある?
哀願した。その恐怖に、報いるから、と。
願って、願って、願って、男に差し出す言葉も、感情もなくなったところで、男にも余裕がなくなってきたらしい。震える手は、脳内麻薬の流動によって汗ばんで、おぼつかなくなった身体操作の影響で唇の端から唾液が垂れ下がり、それを止める唇も、手も、意識もなく、ただただ地面に落ちた。それはもうどうしようもないくらいに。
本格的に、頭から理性を失いかけたその双眸と相対して、絶望が、たった一つの懇願を生み出した。
それは、男に向けたものではない。自分を襲おうとしている相手に、何かをお願いしようなどという下からの姿勢でなど、異常にもほどがある。もちろん、だからといって誰かもわからないスピリチュアルにも、主とやらにも一切あてはまらない。
彼女が、リディアというなによりも強い少女が、強くあろうとした少女が懇願したのは、叫んだのは、何物でもない。唯の、
「助けてよっ!アキトッ!!」
涙が絡まり合って、慟哭がひしめき合って、悲痛が突き刺さり、恐怖が破裂した叫び声が、男を超えて、エンテンシャーを超えて、距離すら超えて。
「お前は、強いな。」
リディアの乗るエンテンシャーが何かに激突した。既に後ろから激突された状態でここまで進んできたため、板挟みされたような形になるが、損壊の音がそこまでなかったことを考慮すると、きっとぶつかったのはこのエンテンシャーよりいくらか小さい何か。
しかし、エンテンシャーの巨体に抵抗を返す程度には大きな、何か。それこそ、小さな、エンテンシャーとでもいえばいいだろうか。
突き破られた壁から、何かが存在した。
ゴリ、と。骨を擦り合わせて、尚受けきれない摩擦力がそれを砕くような痛々しい音が、男の顔面から噴出した。どうやら、それを成したのは目の前で足を振り抜いた後の少年で、いくばかの傷跡を増やした青年で。
「アキトぉ……!」
涙に潤んだ金麗の声が、少年の名を呼んだ。青年の、肩書を暴いた。
ミカミ・アキトの、背を叩いた。
★
アキトの蹴りは、順当に男の顔面を貫き、噛み締めた歯根を砕いて、その破片は舌にすらめり込んで耐えきれなくなって天を仰いだ。勢いを空へと逃がし、舌からゴポゴポと流れ落ちる血液を、必死に空気を吸おうとする呼吸活動が噴水のように弾けさせた。
情欲を痛覚に塗りつぶされた男が、困惑というには衝撃的すぎる感覚に意識を飛ばす。痙攣しながらもなにかを求めて空を掻いた両手をアキトが掴み、跪いた劣悪な面に真上から靴底を叩き落とした。
ゴリッ、と。次は本当にどこかしらの骨がイカれただろう。腕か、あるいは肩か、骨折で済めばいいが、音から察するにその度合いは既に粉砕の域を超えていた。
アキトが両手をぱっと離せば、男はふらりとうつぶせに倒れ始める。もはやそこに意識は介在していなかっただろう。痛みすらも遠い世界で、男は刺激的な快眠に身をやつしている。
それでよかった。だって、もうリディアを襲うことはないだろうから。
ゴリぃ、と。顎を打ち砕いたアキトの膝が、モロに衝撃を、脳に鈍撃を、呼び覚まされた意識が最初に感じ取ったのは、口腔に残っていた心もとない歯の羅列が、興奮に唾液を垂らしていた影響で垂れ下がっていた舌を噛み潰したという痛み。
健康的な赤を、鮮烈な赤に変えて、男の舌が歪なひしゃげ方で痙攣した。何本かの筋肉を切ったのか、その振動は病的なものがあり、既に攻撃は充分。もうアキトからの報復は必要ないだろう。
アキトの膝蹴りによってバタリと仰向けに倒れた男の喉元に靴底を添えて、かすかな躊躇ごと踏みつぶす。
体中の空気を鼻から引き摺り出したかのような気色の悪い音を噴出させて、男の喉ぼとけをへこませる。
硬い殻のようなものが気道を蹂躙する感覚は、吸えない空気の恋しさすら忘れさせ、純粋なまでの圧迫感に鮮烈なアクセント。堪え切れなくて鼻から体液が漏れ出て、続く放出に口からも排出が始まった。
黄土色だとか黄色だとかどどめ色だとか、人体から出てくるもののほとんどの色を再現した粘つく液体たちが、エンテンシャーの床を修復不可能なほどに汚しつくす。
擦り切れたのか、首の裏から漏れ出した一筋の血液。ポロポロと地面を滑って、壁に接触した。
エンテンシャーの加速が止まり、移動しているかどうかすら怪しいほどのスピードに減速。
ものの数秒で想定しうる限りの死なない急所を突き終わったアキトは、意識の隙間を放棄するために、男の仰向けの身体を足で裏返し、尾てい骨を少し上ったほどの隆起へと踵を突き落とす。
しかし、さすがに脆弱なアキトの一撃では大した反応は見られず、二回、三回と回数を重ねていく。そして、それが二桁に差し掛かろうかという時、ゴリィッ、といういっそ心地いい音で骨肉の断裂と、粉砕を確認した。
口腔を潰すことで魔術の発動を抑制、舌を砕くことで魔法発動に関わる精神安定の阻害。もしもの時のために背骨を砕き、歩行すら不可能になったであろう男を足蹴にして、エンテンシャー二階入り口から放り投げた。
遅れて、ぐちゃ、という音がくぐもって聞こえてきたが、どうせ死んではいない。大した感慨も得ずに、アキトはやってしまったとでもいうようにバツの悪そうな顔でリディアを見た。
そんなアキトの視線に気づいたのか、恐怖に、短いロングスカートを握りしめるだけだったリディアは、ボロボロと零れ落ちた涙を必死に拭って、追加で発注された涙にも緊急ストップをかける。
今更どうしようもないであろうに、どこまでも自分を強く見せようとするその変わらない姿勢に、アキトは思わず息をついた。
「ちょ、ちょっと……!ぐすっ、……わ、笑ったわね……ずっ……」
大人しくしている状態でも怪しかった涙の抑制が、喋りながらというマルチタスクに移行した瞬間精密さを失い、再び決壊した。
彼女のそれは、正常な反応だ。
在ってはならないが、あってしまったのなら、それは正常で、だからこそ、アキトも笑みを漏らすことができた。それでも、アキトの表情からはどこか浮かない表情が抜けない。
もちろん、あれほど好き勝手にほっぽり出して、意味深な別れ方をして、最悪の再開をして、自分は敵だと声高に宣言したのだ。それなりの気まずさはあった。しかし、アキトが真に気にしていたのは、それではなかった。
「笑ったのは謝るよ。んじゃ、俺は通りかかっただけだからこれで……」
「え!?え、ええ……って、返すわけ……ないでしょ!」
まだ涙を啜りながらアキトを呼び止めたリディアは、またしても脳髄を蹂躙する激情の数々に頭を悩ませた。浮かんでは保留に、湧きだしては保留に、口を突こうとも保留に、優先順位の定まらない優柔不断な感情たちに歯噛みしながら、リディアはどうすることもできずに硬直した。
しかし、そうしているうちにアキトがどこかに行ってしまいそうで。また、見えなくなってしまいそうで。
「……お前……」
リディアの華奢な体が、アキトの腕の中にすっぽりと収まっていた。もちろん、アキトから抱き寄せたとか、そんな主人公のようなイベントではない。ただ、リディアが身を寄せて、そのぬくもりの中に居たいと懇願しただけだ。
遠慮気味に、それなのに図々しい行動で、リディアはアキトの胸板に額を合わせて、少年の鼓動に己を感じるように。小さく息を吸って。
「ねぇ、」
「もう、時間切れみたいだ。」
言おうとした言葉を、アキトが遮った。涙混じりの潤んだ声を、止めることすら憚られる、敵であることすら漂白する。そんな、危険な響きを。
リディアが何を言おうとしていたのか。アキトには想像がついていた。
当たり前だ。アキトはこの国を壊そうとした立役者。それでいて、リディアに救われた最弱だ。そんな少年を見つけて、その正義感の塊である少女が見逃すはずがない。
来るのは罵詈雑言の数々だろうとあたりをつけて、その先にある和解という結末を恐れて、アキトは抱き留めていたリディアをそっと、突き放した。
「俺は、…………お前の敵だから……さ。」
青年は、その少女の姿を出来るだけ見ないようにして、その大きな背中をリディアに向けた。それを止められる力がリディアに残っている筈もなく、アキトの姿は突き破られた壁の奥へと消えていった。
そして、一瞬の停滞の後、壁の奥が移動を始めた。正確には、突き破られた壁の奥のエンテンシャーが、加速を始めた。
よくよく見てみれば、リディアの乗っていたエンテンシャーを押していた正体不明の超巨大エンテンシャーも姿を消しており、リディアの乗るエンテンシャーはたった一つ、ぽつんと孤立していた。
ボロボロになったエンテンシャーの中で、穴だらけの壁を見つめて。
「ありがとうくらい、言わせなさいよ。」
拭った涙をしまい込み、いつもと変わらぬ無表情で。しかし、ほんの少しだけ緩んだ唇で。
あってはならない邂逅に、リディアはほんの少しだけ、しがらみのない笑みを見せた。
next→明日3/9 10:00




