7.【イドの在処】
物心がつく。大人になった時の記憶の原初を探すとき、必ずそんな言葉を聞かされるが、通説として、物心というのはいつつくのだろうか。
人格形成が約三年だと定義されている世論に照らし合わせれば、きっとそれと同時期。あるいはその少し後なのだろう。いわば、それは自我の覚醒がいつなのかという話。
判断力を持たない赤子や、倫理観の養われていない子供。個性をそっと覆い隠す青年。
自我というのは、芽生えさせるだけ芽生えさせられた挙句、最終的に踏みにじられ、その存在を腫物のように扱われる、不憫なものだ。
しかし、自我を持たぬ人間はただの抜け殻。心をなくした肉の塊。血液の袋。
では、自我というものがもっともその役割を全うしているのは、いつだろうか。
自我を覚醒させた子供は、その先で唯一というものを煙たがられる。異物を、排斥したがる。そうして、自我は自我でなくなっていく。
では、自我がもっとも自我であり、まっすぐに心と体に繋がっているのは、いつだろうか。
社会に殺されていない自我を持つには、どれくらいの年齢が最適なのか。
染まりやすく、靡きやすい。けれど、純情で、まっすぐで、汚れを知らない。
人はいつ、自我を疎ましく思うようになる?
★
人々の声は重なり合って絶叫と化し、叩き鳴らされる足音は混ざり合わさって鼓動を模した。
煉瓦造りの地面をひたすらに踏みつけ、返る力を糧に己を救おうとする人ごみは、まるで絨毯のような密集具合を作り出しており、ときおりその表面をたわませては恐怖の波を描き出す。
閑静な住宅街。そんなありきたりな言葉の似合う、本当に平和な区域だったはずだ。
市に近く、都心から遠い。田舎過ぎず都会過ぎず、そんな理想的な立地であった住宅街は、これまでに見たことのないほどの人の波で埋め尽くされていた。
もちろん、全員が全員この街の住人ではない。ここまでの人数が収容できるのなら、そこは既に都会だ。では、何故ここまで人が固まって流れてくるのか。
簡単だ。その人々は、違う区画から流れ込んできた、難民的な人々だからだ。
知らない顔の中に時折混ざる知人、隣人。文字通りもみくちゃになる自分の生活に、絶望する者、滂沱する者、自暴自棄になる者。十人十色の反応で感情の色合いをカラフルに醸し出す人、人、人。
そんな中、少年ルドウェルは怒っていた。
母の優しさと父の厳しさ。そして、両親の温かさによってこの世に生を受けた彼は、人生を始めて六年。
約三年で自我を身に着け、残りの三年で魂を磨いた。
母親の筋の通った生き様に正義感と倫理観を身に着け、父親の芯の通った信念に厳しさゆえの優しさを学んだ。そんな少年は、どうしてもこの状況を看破出来なかった。
母は、矛盾を何より嫌った。自分のできないことを人に強要しないし、自分のできていないことに対して説くこともしなかった。その代わり、彼女はなによりも心の強い女性だった。
何もかもを人一倍強い責任感と笑顔で切り抜け、正しさを忘れたことは無かった。
父は、弱さを何よりも嫌った。自分の品格を落とす弱さを何より嫌ったし、息子にもそうであってほしいと声を漏らした。その代わり彼はなによりも強く在ろうとした。
弱音を説き伏せ力を振るい、剣技ならば騎士団にも匹敵するであろう力を、執念の鍛錬のみで叩き上げたのだ。
きっとそんな父に母は救われ、そんな母に父は弱いのだ。
そんな何物にも汚されることを赦されないルドウェルの心は、人生始まって以来の巨大な決断に晒されていた。
「早く、逃げなさい。避難所に行く。それが、あなたのしなければならないことよ、ルドウェル。わかった?」
母は、足が悪かった。
生まれつき股関節の魔力導線に障害があり、片足を満足に動かせないのだ。年齢を重ねるにつれて露呈し始めたそれに、母は一切屈することなく闘病し、なんとか日常生活に支障がない程度には回復した。しかし、その人ごみの中に入り込んで、大質量に揉まれながら走れるほど、彼女の日常生活はアグレッシブではない。
異常事態にかき鳴らされるサイレンの中、彼女は、彼女だけは、なによりも自分を見つめ、なによりも息子のためを思った。
「い、嫌、やだよ!母さんを置いていくなんて、したくない!」
濁流の如き勢いで人が流れていく横で、ルドウェルの怒号が母に飛ぶ。
誰にも汚されていない健全な精神が、その母の自棄的な言葉を大人しく呑めるはずがなかった。
けれど、ルドウェルの本質はその優しさにない。両親から享受した、心身共の強さだ。
駄々をこねる子供ではない。それは、先を見据える少年だ。
出張で居ない父に代わって、ルドウェルは母を守らなければならない。それが、今ここにいない父から貰った、初めての信頼だ。
だからといって己を見失わない母を無理矢理動かそうとすることがどれほど無謀なことか、ルドウェルは知っている。その母の頑固さを、なによりルドウェルは知っている。
そして、その頑固さこそが母の美しい部分だと、ルドウェルは知っている。
だから、ルドウェルは真っ直ぐに母を見つめ、抑制することのできないほどに膨れ上がった感情を滲ませた。
「母さんができないことを、僕に押し付けないで。」
「……っ……ルドウェル……」
母は、矛盾を嫌った。
自分にできないことを人に押し付けることを、何より嫌った。
自分ができないことができない誰かに、偉そうに言葉を紡ぐことの醜悪さを、何よりも知っているからだ。それを教訓としてくれるように、母はルドウェルにいつもその言葉を捧げた。
だからこそ、ルドウェルは母の頑固さに賭けた。
母ならば、この言葉に乗る。その言葉の意味を、重みを、誰よりも自分に説いた母ならば、その言葉を蔑ろにすることはできない。
「母さんは逃げられない。なのに、僕を逃がそうとするなんて、自分勝手だ。」
「……いま、は。今は……」
「僕は、そんな母さんに育てられたわけじゃない!」
毅然とした態度。それは、子供の枠に収まらないほどに強い自我によるものだ。しかし、所詮それでも子供の言葉。理屈にあてはめたとしても綻びの目立つ、些か稚拙すぎる叱責だった。
しかし、母の琴線に触れるには、十分すぎる叱責だった。
「……わかったわ。……あなたは本当に、お父さんによく似てる……」
凝り固まった思想に思わぬところから差し込まれた希望。それに思わず表情を弛緩させた。
彼女が馳せるのは、寡黙な優しさ。息子とは正反対の夫の優しさだ。しかし、息子のその優しさの向こう側には、根底には、絶対的な伴侶の気配があるのだ。
そう。その強く在ろうとする心こそ、自分たちの息子だ。
逡巡の果て、ルドウェルの声を赦した母に、少年は優しく言葉を重ねた。
「絶対、大丈夫だから。」
息子のその在り方に場違いな感動を抱いた母の希望を、たった一瞬の轟音が打ち砕いた。
「ッ!?」
「なに……!?」
母が息を呑む音が、ルドウェルの不安を掻き立てた。
まるで岩を爆砕したかのような爆発音が人ごみの中を駆け巡り、一瞬の逡巡すら許さずに感情を恐怖と困惑に塗り替えた。
岩砕の余韻とでも言おうか、形容しがたい空気の淀みの中、幾筋の土煙のようなものを誰もが視認した。丁度、人波の進む真逆の方向から。
つまり、その人ごみは、爆砕の主から逃げているということだろうか。俄然納得がいった。いくら一般人とはいえ、ウドガラドはかつて武装国家であった国だ。一般市民の平均的な戦闘力は、古代帝国には劣るが決して低くはない。
そんな住民たちが、己の誇りや外聞をかなぐり捨てるほどに醜く、自分の命の残り火を守ろうと画策する。それほどに大きな脅威。
騎士団の大部分が他国の援助に駆り出されている中、狙い澄ましたように起こった異常事態。
ほぼ確定的に、それは反乱に近い緊急事態。
脳内で警鐘を鳴らす言葉のフォントは規則の順守を辞退し、思考自体の秩序をかき乱す。実体のないものに触れることはできない。どうしようもないパニックを抑えられるのは、根源の切除。
歯噛みする母の手を握り、ルドウェルがその表情を和ませる。
「僕が守るよ。」
母の手を握る左手と、父の剣を握る右手。
父の使わなくなった短剣は、ルドウェルほどの子供が持つとまるで片手剣のような様相を呈し、少年の幼さをやっと実感することができる。
しかし、それと相反する勇気の大きさに、母も表情を和ませる。
人の波が、徐々に薄れる。
そして、暴虐が始まる。
★
ウドガラドは魔獣の侵攻が多く、最も魔獣侵攻の被害にあう国土最南端の街は、それを生業とする冒険者によって発展していた。しかし、魔獣というのもそこまで甘くはない。ウドガラド内の死者数の約四割はその街の人間が、魔獣に惨殺されたものだ。
街の名はウドガラド第四都市【アイボリック】。ウドガラド騎士団序列上位クラスの強さを誇る都市代表、アイボリックに統治されている都市で、ウドガラド中に魔獣の脅威を説いた功労者の都市だ。
そんな【アイボリック】の魔獣侵攻回数は年間五十件を超え、それ故に彼らの発信する緊急避難所の義務化は、国内でも取り上げられることが多い重要な議題だ。
しかし、それだけで普及率が上がるわけもなく。もとは魔獣からの脅威に備えて作られていた避難シェルターが、魔力災害の被害者を大きく減らしてからというもの、その有用性が認められ、ウドガラド全土、魔獣の危険性のない街にも普及した、という側面もあった。
そのため、ウドガラド中央都にも、各地に大人数を収容できる緊急シェルターが設置されていることが多かった。
人の波が一心にルドウェルたちの住宅地を目指したのは、希望を見失ったことによる自暴自棄な逃亡ではなく、自分たちを救う希望を手に入れるための自給自足的な攻防だったのだ。
なぜなら、ルドウェル達の居住区域にこそ、そのシェルターがあるのだから。
人ごみが薄くなったことを見るに、今まで阿鼻叫喚の波を形成していた人間の羅列、その大部分をシェルターが中に匿うことに成功したということだろう。
安心感とともに自分たちが逃げ遅れたという焦燥感に気付いた母は、愛しい息子を抱いて走り出そうと思案し、それをすぐに行動に移した。
だが、ルドウェルが静かにそれを制した。
「駄目だ。」
いつものような優しい口調ではなく、明確に告げられた拒絶の意思に、母は思わず動きを止めた。
ルドウェルの目は、どこか違う場所を見ているようだった。
今、この瞬間を見ているのではない。いつか、別の瞬間を目撃しているような、疎外感。この世界全てからの、異質な存在感。
しかし、繋いだ手から伝わってくる温もりは、紛れもない息子のもので、そのギャップが酷く落ち着かなくて。されどその成長の証に感涙してしまうのは、決して背反した感情ではなかっただろう。
「あぁ……ここだ。」
「え……?」
爆裂の音色が、衝撃波となってルドウェル達の耳朶を叩いた。
等しく震わされた鼓膜。しかしそこから生まれる反応は、ルドウェルと母では大きく違う。
やっと合点がいった、と。そんな表情で頷いたルドウェルと、脳内の爆音の残響に顔をしかめる母とでは、絶対的な相違点がある。
ルドウェルは、恐怖という感情を所有していなかった。
固く手を繋ぎ合っていた煉瓦たちの結束は、いざ想定外の衝撃に見舞われれば簡単に離されてしまうような安いもので、煉瓦のひとかけら、それは、幾多にも重なり合って、積み立てられて、そうしてやっと一つの建造物という役目を全うすることができる。たった一つでは、何の意味もないもの。
しかし、創造の為に数多の存在を必要とするそれも、こと破壊という役目に至っては、たった一つで数多の命を奪うことができるのだ。
空気を引き裂きながらその質量の重要さを刻一刻と増し続ける煉瓦の暴虐は、まるで狙い澄ましたように。まるで、そこに在ることが決定付けられた確定的な未来であったというように。大質量の残骸たちは、ルドウェル達の周辺へと降り注ぐ。
加速する残骸はやがてルドウェル達を押し潰して、か噛み砕いて、叩き潰すように、すり潰すように、嗜虐的な哄笑をあげる残骸の声は、滑稽だった。
「スゥっ……」
煌めいた一閃の鋭さ。その懐かしさに、母は思わず感嘆の声を漏らした。
ルドウェルの幼い手が、簡単にへし折れてしまいそうなか弱い少年の腕が、不釣り合いな剣を手に、分不相応な覚悟を背負い。
どこに瓦礫の暴力が訪れるのかわかっていたかのように、たった一度の剣撃で、刹那の刀身の霞みで、全ての瓦礫を滑らかに切断し、所詮瓦礫の欠片へと変質させたのだ。
「ぇ……」
粉砕された瓦礫は、母の真横を通り過ぎて地面を転がり、やがて舗装された道を抉り取りながら、衝撃波を振りまきながら静止する。吹きすさぶ空気の余波の中、母は湧き上がった疑問をルドウェルに問うた。
「ルドウェル、父さんに剣を教わったの?」
人間業ではない剣の腕前。同年代どころか、剣士と名乗っても違和感のないほどに完成された太刀筋。それはほんの少し剣で遊んでいた程度では身に着けることなどできない、完璧な領域。
普段のルドウェルと父の距離感は、母では計り知れないものがある。
一切の言葉を交わしていないように見えて、彼らの間には確固たる絆がある。下手をすれば、母よりも深い絆で。しかし、父はそう簡単にルドウェルに剣を握らせることは無い。
父、ダリアは、師を持つことなく天才的な剣才を発揮し、その剣術を見込まれて騎士団レベルの強さに上り詰めた化け物だ。剣に対する想いは、並々ならぬものがある。
剣が持ちうる力も、剣が繋ぐことのできる命も、剣に救える何もかもを、ダリアは知っている。
だからこそ、剣を持つための力も、剣に繋がりを断たれる命も、剣に掬われる何もかもを、ダリアは知っている。
一定の力を持たない人間が剣を持てば、剣に喰われるのは主の方だ。
よって、ダリアがまだ未熟なルドウェルに剣を持たせるはずがない。もしダリアがルドウェルに剣を持つことを赦すとしたら、それはルドウェルに『保護』という言葉が必要なくなった時だ。
そう、齢六歳のルドウェルがそれほど卓越した剣技を見せつけるのは、違和感以外の何物でもないのだ。
「あなたが剣を使ってるのを見るのは、初めてだったから……」
「ううん。……でも、父さんが……ううん。父さんの血が、僕に教えてくれた。」
「……もしかして……」
ルドウェルの体内魔力が、フッと瞬いた。
やがて行き場をなくした魔力の奔流は、体内を巡るだけでは満足できなくなり、不可視の衝撃派としてルドウェルの身体を覆いながら地面に叩きつけられる。
水面を叩くような音が響き渡り、ルドウェルの瞳がぼんやりと輝く。
「魔、……法……?」
それこそ、紛れもない、魔力を越えた、魔法の波動であった。
★
魔法。それは、脳に備え付けられてた魔力変換機能、春刹によって特殊な効果を生み出す、人間の機能の名前だ。
魔力を強引に振動させて効果を生み出す魔術と違い、魔法というのは完成された魔力変換。魔術のような単純なものではなく、複雑化された魔力の絡まりあった事象。本格的に魔力を生業とする人間ですら解き明かせないものも、多く存在する。
対象の身体能力を向上させるような原理解明の一切進んでいないほど難解な魔法。
魔力の動きが複雑化されすぎて魔装ですら再現することの難しい破壊力を誇る攻撃魔法。
世界の魔力法則ですら捻じ曲げてしまう、それを許容させてしまうような超常の魔法。
そのどれもが唯一と言っていい魔法で、個性とも言っていい。
そんな魔法は、努力や鍛錬などでの後天的な発現は一切存在しない。
魔法発現の発覚が遅れることはあっても、生まれ持たなかった魔法を扱うことは絶対的に不可能。それは、この世界の絶対的なルールで、どんなものにも曲げられない、不変の摂理。
つまりは、先天的な完全なる才能の世界。それが、必ずと言っていいほど戦闘の根底にある、魔法というものの前提だ。
だからこそ、魔法の使えない人間は、多少力は劣るが魔装を使うことで本物に至ろうとする。
さて、そんな魔法というものの根源は、いったい何なのだろうか。
魔法は、血統によって受け継がれる、所謂遺伝のような伝わり方をするものと、完全にゼロからの状態で覚醒するものの二つに分かれる。
遺伝型の場合は、主に両親の魔法をほんの少し変化させて受け継ぐことが多い。
もちろん完全に同じ魔法を受け継ぐこともあるが、効果が少しだけ変質する事例のことの方が多い。
人間の中枢を担う核となる魔力情報。魔法を作り出す春刹は、その核に該当する。
ほんの少しの衝撃で、ほんの少しの異変で、ほんの少しの変動で、その形はねじ曲がり、ひしゃげ落ち、時にはその存在ごと消え失せてしまうことも少なくない。
そんな繊細という言葉だけでは語りつくせないほど難儀な人間の本質を、遺伝型はあろうことか完全に複製して我が子に付与しようとするのだ。そんな種族すべてをひっくるめた冒涜が、まかり通るはずがない。
両親から複製された春刹の構造は、その情報のいくばかを歪曲させ、曲解させて受け継がれるのだ。
それが良い方向に働けば進化。それが悪い方向に働けば退化。受け継がれたならそれだけでも儲けもの。遺伝型の魔法のロジックを知っていれば知っているほど、受け継がれた魔法が正常に作動することに違和感を覚えるのだ。
ゼロから魔法を覚醒させる覚醒型の魔法の場合。それは、ほとんどの場合が特異なものである場合が多い。
今まで一切確認されていないような魔法や、街ひとつを消し去ってしまうほどの魔法。そのどれもが、ねじ曲がることなく発現する、純粋無垢な美しさを持つ、研ぎ澄まされた異能の力だ。
そのような魔法特性の遺伝の部分をさして、人は魔法を血に例える。
お前には、俺の血が流れている。
ダリアのその言葉に誇らしくなったのは、ルドウェルに紛れもない血の継承が。ダリアの魔法が流れ、受け継がれているということの、何よりの証明だろう。
★
爆発を母とする無骨すぎる瓦礫の弾丸は、そのインターバルを徐々に刻みながら街々を蹂躙していく。
絨毯爆撃の後に残るのは、無残な死体と荒れ果てた街。嘆く声と悲しみの連鎖。そうであったはずなのだ。そうでなければいけないのだ。
しかし、どうやっても。
ルドウェルの剣は、刀身を霞ませるほどの速度で瓦礫を粉末状に解体して、風に溶かす。
「それは、『空伽の剣舞』の……」
ルドウェルの父。ダリア・エリセンの扱う魔法。それは、一種の未来予知だ。
時空すら歪めて未来を感知し、それに従って魔力が跳ねる。そうして視界に映る魔力の輝線を剣でなぞることで、最善の一撃を叩きこむことのできる自分専用の視界支援魔法。
直接ダメージを与えることのできる魔法ではないが、その魔法をダリアほど剣の扱いに長けたものが持っているとなれば、その危険度は急激に跳ね上がる。
それは、継承したのがただの子供であっても警戒したくなるほどに、恐怖の対象たる魔法だった。
だが、母が思わず口にした魔法に、ルドウェルは小さく否定を重ねた。
「父さんの魔法が元になってるんだと思う。けど、僕の魔法は多分違うよ。」
ダリアの魔法である『空伽の剣舞』同様、ルドウェルの視界にはどこに剣を引き、どこに刃を重ねればいいのかを示す魔力が、さながら糸のように見えているだろう。
しかし、その魔法を使っている本人のルドウェルが、一番わかっているのだ。
「僕は、こんなに剣を使えないもん。」
どこを斬れば最善の一撃に成り得るのかを示す魔力光。それをなぞる技術というのが、その魔法の唯一の懸念点だ。たとえどれほどその魔法を磨こうと、魔法に示された魔力の輝線をなぞり、剣を叩き込める技量がなければ意味がないからだ。
しかし、ダリアから継承された時点で、ルドウェルにそっくりそのまま魔法が引き継がれている可能性は低い。そして、それに拍車をかけるルドウェルの剣技。それが、答えを示していた。
「たぶん、父さんの魔法と、父さんの剣が合わさって出来た、僕の魔法。僕だけの魔法。」
確かに感じられる父の感覚と、絶対的に織り込まれた剣の感触。その輝きに、少年は小さく称賛を送った。同時に、誉れに頬を緩めた。
ルドウェルにしか使えない。ルドウェルだけが使える。ルドウェルだからこそ使える。
ルドウェルが使うことで意味が生まれる、魔法。
「僕の魔法っ、『空御伽の剣舞宴』……!」
口を突いて出たのは、手中で決意の炎に燃える、自分だけの魔法。自分こそが使うことで、初めて意味が出る、そんな、唯一無二の魔法。
そもそも、魔法というものに名前はない。
もちろん規外魔法のように自分で編み出したものならば、その原理がどうであれ識別名として名前を付けることはよくある。
規外魔法はほとんどの場合で魔装以外の春刹の代替品によって発動されるもの、またはその結果を指す。だからこそ、規外魔法は実態のない技術となる。もちろん魔力は伴っているが、そこに春刹は関わっていない。使い手が死んだ場合、その魔法の存在を知ることのできる術はなくなるのだ。
しかし、その忘却を、魔力に憑りつかれた者たちは絶対に許容しない。
何かしらの方法でそれを記録に残し、何かしらの方法でそれを後世に語り継ごうと、何よりも熱望するだろう。
そうして彼らは、己の規外魔法に名前を付ける。
そんな規外魔法と違い、通常の魔法はどうしても存在の痕跡が残ってしまう。名前など、決めなくてもいい。魔力の振動を利用しているわけでもないため、魔術のように詠唱をする必要もないのだ。
では、総じて魔法に詠唱のような行為を必要とするのはなぜか。
その考えは、根本的に間違っている。
魔法を使うのに言葉が必要なのではない。魔法を使うときに、言葉が勝手に出てきてしまうのだ。
魔法の為の魔力演算を行う春刹の近くには、人の言語機能を司る脳機能がある。そのため、魔法を使うとき、その魔力演算運動によって流動する魔力が言語機能を刺激し、特定の言葉が口から洩れてしまうのだ。
人はそれを直接の魔法名とし、魔法名を言う、魔法を発動する。という行為をプロセス化して魔法戦闘での魔法発動スピードを高める。
ルドウェルは、魔法を初めて使った。初めて、自分の魔法の名を知った。自分の中の自分を知った。
オルデンフォルメを知った。
周囲の建物の倒壊に伴った瓦礫の洗礼は、再びルドウェル達に襲い掛かり、その暴虐の気配は徐々に近付いてくる。
最善の太刀筋を、最善の剣技を。示してくれる、貸してくれる。
そしてルドウェルは、剣を煌めかせるのだ。残像を纏い、空気を切り裂く剣は、刀身を霞ませるほどのスピードで瓦礫を叩き落とし、回転して膂力を重ねた追撃の剣で地盤すら叩き割る。
豪雨のように降り注ぐ瓦礫。その一切が、意味を成すことを赦さない。
まさしく剣舞の様相を呈す彼の剣。しかし、その出番は思っていた以上に早く終わりを告げた。
「?……っ、あの方向って!」
「避難所!?」
今まで無作為な爆撃を行っていた何かが、遠方、唐突に移動を始めたのだ。
巨大な何かが這いずっていくように、街が崩壊して悲鳴を上げることで、その見ることすら叶わない脅威の軌跡を教えてくれる。そんな破壊の権化は、誰もが避難したその絶対の安心に向かって、あろうことか進撃を始めたのだ。
まるで、そこに人が密集していることを知っているかのように。まるで、人を殺すことを目的としているかのように。
大虐殺の咆哮は、絶えることなく鳴り響き。
「やめてぇッ!!」
ルドウェルの悲痛なひび割れた声は、その破壊の音に掻き消されて霧散する。同時、避難所へ続く大通りに、暴虐の音色が侵入した。
既に止めようのない白煙の中、透けるのは小さな人影。もちろん、それは破壊の規模を見た相対的な印象だ。ルドウェルがいざこの場で対峙すれば、体格差はとてつもないものになるだろう。
よく考えてみれば、それは異質な光景だった。
たった一つの人影が、まるで彗星の如き白煙を靡かせながら街を蹂躙しているのだ。もちろん、破壊の跡はこの街に留まらない。崩壊に倒壊、粉砕を重ねた結果の瓦礫は順調に拡散し、周囲一帯に絶大な被害をもたらしている。
そんな大災害レベルの事件を巻き起こしながらも、尚足りぬと、飽き足らぬ破壊衝動に任せて、その人影は止まることなく虐殺の拳を握る。
もう、止めることはできない。
ルドウェルの短い手では、短い人生の果てでは、短い足の力では、その遥か先の避難所を救うことはできない。
「こんな世界、……求めてない、よ。」
吹きすさぶ衝撃が避難所を直撃し、聞こえるはずのない悲鳴と鮮血の噴出が脳裏をちらつく。
避難所を襲う真横からの破壊力の吶喊。それは、ただの人間が行ったものだ。しかし、その街の惨状を見れば誰もが避難所の耐久力の方を心配するだろう。
実際、その感性は正しい。
轟音と共にひしゃげた避難所の建物は、やがて破壊力の方向を留めておけなくなり、対抗する力さえ押し切られ、上空に向けて爆炎の白旗を打ち上げた。
崩壊の音色は、やけに重かった。
粉微塵になった避難所はその残骸に爆炎で明かりを灯し、焼け焦げた煉瓦にこびり付く赤褐色の塗装を多少鮮やかに彩っていた。そこに降り注ぐ上空から帰還した残骸の数々も、その悲しい惨状に対してのアクセントとなって凄惨さを増す。
どれくらい、時間が過ぎただろう。
都合数百人が、その一瞬で呆気なく死んだのだ。まだ一桁年の経験しか刻んでいない幼稚な精神には、過負荷すぎる衝撃だ。放心状態になってしまっても何ら不思議ではない。
しかし、母は違う。夫であるダリアとともに、命のやり取りに身を投じることもあった。この異常事態に、ここまで息子に守ってもらったのだ。次は、自分がルドウェルを守る番だと、ありもしない闘志を取り繕って、歯を剥き出しにして笑う。
いつの間にか、破壊の音はなくなっていた。
「ルドウェル、大丈夫。ちゃんと、母さんが守るから。」
見ることすら叶わなかった、憎き敵に対して、怒る気持ちが溢れ出る。母が、一から築き上げてきた生活だ。誰よりも苦労して、誰よりも駆使して、誰よりも歓喜した。そんな生活を、たった一日で、下手すれば半日で、本当に一瞬で、叩き壊されたのだ。
ここまで育んできた暮らしを、ここから育んでいくはずだった暮らしを、ここで育んでいた暮らしを。
しかし、そんな怒りに身を震わせるのは、母だけではなかった。
悪い足を駆使して、苦労しながら息子を掻き抱く。そこに愛する息子がいる、その歓喜が、脳内の憤怒を浄化していく。
そして、母に抱かれたルドウェルが呟いた。
「僕、強くなりたい。ねえ、母さん。父さんがいたら、もっとたくさんの人が助かったかな?僕がもっと強ければ、もっとたくさんの人が笑えたかな?」
「ルドウェル……」
その子供は、あろうことかこの惨状の責任を傲慢ながら背負おうとした。それがどれほど無謀で、荒唐無稽なことなのか、分からないはずはない。しかし、その避難所の破壊劇の全貌を知りながら、ルドウェルは声を上げるのだ。それほどの覚悟で、その剣へと誓うのだ。
「僕、もっと強くなる。それで、いつか。僕たちの街をこんな風にしたあいつを、倒すんだ。」
握りしめた剣の重みが、一層強く手中で存在を主張し始めた。
覚悟は、その破壊の大きさだけ。
幼い少年が背負うには大きすぎる目標だ。自責だ。しかし、その言葉に、誓いに、母は言葉を挟めない。
夫であるダリアは、その覚悟でもって自分を嫁としたのだから。
ダリアの意思を、血を、魔法を継いでいる少年が、この惨状でただ蹲っているだけの人間に成り果てるはずはないのだ。
誰もいなくなった廃墟の街で、ただ一人。少年は奮起するのだ。
あの破壊の権化を殺す。
「僕は、力が欲しい。」
ルドウェル。その少年もまた、力を求めるもので、何かを求めない。拒むものだ。
その意思は、誇りは、覚悟は、主人公足り得るものだっただろう。それほどまでに、完成されたものだっただろう。
英雄と成り得る、器だろう。
「だからっ!」
だからこそ、完成された街並みが、完成された秩序が、完成された安全が、叩き壊されたのと同様に。
破壊の権化であるその人影が、たった二人であろうと人間を見逃すはずはなかった。
脇腹に叩きこまれた拳の衝撃が、ルドウェルの胴体を首と足から千切り取る。吹き飛んだ先で、きっとそれはかつて人だった血だまりとなるだろう。
それを呆然と見つめる母親も、あと数瞬でそれを辿ることになることは、容易に想像できた。
復讐に力を求める。それも、また正義であろう。
だからこそ、破壊に嗤い、命を喰らう。それもまた、正義であったのだ。
★
遠く、赤い空を見渡して、その痩身を活力に満たした男は、爽やかな若々しい表情にどこか漠然とした苦々しさをまぶして剣を抜いた。
「今……」




