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その最弱は力を求める  作者: コトユエロテイ
第2章【正義争奪の罪人達へ】
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2.【何かを棄てた闇の中】

2度目の感覚だ。胸に風穴が開いて、何かが零れ落ちていくような感覚。ひたすらに不安で、何もかもが惜しい。そんな感覚に、動悸は逸り、呼吸は意味を放棄する。

喪失感、虚無感、無力感。いわゆる負の感情と括られるそれら全てが、鋭利な刃でもって襲いかかってくる。きっと、自分の人生はもう終わりだ。絶対に立ち直れない。平穏な生活も、笑い合うことも、ベッドで眠りに就くことも、きっともうできないのだろうと。

投げやり気味の絶望感が、脳内で渦巻いては増えて行った。

けれど、その2度目の感覚は1度目とは何処かが違っていた。

底の見えない海の中。1度目の絶望がそれだったとしたら、きっと今回は違う。もし、例えるのだとしたら。


「何かを棄てた、闇の中。」


きっと、その闇には目印があった。けれど、それは光ではない。



現在、そのグランティアの全ての領土を1つに繋ぐ『グランティア整合同盟』。その礎となる大国、戦王国フラントロウム。彼らを中心としたグリンティアマッピングの南西部。そこに、その国はあった。

まるで外界から己を守るように、隔絶した世界を作るように、何かを阻むように、その国は広大な領土を巨大な壁で覆っていた。

高さ30メートルを軽々と越す煉瓦造りの石壁は、その堅牢な作りから鉄壁の城塞とも称され、度重なる魔獣たちの進行すら阻んでみせる。『城塞協会』によって運営される都市計画の一環で、入国には大きな手間と資金が必要となる。しかし、その中にも例外はいる。

例えば、諸国から招かれた御仁。例えば、亡命を希望する人間資産。例えば、貿易関係の代表。

例えば、ある村のある悪魔の切れ端に送り届けられた、最弱と言う名の爆弾。


ウドガラド興国との親交のみによって栄える城塞国家。その名を、『ガンガルバイト壁国』と云う。



「城塞尋隊のファネルであります。お手数ですが、開門書はお持ちですか?」


ハキハキとした態度でマニュアル通りの問答を行うカウンターが、ざっと並べて40ほど。皆、にこやかに対応し、好印象な者たちだが、1度でも怪しまれたり、問題を起こした場合、それらは同時にマニュアル通りの鎮圧を行うセントリーへと早変わりする。

そんな秩序ある血生臭さを誇るガンガルバイト璧国の入国審査場で、1人の少年がカウンターで問答を行なっていた。


「開門書はもってないんですけど、これを渡せ、と。」


マイルドながらもカラフルな周囲の頭髪と比べ、相対的に目立ってしまっている黒髪の少年は、自信なさげな微笑を浮かべて綺麗に折り曲げられた長方形の紙をカウンターに提出。そして、腰に巻いたスチームパンク然としたウェストポーチから、朱印付きのカードと2枚の硬貨を差し出す。

魔力光にカードを晒し、紙を二分に切り取る。そして、硬貨とそれらを交換する。


「承認、完了致しました。お時間取らせて申し訳ありません。それでは、城壁の加護がありますように。」


最後までキッチリと仕事をこなし、笑顔を絶やさない職員に感動しながら、カウンターを抜ける。

眼前の扉がゆっくりと左右に分かたれる。光差す城壁内、壁の国。そこには、城壁に守られた市民たちが暮らす。城壁の加護に預かった安寧が、ゆったりと流れる。


「女に会え、って言われても。場所がわからないのに、どうしろってんだ?」


途方に暮れたように呟く少年の声も、その喧騒に呑まれていく。

少年の踏み入れた場所は、入国カウンターの先。つまりは、その国の第一印象となる場所だ。それが分かっているのだろう、入国審査施設であるこの建物からは、広大な街を見渡せるようになっていた。

アキトの目線の先、巨大なガラスに近付けば、眼下に広々と栄える街の一端が感じ取れた。

入国が完了した今、馬鹿騒ぎするお土産コーナーに行かない限り、この建物に用はない。さっさと目的の女を探しに行こうと足を進める。空に映し出される魔力パネルには、ご丁寧に方向進路と地図が表示されている。


「右が入口に直通ね……」


数えきれない人の往来に揉まれながら、少年はたどたどしい足取りで再び歩き出す。


探さなければならない女。それは、少年が強くなるために必ず必要となる女。その女なしでは絶対に壁を越えられないと言われるほど、自分にとっては重要な人物。話だけを聞くのなら、魔力にまつわる戦闘力に至ってはグレンすら押しのけると言われており、どうしようもないほどの天才だ、と。

そして、信じがたいことに、アキトとはまた違った方法で月界を取得した化物であるとも。

知りえている情報ですら既に危機感しか抱けないが、その女の本質的な部分だけは、聞かされなかった。口を割らなかった。

それこそが彼女の最大の力であり、それこそが彼女の元に自分を引き寄せる何かをだと。

魔力探求の天才にして、月界すら手中に収める研究者。そして、その真髄の明かされていない何か。

彼女は、


「アカネ・アーバリシア。」


そして、彼女は。

異常に、耳が良かった。



「しはい。シハイ。支配。」


暗闇が、何かを喋っていた。いや、暗闇ではない、それは女だった。濡れ羽色の長い髪、すらっと伸びた抜群のスタイルに、柔和な笑みを浮かべる大和撫子な美しさ。いっそ不釣り合いなほどに豊かな胸も、計算しつくされた完璧な身体としてそこに顕現しており、美しさの体現といっても過言ではなかった。

彼女の呟く『しはい』の言葉。その言葉にすら、肉欲を抱きそうになる程。


「しはい、しはい、しはい。」


繰り返される言葉、艶かしい色を魅せる女の影に、ただひたすらに不快感を抱いた。細かく言うのなら、想い人を失ってたのにも関わらず、その肉欲を抱き、貪ってしまいたいと思う、いっそ狂的なまでの男の本能に。


「あなたは、一体……」


不快感を呑み込んで、必死に性欲を押し殺しながら声を吐いた。

先ほどまで騒々しい雑踏に嫌気すら差していたはずだったのだが、いつの間にか少年は暗闇の中。最後の記憶を辿っても、なにも得られることなく冷や汗が垂れる。

額と背筋を滑り落ちていく生命の冷却材が、必死に思考をクリアな方へと押し出していく。

それでも、状況の理解という答えにはたどり着けず。そして、震える四肢の制御にも、また失敗する。


「ミカミ、アキトくん。合ってるかい?」


ふわり、脳を痺れさせるような甘い香りが、全てを溶かしてしまうような艶やかな香りが、なにより、女性的な心地よい香りが、少年を呼んだ。ミカミ・アキトを、呼んだ。


「は…………い…………ッ」


消え入りそうな声で、裏返った情けない声で、アキトは答える。

醸し出される色香に惑わされないように必死に思考を放棄して、チカチカと点滅する視界で、どうにかその女へと視線を寄越す。赤く染まった頬に、緩んだ瞳。けれど、なんとか理性を押しとどめて。


「支配の悪魔を従える、しがない研究者。それが、私さ。」


真っ暗な世界で、女は云う。


「死廃の悪魔を従える、しがない月界師。とも、言えるんだけれどね。」


直感した。たった一辺の、しかし、きっととてつもなく大きな比率を持っていて、彼女のシンボルとも言えるのであろう情報。それが、その『悪魔』であるのだと。

そして、つまりは。彼女こそが、


「アカネ・アーバリシア。よろしく頼むよ、ミカミくん。」


出会わなければならない、女であった。



女、アカネ・アーバリシアは、非常に身長が高かった。180を越す高身長は、アキトをほんの少し見下ろすことさえできるようだった。腰元まで伸ばされた美しい黒髪。眼を見張るスタイルの彼女に連れられて、アキトはガンガルバイト璧国の雑踏を進んでいた。

長い脚が悠然と歩む様は、さながらフィッションショーのようであり、移動に祭した退屈は、瞳に供給されなかった。


「さて、厄介なものを憑けられてしまっているようだし、少し付き合ってもらうよ?」

「え?……あ、はい……!」


おっかなびっくり返事をして、真新しい世界から意識を持ち直す。

アカネは、その美しい表情をにっ、と綻ばせて笑い、再び前へと視線を戻した。落ち着いた雰囲気なのにも関わらず、案外豪快な笑い方をするのだな、とどこか他人事で考えて、同じく人混みを避ける作業に移行する。

アキトの疑問など湧き上がらせる暇もなく、アカネが立ち並ぶ店のひとつに迷いなく入っていく。倣ってアキトも恐る恐る入店。ふわりと香る冷たい匂いは、なにか懐かしい気がした。


「つづりちゃん、この前、君のお嫁さんが作った副産物、よかったら売ってはくれないか?」


既視感、というよりも懐古的な何かに突き動かされて店内を見渡していたアキトを他所に、アカネは既にカウンターの金髪の男になにやら注文を取り付けていた。まだ若く見えるつづりと呼ばれた男は、きっと既知の関係なのだろう、にこやかに裏手に戻り、手に容器をもって再び現れる。


「ありがとう。幾らだい?」

「金は受け取れねえよ、調合を間違えた欠陥品だしな。」

「そういうわけにはいかないから、ここにほんの少しのお金を()()()いくことにするよ。」

「はっ、そうかい」


親しみの滲むやり取りをするアカネと男の会話を聞きながら、アキトの視線はその容器に注がれていた。アカネが硬貨数枚を忘れていったことで得られたそれが、一体なにに使われるのか。


「そうだな……さっきの残滓を使うとしよう。」

「ぅ……え?」


男に礼を言って、アカネがアキトの手をそっと握った。


「擬似月界『葬喰の聖域エルダー・サンクチュアリ』ディロ。」


アカネの詠唱は、唐突だった。それでいて、酷く製錬されていて、自己的なまでにたったひとつで完結していた。それこそが、才能のみで必然的に月界を勝ち取った者と、そうでない者の違い。

それを雄弁に語る、そんな詠唱だった。

いつの間にか、アキトの周りには暗闇が広がっていた。先程も見た、懐かしくも恐ろしい暗闇だ。

思い返してみれば、アカネへの情欲の数々が薄まっているのが感じられた。

この暗闇がアカネによって形作られているのなら、それに感化されていたとしても不思議ではない。妙な納得を得ながらも、アキトはどこか忙しない瞳でアカネを見た。

そう、もしその仮説が確かならば、アキトは、再びアカネに対して醜悪の限りを尽くした下種の目線を向けてしまうということだからだ。


「ああ、安心してくれたまえ。これはさっき使った月界の残滓。残りかすだ。君の心までは入り込まないさ。」


と、そんな不安に身を焦がしていたアキトに、アカネが優しく補足した。

月界というのは、アキトが知っている限り非常に特異な例だ。異世界召喚によって招かれたアキトが発現するのは、イレギュラーの性質として処理されてもおかしくはない。

しかし、こちら側の世界の人間であるアカネが発現させたこの月界は、きっとアキトの月界とは比べものにならないほどの意味を持つ。その月界の性質がアキトに到底理解できないものだとしても、なんら不思議ではなかった。


「さて、それじゃあ左手を出してもらえるかい?」

「?……あぁ、はい……」


アカネのお願いの意図がよく分からずに、言われるがまま左手を差し出す。拭いきれない疑問符は、全てを取り巻く闇に隠して。そうさせるほど、安心感のある笑みで。


「魔力紋。知ってるかい?」

「……いいえ」


柔和な笑みを崩さず、アカネが容器の蓋をあける。市販品ではなく欠陥品だったからか、その梱包は些か庶民的で、カーミフス製ポーションに比べて拙いものだった。

手作りのジャムを彷彿とさせる様相で蓋を回転させて、その中身を露わにさせる。

白い容器に入っていたのは、淡い白のクリームだった。綺麗に内包されていたそれは、どこか独特な匂いを放っており、なにかしらの香水なのではないか?と思うほどだった。


「ミカミくんの左手、正確には左手の甲だが、旧型の魔力紋が憑けられている。」

「もしかして、それって」

「多分、ミカミくんを心配した竜殺しの彼女だろうね。御丁寧に受信機に繋がってる。」


アキトの左手にクリームを塗りながら、アカネは視線を外さずに魔力紋を読み解いていく。


「ミカミくんの動向は、彼女には筒抜けだ。きっと、何かしらの理由で離れてしまったミカミくんを、もう1度連れ戻そうっていう魂胆だったのかもしれないね。」


なにも、不思議なことではなかった。

リンカーネーションの首があの剣士によって撥ね飛ばされたところは、リディアだって目撃している。それによって起こったアキトの心境の変化も、あのポーカーフェイスは見抜いていたのだろう。

アキトが宿泊に不便しなかったのも、レリィがつきっきりで世話をしてくれたのも、カウンセリングを受けさせられていたのも、きっとあの器用で不器用な女の仕組んだ、アキトへの保護だったのだろう。

そして、諸々の仕事を済ませた後、アキトを連れ戻し、本格的に立ち直らせようと。


「強いな……お前は。」


見ず知らずの男だ。弱い男だ。何よりも、少女を傷つけようとした男だ。

小さく、金の少女に言った。


「なに、ミカミくんがそれを望んでいないことは、まぁ薄々分かっているさ。ここは、私の城だからね。」

「それじゃあ、これはどうすれば……?」


アキトを安心させるように微笑むアカネ。その表情は、本当にアキトのことを透かして、何もかもを知りえていそうな表情で、いっそ恐ろしいほどのものだったろう。しかし、少しだけ安心してしまったのは、きっと自分の弱さだ。

アキトの視線の先、未だアカネに握られた左手は、まるで自分のものではないのではないかという錯覚にすら陥っていた。


「ミカミくんは鈍感だねー。これ、なにか分からないかい?」

「あぁ、……すみません。」

「なに、謝ることはないさ。私も、説明不足だったからね。謝罪しよう。」


いそいそとアキトの手の甲にクリームを塗り終えて、アカネが容器に蓋をした。

ハンドクリームと大した違いはないが、どこか不思議な感覚だった。まるで、呼吸を塞がれているような。それなのに、肺が命を取り込んでいるような。

そんな気味の悪い感触も、そのうち麻痺して気にならなくなる。


「なにを作ろうとしていたのかは知らないんだけどね、さっきの彼の失敗作らしい。」

「これが、その魔力紋の効果を消してくれる……?」


気がつけば、アキトの左手から光が漏れでていた。


「魔力紋は、魔力を紋から放出して、それを感知することで場所を割り出す魔力製品だ。つまり、魔力をひたすら吸い取り続ける魔力製品で覆ってやれば、これは意味を失うってことさ。」


魔力紋。それは、一昔前の犯罪者管理ツールだった。逃走すればその位置を特定し、凶悪犯の場合は常に動向を把握できる。魔力紋を取り付けたものの魔力を遠隔的に吸い取り、取り付けられたものから微弱ながら発信する。受信機となるヌリエヴル端末を用いれば、その精度はほぼ確実となる。

しかし、集団で運用するには魔力消費が多すぎることや、ある抜け道が発見されてしまったこと、また、魔力紋の弱点を克服し、制裁まで加えられるようになった魔力鎖(まりょくじょう)の開発でほぼ絶滅。一般人にも手が届く防犯グッズという椅子に収まった。

しかし、個人、その上、魔力紋の弱点を知らない。そして、絶対に危害を加えられないアキトに付与するなら、魔力紋は少年に使う上で最善とまでいえる選択だった。

アカネという魔力のスペシャリストの前ではミステイクだったが、一介の魔双師にしては非常に巧い采配だっただろう。


「まぁ、私の研盟所に戻ったら、すぐに切除するから安心したまえ。」

「あ、ありがとう……ございます。」


左手の光が収まったところで、アカネがそう言った。どのような方法かは分からないが、やることは発信機を取ることと大して変わらないだろう。切り離した魔力紋をさっきのクリームに永遠に浸しておけば、アキトからの一切の位置情報の消失は起こらなくなる。

とりあえずの安心を抱いたアキトだが、アカネの手が未だに自分の手を握っていることに気づく。


「あの……これは……?」


先ほどまでは気付かなかった女性的な柔らかさ。しなやかで細い、綺麗な指が、アキトの両手を包み込み、鼓動の音を加速させた。

ひんやりした中に、確かな血流の暖かさも共存した安心する温度。艶かしく滑る五指の色気が、指先から脳髄へと直行した。ゾクリ、と震える身体が、確かな拒絶でもってアカネを遠ざけた。

しかし、それでも彼女の指はアキトの手に絡みついたままであった。


「まだ、憑いているようだ。」

「ッ!……なにを……」


心臓が跳ねる感触が、アキトの鼓動をさらに加速させていく。うるさいくらいに脳内を支配するサイレンを、必死の抵抗で搔き消しながら、瞳を閉ざす。少し油断すれば、その手の柔らかさに、暖かさに身を委ねそうになる。

忘れてはいけない。忘れるわけにはいかない。そんな葛藤の先、瞳を開く。


優しい微笑みをたたえた、アカネが見えた。


「ぁ、……ぇ…………」


ぽろり、ぽろり、と。堰を切ったように溢れ出す涙が、顔面を伝って流れ落ちていく。

今まで、泣くことができなかった。

どうしてあの時動けなかった?どうして守れなかった?いつ判断を誤った?

こうすればよかった、こうしなければならなかった。増え続ける思考の分岐点。しかし、想像を巡らせた先にたどり着くのは、全てにおいて首のないひとつの肢体。

結局のところ、弱さは敗北の必然だと、気づいてしまったのだ。

自尊心をぐちゃぐちゃに叩き割られ、泣くことすら嫌になった。もうなにも、思い出したくなかった。けれど、忘れてはならなかった。

辛いことは忘れたい。忘れれば、目標を失う。そんな対極の思考の渦の中で、ひたすらに揉まれ続けた。涙は、渦に呑まれていった。


「ミカミくんは、どうしたい?」


アカネの手が、そっとアキトの手を覆う。


「つ、強く……なりたい……。ぐっ、ず、あいつを、ぶっ殺せるくらい、もう、絶対に失わないために…………」

「うん……。私は、こんななりだ。ずっと裏の世界で生きてきた。だから、ミカミくんの考えが正しいか、悪いのか、分からない。けれど、その葛藤が君の重りになっているのなら、私が仮の答えを示そうじゃないか。」


涙に濡れた視界の奥で、アカネが微笑んでいた。


「ミカミくんが考え直して、やっぱり違うと思ったら、それを覆したらいい。だから、取り敢えずの答えさ。」


優しい笑顔で、平然とアカネは言う。遠回しに、思考を放棄しろと。自分に依存しろと。

己を投げすてろ、と。

けれどきっと、今のアキトには、そうするしかなかった。


「忘れよう。ミカミくんの中に巣食う何かを。今は、忘れよう。」


リンカーネーションを。


「力が欲しいのなら、もちろん協力するつもりさ。だから、共に歩んでくれるかい?」


アキトを。


「君のために、私は国を壊そう。」


アカネは。


「ウドガラドの月界を、奪い去るんだ。」



「ミカミくん気づいたかい?今日は私たちが出会ってから1年の記念日だということに!」

「1年、ああそういえばそうだな。」


と、そうして1年と時を経た彼らの距離感は、些か不思議なものへと変貌していた。


アカネが上機嫌でアキトの頭を抱きしめようと近付くのを、アキトがすんでのところで回避。むぅ〜、と不満を露わにするアカネをそのままに、握った見取り図を覚える作業に熱中する。

のこり3日。

興都への侵攻まで、もうそこまでの日にちが迫っていた。

ここからは、もうできることはほぼない。武力的な訓練は、所詮3日でどうにかなるものではないし、そこで怪我をしたとあっては意味がない。今やれるのは、頭に叩き込んである情報の反復記憶。脳裏への彫刻。


「こんな素晴らしい日に、こんなジメジメした所にいられないだろう!?」

「ジメジメした所って、ここはお前の家だろ」


アカネの住居に預かり、色々なことの享受と生活をさせてもらっている居候。アキトとはつまりそういう存在だ。だが、家主がそこまで己の住居に対して不満タラタラな様子を見れば、居候の身としてもどこか気まずいものがある。


「ミカミくんと住むっていうのが分かってたら、璧国の壁をくり抜くなんてことしなかったのに〜」

「まぁ、『城塞協会』も、国のシンボルの中に人が住んでるなんて思わないだろうな。」


どこまでも冷めた様子で、図面からは目を離さずに、アキトが言葉を返す。

そう、なにを隠そうそこは壁国。領土の全てを巨大な壁が囲んでいる城塞国家だ。では、そこそこ危ない研究をすることもある研究者が居を構えるのは、どこだろうか。

納得などされないだろう。けれど、その研究者はそこを選んだ。己の魔力の全てを動員して、あろうことか国の文化の中をくりぬいたのだ。見つかれば極刑ものであるが、1年の月日を経てバレていないことが発覚したため、アキトも心底ホッとしたわけだが。


「じゃあいいよ……ミカミくん、夜はあけておきたまえよ?」


そう言って、階段を登っていくアカネ。アキトの部屋兼リビングである第2階層であるそこから1つ上、そこには、アカネの部屋がある。当然の行動ではあるが、彼女がなにかを吐き捨てて出ていくことなどなかったため、アキトですら少し訝しんだ。


「はぁぁ〜、こんなに緊張するものだったのか……私も存外、乙女というやつだったのか……?」


頰を微かに染めたアカネの姿など、アキトは見えるはずもなかったのだが。



「さて、ミカミくん。今日はお話がある。」

「ああ。」


ベッドに腰掛けたアキトは、未だに見取り図を持っており、アカネの来訪によりやっとその目を上に向けた所であった。

生地の薄いネグリジェに身を包んだアカネは、いつもより色っぽく見えた。普段着からネグリジェまで純黒で固めているのだから、いっそアイデンティティのようにまで思えてくる黒は、既にアキトの中ではアカネのイメージになっていた。

と、そんなアカネの真面目な様子に眉を潜めていたアキトへと、魔の手が迫る。


「おらぁっ!覚悟したまえ、ミカミくん!」

「いや、なにを。ごぶっ!?」


突然タックルを仕掛けてきたアカネの頭が、アキトの腹部を直撃。内臓の揺れる感覚にえづきながらも、アカネの長い髪を踏まないように起き上がる。幸いにもアカネはベッドに倒れこんだだけのようで、どこかを怪我した様子はなかった。

しかし、ひとつだけ異変があった。


「あ……れ、な…………んか」


アキトの視界が、黒に蝕まれ始めた。

波のように流れ行く猛烈な吐き気、チカチカと明滅する視界の中、脳髄を鷲掴みにされているような頭痛も続く。果たしてなにをしてしまったのか。自分への嫌疑を洗ってみるも、なにかをしてしまった様子はない。

アカネがなにかをするはずもない、そんな信頼感でアカネを見てみれば、その女の手には灰色の円柱が握られていた。


「ごめんよ……ちょっと点検がてら触れ合いたくて」

「ああ、……なるほどな……」


突然タックルをされた上に状態異常の付与だ。なるほどな、ではないのだが、必然といったようにアキトが最後の力でうつ伏せに寝転がる。


「月界の発動で弾けた魔力の通り道。そこから、ミカミくんの体の中の魔力が全部溢れていってる。それは分かるかい?」

「ああ…………現在、進行形で……」

「今まで説明してこなかったのは、ミカミくんが無茶をしそうだったから。それを、許してほしい……な。」


アキトのうなじから引き抜いた円柱。それをベッドに置いて、アカネがその真意を話し始める。最初は胸を張って説明していたが、徐々に不安になったのか語調が弱まっていく。

確かに、無茶をしてしまいそうな場面はここ1年で少なくはなかった。英断だったろうと言葉は出ないが瞳を閉じることで伝える。


「それじゃあ。これは、ミカミくんの魔力の流出をおさめる蓋。外れたら、今みたいになると思ってくれ。」


そういって、アカネが適度な魔力とともに円柱を差し込む。綺麗に入ったそれを満足そうに眺めて、アキトの背中をポンと叩いた。


「閉塞魔装。ミカミくんの生命線だよ。」


月界を初めて発動した時、アキトの首裏の魔力動脈は覚醒因子によって裂傷を刻まれた。そして、時間が経つにつれ傷跡は開き、今では穴と呼んでもいいほどに大きくなってしまっている。ただの一般人が月界を発動した代償としては、小さいものだっただろう。

そんな魔装の意味を、アキトは今日やっと知ったのだった。


「でも、話はそれだけではないんだ。」

「え?」


珍しく赤い顔で、アカネがアキトの目を射抜く。

上目遣いの潤んだ目。上気した頬と、上擦った呼吸。

ただそれだけで、よくない何かが立ち上がろうとしているのが分かった。その艶やかな黒髪と、体のラインが見えてしまいそうな透けたネグリジェ。

動かない体が、アカネによって仰向けに転がされる。アカネから供給された魔力は、まだ身体を巡るには至っておらず、痺れた手足は動かすことすらままならない。

ネグリジェからはみ出た真っ白なふとももが、ゆっくりとアキトを跨いだ。それはもう、扇情的に。

血液が動き出す音がした。

たとえ体の動力がなくなっていようと、子孫繁栄の本能は働いていくらしい。それは、魔力も同じだ。生命の危機であるほど強く働き、本能を喚び醒まさせる。


「ミカミ……くんを…………食べてしまうから……な……?」


きっと強気な発言をしたと思ったのだろう。しかし、弱々しく庇護欲を掻き立てられるほど愛らしい姿に、震えた声も相まって、恥ずかしさの最高到達点にいるアカネは、非常に体に良くなかった。

主に、下半身に。

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