Ⅰ 佑磨⑦
相変わらずコンビニの食糧で間に合わせた俺は、改めて公共図書館にやって来ていた。館内に入るや否や、肌に纏ってくるような空気を感じ取る。館内が一定の温かい温度に保たれているのは、恐らく書物たちにとって最善の環境と言えるのだろう。
しかし、俺はこの独特な空気が正直苦手だ。嫌いとまでは言わないが、長時間入り浸れるような場所でないことは確かだ。開放感を醸し出すためかどうかは知れないが、天井がやけに高いというのも落ち着かない。
故に俺は、書物のコーナーを一早く素通りし、パソコンコーナーへと急いだ。
この公共図書館は、書物は勿論、雑誌、新聞、CD、DVD、BD、その他諸々の閲覧、貸し出しのサービスが揃っている。加えて、インターネットの利用もできるという優れた図書館だ。公共と言うだけに、会員カードがあれば無料で利用可能だ。かく言う俺は、しばしばここを利用していたから、勿論カードを持っている。だから、〈ゴミ箱〉探しの時の何倍も、滞りなく事は進んでいった。
とは言うものの、利用スペースが埋まっていれば使えないわけである。ここのネット環境は無線LANであるから、持参したパソコンで利用できなくはない。尤も、元から自前のパソコンを使うつもりであったから、設置されているパソコンをわざわざ使おうとは思っていない。前提として、席が空いていないというのもあるが。
ここで問題になっているのは、パソコンを置ける場所が無いという事だ。いや、座れる場所が無いのが一番の問題点かもしれない。立ったまま使えと言われても、それは体力のない俺にとって、酷な話である。それこそ、〈ゴミ箱〉探しよりも酷い仕打ちであろう。
仕方がないので、一旦書物のコーナーで暇つぶしをすることにした。苦手な空気であれど、この際我慢する他致し方ない。そう思って早速パソコンコーナーを出ようと体の向きを変えると、背後でガタッとわざとらしいくらいの物音がした。振り返ると、案の定、作業を終えたであろう男が、閉まった扉を開けて出てきたところだった。
男はやり手の会社員かそんなところなのか、利発そうな顔をしている。少し暖かいこの部屋で暑くはないのだろうかと思うくらい、グレーのスーツをきっちりと着こなしていた。首元ではモスグリーンのネクタイが、ゆらりと煌めく。調べた資料が入っているのだろうか、男は薄手のトートバッグを肩にかけ、長い足で俺の方まで近付いてきた。随分と高い位置から首を傾げ、男は「次、どうぞ」と短く言って、出て行った。
何とも不思議な男だった。タイミング良く入れ替われたのは不幸中の幸いだったが、それにしても、嫌でも記憶に残るような人物だった。こんな真っ昼間から、公共図書館で何をしているのだろうと、好奇心故に想像が膨らんでいく。
息抜きだろうか……、と考え始めて、すぐに思考を遮った。こんなことを考えている場合ではない。この部屋は薄い板で仕切られた個室で出来ている。その殆どの扉は閉まっているが、一つだけ、ぽっかりと空間がある。先程出て行った男が使っていた場所だ。俺は席が誰かに取られてしまう前に、急いで陣取った。膨らんだリュックサックの中から薄いノートパソコンを取り出し、電源のボタンを軽く押す。
真っ黒だった画面が仄かに光り出し、ものの数秒でそれは起動した。俺はパスワードを打ち込んだ後、出てきたデスクトップの無線ラン設定項目をクリックした。幾つも出ている候補のうち、一番上に図書館の文字があった。そこをクリックすると、パソコンはIDとパスワードの入力を催促した。
俺は机上に張られたカードに視線をずらした。そこには、目当ての文字列が記されている。俺はそっくりそのまま二つの欄にそれを打ち込んだ。すぐに反応が返ってきて、接続済みの表示が出てくる。それを確認すると、俺は早速インターネットを開いた。
準備が整うと、俺はいったんパソコン画面から目を離した。ここで漸く、じっくりと傘を観察できる時間がやってきたのだ。
個室だから、遠慮なく傘を開くことが出来る。怪しまれないよう、なるべく音を立てずに開いた。それから隅々まで観察し、ふぅと息を吐く。
傘と言うものは至ってシンプルな作りをしているから、そんなに確認する場所はない。けれど、得られた情報は十分すぎるほどあった。
〝 Σχολή 〟
傘の正面と思われる面の縁付近に縫い付けられた、ステンレス製の小さなプレートに彫られていた記号だ。読みは「スコレー」。ギリシャ語で、学校を意味する。語の起源としては、《余暇》から来ているから、もしかするとそちらの意で使われているのかもしれない。
そして、これは恐らくブランド名だ。まるで飾りのように付けられているが、その他に何の文字も見当たらない。当然の事かもしれないが、所有者の名前を匂わせる文字すら見当たらなかった。文字と言えるものは、本当に此処しかなかったのだ。
ならば、それがブランド名だと断定しても、早とちりとは言えまい。もし間違っていれば、その他の情報がないわけだから苦戦することになる。しかし、まだその答えを知っているわけではない。
俺は、嬉々として検索欄にブランド名らしき言葉を打ち込んだ。検索結果でずらりと出てくるのは、勿論「スコレー」の意味なり起源なり、そういった文字列ばかりだ。時折外国語で説明してあるのもあったし、全く関係ない広告もあったりした。
俺は「傘」というキーワードを加えて、さらに情報を絞った。先程大量に出てきた文字列と比べると、驚くほど激減している。さらには、ホームページらしきものは一切見当たらない。あるのは口コミやら、ブログやらの評価、感想ばかりである。
ネットの時代にネットでアピールをしないとは如何なものだろうか。俺はぶつぶつと文句を垂れながら、できる限りの情報を間接的に入手していった。初めはちゃちな店だろうと軽んじていたが、どうやらそうでもないらしい。
かなりの数の口コミを読んだけれど、その何処にも、「スコレー」を批判するような感想は載っていなかった。それどころか、気持ち悪いくらいに口を揃えて大絶賛しているのだ。
「スコレー」は完全オーダーメイド制の高級傘専門店で、およそ百三十年も続く、伝統的な老舗であるらしい。注文受付は全て、店主と顧客が店で対面して行うのだという。つまり、此処の傘を手に入れたくば、足を運べと言っているのである。
傘の何が良いとか悪いとか、そういう価値観は俺には分からない。それでも、これだけ膨大な量の賞賛の言葉を見ていれば、殆どマインドコントロール的に此処はすごい店なんだな、と思ってしまう。それ程、「スコレー」を知る如何なる人も、褒めて褒めて褒めちぎっていた。
賛美の羅列に胸焼しそうになった俺は、意識的に視界から余計な文字列を消去した。そこで残ったのは、「スコレー」を特定できるような情報軍だった。
意外なことに、店の場所は、この図書館からさほど離れていない所に位置していた。ここらの駅から乗っていけば、小二時間半程度で行ける場所だ。少し気になったのは、最寄り駅から徒歩一時間かかるといった口コミだ。所々「山道」とか「閑散としている」なんて言葉も見え隠れしているから、傾斜のきつい道のりを登り切った果ての、山奥にひっそりと佇んでいるという光景を想像してしまった。
考えただけでも溜息が出てくるのだが、それでも探すと決めたからには最後までやり通したい。件の女の、唯一の手掛かりであることに違いはないのだから、それを逃す馬鹿がどこにいるだろうか。
とは言え、今日中に行くかと問われれば、それは須く遠慮させてもらいたい。俺は既に、午前中の内にHPを随分と消費している。昼食をとっていくらか回復したとはいえ、普段から外に出ないような俺が、連続してウォーキングに励めるわけがない。さらに言えば、山登りの方が断然、酷な環境なのだ。真っ平らな都市の歩道とはわけが違う。
俺は大きく伸びをした。開いていた黒い傘を閉じ、改めて眺めてみた。光沢のある生地は、如何にも高級な感じがする。お陰で触り心地はとても柔らかい。けれど、雨はしっかりと凌いでくれる優れものである事は、すでに実証済みだ。
どうすればこんな傘が出来上がるのかは知る由もないが、一つ思うのは、あの女は何故、こんな高価な傘を惜しみもなく残していったのか、という事である。口コミからして、今では予約半年待ちと来ている。つまり、誰もが喉から手が出るほど欲しがっている代物であることは明白だ。苦労して手に入れたであろうこの傘を、わざわざヒントとして残していくとは、あの女もなかなかの変人だと俺は思う。それとも、これ程特殊な傘の方が、ヒントを得られやすいとでも考えたのだろうか。
どちらにせよ、妙な人間に引っかかってしまったものだ。それに気づいた今でさえ、探すのをやめようとしない俺は、よっぽど好奇心旺盛らしい。
多分、恐らく、きっと、俺は、そんなぶっ飛んだ人間にもう一度会いたい、なんて事を心の何処かで思っているのだろう。それはどうしようもない知的欲求であるからして、意識的に止めようとするつもりは満更ない。些か体に悪い面もあるけれど、それを差し引いても、かなり魅力的なゲーム(・・・)である事は否定しようがない。
少なくとも、今まで廃人の様に、モノトーンな生活を送ってきた俺にとって、ビビットカラーのペンキを、一気にぶっかけられたみたいな衝撃だったわけである。それは驚きもあるし、同時に喜びもあることを忘れてはならない。
俺はパソコンをシャットダウンし、画面を閉じて、リュックサックの中に仕舞い込んだ。もう一度背伸びをし、椅子から立ち上がる。勢いよく動いたせいで、足の小指を机の角にぶつけてしまった。声にならない悲痛な叫び声をあげ、しばらく悶えた後、何事もなかったかのようにパソコンコーナーを後にした。
久々に吸った外の空気は、仄かに温かみを帯びていた。今日の空を覆う雲の隙間からは、橙色の光が零れている。俺は頭の片隅で「嫌な予感」なるものを認識したが、悲観的になるのは良くない、そう思って、煙たげにその考えをかき消した。今夜も寝泊まりする公園の方へと意識を向けた時には、その考えは既に、破棄の事項へと移行されていた。




