Ⅰ 佑磨⑥
土方と言う女のお陰で、全く、良いようにも悪いようにも時間を浪費してしまった。目当ての場所、というか、妥協できる程度の〈ゴミ箱〉を見つけられたのは、確かに彼女がいたからこそである。俺一人だけではもしかすると、貴重な一日を全て費やしてしまっていたやも知れない。しかし、まるで一人で探し回ったのではないかと思う程疲労が溜まっているのは、一体何故か。
俺は一人、溜息を吐いた。
こんな目に遭うのなら、俺の背中を陣取っている、この大荷物を駅のコインロッカーか何かに預けておけば良かった。右手に持っている黒い傘も、大人用の長さであるがために、邪魔で仕方がない。
――疲労の蓄積の原因が物理的なものだけではないと知っていながら、俺は敢えてそれについて考えるのを避けた。否、考えるだけで重ねて疲労しそうに思ったからこそ、考えるのを意図的に放棄しているのである。
しかし、と俺はふと思った。土方がやけに馴れ馴れしい警察官だったことはさておき、彼女は俺の持ち歩いている、この黒い傘に疑問を抱かなかったのだろうか。〈ゴミ箱〉探しの時は念頭にすら浮かんでこなかった疑問だが、改めて考えると妙な話である。
今日の天候が、今にも雨が降り出しそうな雲行き怪しい模様であるのは事実だが、それにしたって、子供が持ち歩くには、この傘は長すぎる。お陰で俺はずっと、傘の柄ではなく、傘の重心部分、すなわち真ん中らへんを掴んで持ち歩いていたのである。そうでもしなければ、傘の先が地面をずって、本体に傷をつけかねない。
この傘は俺にくれたものなのか、それとも預かっておくべき物なのか、さっぱり見当がついていない。ただ、昨夜の女が置いていったというだけで、もしかすると返さなければならない代物なのかもしれない。そうすると、傷をつけては何を言われるか分かったものではない。
俺がこのように考えているのは、俺が今、件の女を探すという状況下に身を置いているからである。通常なら、行動に移したのは自分自身であるのだから、女に他意は無いと考えるだろう。しかし、だ。俺は此処で、否定をしておきたい。
もう一度、昨夜の出来事を振り返ってみる。俺が考えなしに家を飛び出し、無闇矢鱈と住宅街を彷徨っていた時分、あの女と出会った。女は俺に教育上良くない発言を繰り返したかと思えば、傘を残してさっさと消えていった。
この一連の行動は、傍から見れば謎だらけだ。けれども、よくよく考えてみれば、読み解くことが可能な話なのだ。
そもそも、誘拐する気がないにもかかわらず、俺に近づいてきたのは何故か、という疑問が浮かび上がってくる。次に、一見して可哀そうな見た目、身なりをしている俺を見て、「死にたいの?」みたいな躊躇の無い言葉を浴びせてきたのは何故か。そして最後に、ずぶ濡れの俺を介抱することは愚か、俺の家に連れ戻すことも、はたまた迷子として警察に付き渡すこともせず、俺と接触するに留まったのは何故か。
そんなの全部、自分に興味を抱いてほしいからだと言っているようなものではないか。
感情論から言ってみれば、俺が女の事を探したいという衝動に駆られるような要素を、ばら撒いて去った、という事になる。噛み砕いて言えば、彼女は「私の事を探し出してみろ」と、暗に伝えていたというわけだ。
だからこそ、女はご丁寧な事に「黒い傘」と言うヒントを置いていったのだ。
これは俺の考えすぎだろうか? 否。全くもって考えすぎなどではない。寧ろ、まだまだ考えが足りていないとさえ、俺は感じている。
こうやって馬鹿みたいに断言できるのはできるのだが、残念ながら説明は不可能である。あまり使いたくはない根拠だけれども、俺の「勘」がそう囁いているから、としか言いようがない。そしてその「勘」が決して間違っていないという事も、腹立たしい程にはっきりと言えてしまうのだ。
最早ここまで来てしまうと、形而上学的な概念が登場し出すから敢えて言及するつもりはないが、此処は仮に、以心伝心してしまったとだけ言っておくことにする。
この以心伝心の延長線上で抱いている疑問が、土方と言う女の存在そのものである。
人助けをするという行為は、別におかしなことでも何でもない。嫌がられない限りは、寧ろ推奨されるべき善行だ。それにお節介という性格がかかわると多少面倒だけれど、基本は「助かる」に限る。――不本意ながら、先程の俺のように。
だがしかし、向こう側に思惑ありきで俺に近付いてきたのなら、どうだろうか。話は全く違ってくるのではないか。結果的には、俺の害になるようなことは何も起こっていない。けれども、どうにも引っかかるのだ。
俺が大荷物を持って「祖父母の家に行く」と言えば、大抵は泊りにでも行くのだろうかと推測する。それと同じ要領で、俺が傘を持ち歩いていれば、今日の天気予報を見て判断するなんて、用意周到な子だな、などと考えたりするだろう。しかしそれが、俺のサイズに合う傘であったのならば。
勿論、子供が大人用の傘を使わないと決めつけるような真似はしない。だが、見るからに持ち運びの不便そうなものを、好き好んで使ったりしようとするだろうか。
単純に考えて、それはない。俺だって、必要がなければこんな物、持ち歩きたくもない。
詰まるところ、違和感満載な持ち物だと言えるわけだ。そんな持ち物に対して、一度預けたりもしておいて、不思議に思わないというのはおかしい。親に買って貰えず、渋々大人用の傘を使っている、なんていうケース(一応、俺はこのケースから除外されている)も無きにしも非ずだろう。それを考慮して大人な態度で臨んでいた可能性も否定はできないが、それでもやんわりと聞き出そうとする筈だ。若しくは全く気に留めなかったかの孰れかだ。とは言え、一度傘を預けた過去があるから、気に留めなかったという推論はかなり希薄なものだろうと俺は思っている。
総合して俺の感じた限りでは、土方まるで、この傘を俺が所持していて当然だと認識している印象が強かった。それ程、彼女の反応は自然だった。受け入れていると言えばいいのか。端から、疑問として取り上げていない感じがした。こうもまた「勘」に頼るのは俺のポリシーに反するが、「勘」もまた、選択肢の一つなのだ。故に馬鹿にするような真似はしない。
これらの事から考えるに、土方と言う女は、俺の事を何か知っているのではないかと言う結論に至る。考えて、悪寒が走った。
俺の何かを知っている。彼女は警察の人間。警察と一般人の接点はと言えば、あれしかないだろう。種類は色々とあるけれど、俺の身近なところには、一番典型的な例が転がっているではないか。
殺人事件。
もしや、彼女は既に気付いているのか? アレが一夜にして明るみに出てしまっているのか? それなら何故、初めからそういった話を切り出さなかった? 彼女が警察の内で例外だったから? 俺を食事に誘ったのは、本当はあのことを聞き出すためだったのか?
疑問は源泉のように、尽きることなく湧き出てくる。しかし、不思議と恐怖感を覚えることはなかった。あの事件が明るみに出て、俺が不利になることは言うまでもない。しかし、何故か大変なことになる(・・・・・・・・)とまでは思わなかった。
ある程度疑問を出し終えると、最後にぽつねんと文字列が浮かんだ。
土方は、あの女と繋がりがあるのか?
俺は「まさかな……」と呟き、鼻で笑った。さすがに考えが飛躍しすぎてしまっている。もし仮に繋がりがあったとして、昨夜の女は言うなればゲーム感覚のように自分を探し出すよう、俺に示唆したのだ。それにもかかわらず、わざわざあの女と縁のある人間と俺とを接触させる理由が思い至らない。土方が勝手に近付いてきたという可能性もあることにはあるが、それならそれで下手をすれば、女の居場所が早々にバレていたかもしれない。それでは、ゲームのような謎を吹っかけてきた意味が、根本から消えてなくなってしまう。――第一、あの女からはすでにヒントを得ているのだ。
……ヒント?
俺は長時間歩き続けたことによる生温かい汗とは全く違う、冷えた汗を背中に感じた。俺はそこで立ち止まる。目の前には、目当ての公共図書館が聳え立っていた。
同時に、腹の虫が盛大に鳴った。原因の場所を咄嗟に抑え、ちらりと辺りを見渡す。歩道を歩く人々が、興味深そうにこちらを見ている。俺は見るんじゃなかったと後悔しつつ、腹の音が鳴り止んだところで腕時計を見た。長針と短針が、丁度てっぺんで重なり合おうとしている頃合いだった。
俺は回れ右をして信号を渡った。
ひと先ず、腹ごしらえが最優先事項だ。
腹が減っては軍はできぬ、なんて言葉があるだろう?




