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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅰ 佑磨⑧

 悪い予感と言うものは案外的中率が高いものであって、俺はドームの穴から差し込んでくる眩しい朝日と共に起床した。日光に直撃しているわけではないのに、直接目をやられるとこんなにも参るものなのかと、俺は朝から溜息を吐いていた。

 もそもそと動いて、毛布から抜け出す。そんなに激しい動きをしたつもりはないのに、一瞬だけ目の前がグラグラと揺れた。これが俗に言う眩暈と言うやつなのだが、これは以前から俺に付き纏っている傍迷惑な症状だ。慣れているかと言われれば、決してそうだとは言い切れない。と言うか言いたくない。

 いつまで経っても慣れないものは慣れないだろうし、況してや、人間にとっての危険信号に文字通り「慣れ」てしまっては、生命維持活動において支障を来してしまうことは言わずとも既知の事実だろう。

 眩暈の残響が残る頭を押さえながら、俺は毛布を畳み、レジャーシートも畳み、諸共リュックサックの中に押し込んだ。一息吐いて時間を確認すると、短針は八の数字を差していた。

 俺は咄嗟にドームの穴から外の様子を窺った。相変わらず誰もいない、小さな公園がそこにある。ドームで死角になっている範囲は勿論、反対側の穴を覗いて確認する。

 特に異常はなかった。ここらの人々は、平日の朝っぱらから子供を外に出す習慣をお持ちではないようだ。それを考えると、昨日はもっと遅くに出ていても良かったのではないかと、今更ながらに後悔の念が押し寄せる。

 過ぎ去ったことをグダグダ考えても仕方がないので、俺は取り敢えず荷物を背負った。極端に減る消耗品を入れているわけではないから、両肩にかかる重量は至って変わらない。この荷物を持ったまま今から山登りをすると思うと、些か気落ちする。加えて今日の天気。深呼吸をすれば気持ちがいいと思えるくらいの、秋晴れだ。ヴァンパイア染みた俺からすれば、顔を顰める他なかろう。

 ドームの外に出て一直線に進んだのは、公園の水飲み場の方向だ。さすが子供の遊び場であるだけあって、水飲み場は大人用と子供用の高さの二つに分けて設置されている。俺は荷物を少し離れた所に置いた後、そのうちの低い方を選んで蛇口を捻った。

 瞬間、透明な液体が一直線に跳ね上がった。俺はすぐさま出し過ぎたことを悟り、急いで蛇口を反対方向へ捻った。びしゃびしゃと音を立てながら短くなっていくそれを見て、ほっと安堵の息が零れる。程よい高さになった水に口を付け、乾いた喉を潤していく。十分に喉の渇きが癒されたところで、水を止めた。

 再び静けさの訪れた公園で、俺は一人、犬のように首を大きく横に振った。髪の毛の先々から水が飛び散っていく。あまり言いたくはないが、たった先程の出来事で、俺はずぶ濡れになったわけである。

 濡れた顔を袖で拭き取り、湿った髪の毛を絞った。すぐに止めに入ったとはいえ、外慣れしていない俺が、すぐに止めることが出来たとは言い難い。実際、止めるまでの被害を尋常でないくらい被っているわけだから、俺が蛇口を捻るのに相当手間取ったことは、最早言うまでもない。

 ここにきて、俺は丸二日風呂に入っていない事に気が付いた。一昨日は雨に濡れた全身を吹いただけに留まったし、昨日は歩き回った事により、体中が汗にまみれていた。今日はと言えば、俺の不手際でもあるが、このざまだ。

 ならばいっそ、ちゃんと洗ってみてはどうだろうという考えが過ぎるのである。俺はリュックサックに近づき、中から石鹸とスポンジ、シャンプーとリンス、タオル、レジャーシート、それから着替えを持ち出した。あまり考えて入れていたわけではないのだが、いつしかの旅行セットが服とともにクローゼットの中に仕舞い込んであったものだから、ついでに持ってきておいたのだ。

 俺は水飲み場が木陰によって死角に位置している事に感謝しつつ、少しばかり濡れた服を脱いだ。レジャーシートの上に、服を平らにして置く。それから、水飲み場の側面に取り付けられた水道の蛇口を捻った。当然のことながら冷たい水が流れ出てくるのだが、家を出てきた俺が贅沢を言ってはいられない。透明なケースに入れられた石鹸を取り出し、水分を含ませてぬめらせる。ある程度ぬめってきたら、それをスポンジに擦り付けた。

 石鹸は見る間に白く泡立った。これくらいでいいかと内心で思いながら、石鹸をケースに戻す。泡を含んだスポンジで、二日分の汚れを落としていく。続けてシャンプーで髪の毛を洗う。皮脂汚れは相当なものだったらしく、泡立つまでにいつもよりも時間がかかった。

 全身が泡だらけになったところで、俺は流れ出る水に手のひらを差し出した。恐る恐るすくった水を肌にかけていく。その度ごとに肌は敏感に冷覚に反応する。しかし、こんなにちまちまと落としていたら、時間がいくらあっても足りない。俺は意を決して、流れ出る水の下に突っ込んだ。

 滝に打たれる僧は、きっとこんな思いをしているのだろうな、とふと思った。俺よりかは精神が頑丈に出来ているのだろうが、それにしたって、冷たすぎる。ある程度経って、その冷たさに慣れてくる自分がいる事にも、正直笑いが込み上げてくる。

 全身の石鹸が隈なくとれたところで、俺はリンスに目を遣った。これ以上水浴びをしていると、なんだかおかしくなりそうな気がした。シャンプーだけだと髪に違和感が残るのは些か解せなかったが、不快に思う程、俺は髪の毛にこだわってはいない。

 そう思うと、俺の体は水気を取る方向に動いていた。タオルに手を伸ばし、体と髪の毛の水分を拭き取っていく。徐々に肌寒くなっていったので、俺は急いで服を着た。濡れたタオルも一緒に、レジャーシートの上に寝かせた。本当は日向に置いておきたかったが、誰かに見つかっても困るので、渋々日陰に移動させた。

 水を浴びて汚れを落とすと、幾分か気分が軽くになった。改めて公園で体を洗った自分を振り返ってみると、季節が冬でなくて助かったとつくづく思う。秋も深まった頃合いではあるが、まだ妥協点ではあったと思う。

 さっぱりした気分を味わった後、俺は空腹感を覚えた。昨日と同じようにコンビニの食糧で済ませることしか頭にはなかったが、昨日と同じコンビニに行くつもりはなかった。これは単に用心しているに過ぎない。石橋を叩いて渡っていると言われても、異論はない。もう一度言わせてもらうが、状況が状況なのだ。警戒心を常に抱いておくことは、少なからず必要不可欠な事なのだ。

 図書館に沿う道路に、もう一つコンビニがあることを思い出した俺は、リュックを背負い、黒い傘も持ち、目的地へと足を運んだ。幸い、九時頃になってくると人通りも少なくなり、目当てのものも難なく買うことが出来た。これからの事も考えて、ペットボトルの飲料水と、少しばかりの糖分と、軽い昼食になるようなものも買っておいた。

 公園に戻ってきて、俺は木陰に置いておいたレジャーシートの上に座り込んだ。干した服とタオルは、全て行く前と同じ形で寝かされていた。

 俺はリュックを下ろし、傘を木の幹に立てかけた。白くて薄いビニール袋を開き、中から二つのおにぎりを取り出す。包装をといて、露になったおにぎりにかぶりつく。パリッと気持ちのいい音がして海苔が割れる。ごはんの水分が海苔に移らないよう、分けて包装するというのは、なかなかの名案だと俺は思う。湿ってごはんにくっ付いた海苔よりも、乾燥した海苔の方が好みなのだ。

 ものの五分で食べ終えると、俺は隣で干されている服を鷲掴みにした。ずぶ濡れになったとはいえ、一番の被害に遭ったのは、主に俺の頭部だ。故に濡れが酷かったのは髪の毛だけで、服は大して濡れてはいなかった。だから、一時間程度風に晒しておいただけで、服は難なく乾いていた。体を拭くのに使ったタオルは、残念ながらしっかりと水分を吸い取ってしまったため、未だに湿っている。

 俺はリュックから小さいビニール袋を取り出し、タオルだけをその中に入れた。それから、タオルの入ったビニール袋と、綺麗に畳んだ服をリュックに仕舞う。レジャーシートの裏に付着した土埃を払ってから、それも折り畳んで仕舞い込んだ。

 再びリュックを背負い、右手に黒い傘を持った。辺りを見渡して忘れ物がないかだけを確認し、もう一度リュックを下ろし、傘を地面に置いた。水飲み場に近づき、置きっ放しになっていた旅行セット、もとい石鹸とスポンジ、シャンプーとリンスを掴んだ。置いてきたリュックサックのもとに戻り、仕舞ってしまったタオルINビニール袋を取り出す。旅行セット諸々の水気を拭き取ってから、元々セットが入れられていた臙脂色のポーチの中になおした。

 もう一度周辺を見て、忘れ物がないかを確認する。今度こそ、忘れているものは何もないようであった。俺はパックリと口の開いたリュックサックのジッパーを閉め、三度背負う。右手には黒い傘、左手には、先程のおにぎりの包装ゴミが握られている。

 公園を出てから、俺はこのおにぎりを買ったコンビニにふらりと立ち寄り、何食わぬ顔でゴミ箱にゴミを捨てた。ここで買ったものから出たゴミなのだから、誰も文句は言うまい。

 俺は上機嫌で駅に向かった。


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