第6話 混迷
2015/01/18 改稿
まとめ及び細部の修正をしました。
大幅に変更した個所はありません。
後にベルバウム抗争と呼ばれる地回り組織同士の大規模な争い。
ここまでの規模で抗争が起きたのは、過去の組織同士のシガラミや因縁が作用したことに間違いはない。
そして、その要因は第三区を巡るシマの争いがあったのは確実である。
さらに、その切っ掛けになったのが何かとなると、多くの関係者はこう言うだろう。
ベルザウア家令嬢誘拐事件、これが切っ掛けだ、と。
イーリンは、レイトンを従えて湖陵庵へ向かっていた。
最初は、キヌートが断言したとはいえ、ムツキの影におびえていた。
しかし、今までイーリンの行動をことごとく邪魔してきたムツキは現れなかった。
ムツキは大旦那と呼ばれるベルザウア家当主のレイリクスに呼び出されているのだから当然であるのだが。
自分の言う事をまるっきり聞こうとしてくれないムツキは、イーリンにとっては珍しい相手であり、そして苦手意識を持つ相手なのである。
湖陵庵があるのは、高級な料亭などの店が立ち並ぶ一角である。
優美な店や、美しい木立、噴水などが立ち並び、店に寄りがてら観光するために歩く人も多い。
色町の娼館近辺とは違って、イーリン達が歩いていても違和感のない造りの通りに湖陵庵は建っている。
「お嬢様、やはり、なにかおかしいです。ご注意ください」
レイトンは周囲の様子から、妙な感じを受けていた。
普段は、こういう通りを歩くことの少ない人種。どうみても、堅気ではない雰囲気の人間が通りをちらほら歩いているのを見かけるのだ。
もちろん、さほど大勢ではないし、殺気立った雰囲気を出しているわけでも無い。
様子見をしている感じである。
しかし、事前にムツキから事情を聴いているレイトンにとっては、いまにも出入りが起きそうな、そんな嫌な予感に襲われてしまうのだった。
当然、そんな連中とは無関係な人間の方が圧倒的に多く通りを通っている。
子供連れの夫婦らしき家族連れもいる。筋ものっぽい人間を見た後は、可愛らしい女の子は彼の目に優しく映った。
いかん、とレイトンは自戒する。
緊張のあまり、関係ないものにまで注意が行っているようで、実際、イーリンから遅れがちになっていた。
「お嬢様、場所は判っているんですか?」
「五月蝿いわね。知らないけど、そろそろ店がある辺りでしょ?」
「はい、たしか、この先の角を曲がったところですが」
「詳しいのね。行ったことあるの?」
「いや、私が入れるような店じゃありませんよ。あそこは・・・
一度、行ってみたい気持ちは確かにありますが」
一使用人が出入りできるような格の店では無い。
もちろん、レイトンにも憧れはある。彼も男である。
「あら、じゃあ夢が叶ったじゃない」
「いえ、別に遊びに行くわけじゃありませんし・・・」
そんなことを言っている内に、湖陵庵の門に到達する。
門の先には綺麗な樹木が隙間なく植えられて生垣となっているのが見える。
常に人の手を掛けている生垣だ。
そして、門の前には若い男が案内人として控えていた。
若い男は、若い女であるイーリンが門に向かってくるのを、怪訝そうな目で見た。
普通、湖陵庵のような妓楼に遊びにくるタイプの人間ではないのだ。
時折、勘違いして訪れてくる妓女希望の女にも見えない。
「失礼ですが、お嬢さん。
こちらに何か御用で? 店を間違えちゃあいませんかい?」
だが、イーリンは頓着しない。
睨みつけるように案内人を見てから、言い放った。
「さっさと、開けなさい。ケンカイ、いるんでしょ?」
なぜ俺が、こんな任務をしているのだろう。と第9特務班隊長は、今まで何度繰り返したか判らない自答を重ねた。
「あら、おとうさま。疲れちゃったの?
もう、ミリスはまだまだ元気だよお。おかあさまだって元気なのに。
めっだよ」
足を止めた隊長を、彼の右手にぶらさがるようにつかまって歩いていた幼い少女が、天使のような笑顔を浮かべてから、頬をふくらませる。
おかあさまと言われた若い女性は、多少、引き攣った笑いを浮かべている。
彼女は、第9特務班の女性メンバーである。だが、今は裕福な若奥様の恰好をしてそのように振る舞っていた。
隊長と女性隊員は、現在、特殊任務に就いていた。
その内容は、あの毒舌幼女の両親としてベルバウムに潜入し、彼女の任務を補佐することである。
毒舌幼女は、娘役を演じはじめると、普段の態度が嘘のような可愛い少女となった。
元々顔だちは整っているのだが、それに可愛らしい態度と言動が重なると、初対面の衝撃すら忘れ去られるような、幼く可愛らしい天使に変身するのだ。
それは、まだ結婚していない隊長にですら、将来娘を持つならこんな娘が欲しいと思わせるほどの可愛らしさだった。
本性を見せられるたびに、そのギャップに打ちのめされるのだが。
「ねえ、おとうさま。あれ何?
綺麗な門と、綺麗な生垣。すごーい」
それは、湖陵庵の門だった。門の前では、案内人の若者に突っかかっている女がいるのだが、それを綺麗に無視してミリスは尋ねる。
「ああ、あそこは、ミリスには無理だな。その、大人の男だけが行くところだからね」
「えー、そうなの、ずるいなあ」
「あなた、ミリスに変なことを教えないでくださいな。全く、男ってこれだから」
(少尉、演技がおかしい)(あ、失礼しました。つい・・・)
「(いちゃつくんじゃねえよ)へんって何?おかあさま」
「あら、おかあさまも知りません。さあ、ミリス、行きますよ」
「はあい。(チェック、あの女、ターゲットに関連ありだ。けけ、とっかかりになりゃあ、こんなしけた任務なんぞ、ぶっちらかせんのになあ)」
穏話を混ぜながら、3人家族は通りを過ぎていく。
それは、傍からみれば仲のよい家族模様であった。
「うちの先生に何か用ですか。どのようなお知り合いでしょうか?」
湖陵庵の門番役兼案内役の若衆は、若干態度を改めた。
何しろ、彼らの上役である若頭のゴンザが一目置いているのが、用心棒のケンカイである。
波風組を潰した噂は聞いているし、そもそも本人の持つ迫力からして、並大抵のものでは無いのだ。自分と見た目は同い年くらいだが、格が違うのはわかっている。
そんな男の知り合いであるなら、無碍に扱うわけにもいかない。
「いいから、通しなさいよ。あ、呼んできてくれてもいいけど、こんな所で待たせられるのは御免だわ」
我儘そうな外見通りの我儘な態度をとる少女。
湖陵庵の選りすぐりの妓女たちにも劣らぬ綺麗な顔をしているが、生意気そうな顔つきと態度は湖陵庵ではまず見られないものである。
「まったく、愚図愚図しないでよ。ムツキ《鬼女》がきたらどうしてくれるのっ」
言いたい放題である。さすがに、若衆もむっとする。
彼には彼の職務があるのだ。
「失礼ですが、お名前も伺っておりやせん。取次しようがありませんが」
「あら、そうだったかしら。イーリンが来たって伝えなさい」
「ご用件は?」
「そうねえ」
ここでイーリンは少し迷った。船の上では、あっさりと結婚の申し出を断られたのだ。
無碍にされた経験のほとんどない彼女にとっては、それは衝撃的な事であった。
「えーと、その、そう、この前の返事を、もう一度訊きにきたのよ。
まったくもう、なんでこのわたしが、足をはこばなきゃいけないのよっ
ああ、何か、腹が立ってきた。
ほら、わかったでしょ。早く伝えなさいよ」
「いえ、ですから、それだけじゃ判らないんで。一体何の返事で?」
「・・・よ」
「は?」
イーリンは赤くなってもごもごと呟く。
自分でも気後れしているのが意外だった。
「だ、か、ら、わたしとの結婚よ。ほら、さっさと伝えなさいってば」
その様子を、少し離れた位置で見ていた男がいた。
レイトンが堅気の人間では無いと思った男の内の一人だ。
長身かつ幅広の体。潰れた鼻が目立つ凶暴そうな顔。
第3区に縄張りを持つ枯葉組のクルドアの腹心の部下とされている男・ゴッオであった。
「オレッチもついてる。へへ、こりゃ、山の神様のお導きってか」
張り込みを初めてから二日目で、ケンカイという流れ者の関係者らしき女を見つけることができたのだ。
流れ者の知り合いにしては、随分と小奇麗な格好をしているのが気にかかったが、あまり物事を深刻に考える癖のないこの男は、気づいても深く考えることはなかった。
「ゴッオの兄貴。どうしやす?」
「オレッチ達が直接手を出すわけにゃいかねえのは判ってるな?。
連中を使えばいいんだ」
「けど、兄貴。あいつらで大丈夫っすかね?
怪我の少ない奴らってのは、真っ先に逃げようとした腰抜け共だけですぜ」
「頼りなさそうな男一人がついているだけの女相手だ。
むしろ、連中がはずみでヤッちまわねえかの方を心配しろ」
ゴッオは、悪そうな表情を浮かべる。
「まあ、少々人目のあるところで騒ぎを起こしてくれりゃあな。
波風の残党どものせいだと世間が思ってくれりゃあ、あとはオレッチ達で動きゃいいんだ。
まあ、荒事はオレッチに任せりゃいい。
最近、暴れて無くてなあ」
ゴッオは両手を打ち付ける。その拳は異様である。
まるで鈍器のような巨大な拳。それが分厚い皮膚で覆われている。
滑らかな皮膚ではない。
鍛錬の跡が残るごつごつとした皮膚。そして、指先には分厚い爪。
「さてと、店に匿っている連中を呼んで来い。あの女の帰り道を待ち伏せさせるぞ」
ゴッオは、去って行く手下の後ろ姿を見て呟く。
「もっとも、あの流れ者がでてきたら、オレッチは逃げるがな」
それは、手下には聞かせる訳にはいかない彼の本音であった。
「まったく、不在ならさっさとそう言いなさいよね。
ああ、どうしよう。商館に帰ったらムツキ戻ってるのかしら・・・」
結局、イーリンはケンカイに会えなかった。
ケンカイは出かけていたのである。
湖陵庵の用心棒をして一週間が過ぎたのだが、最近のケンカイは街の方に出かけることが多くなった。
用心棒らしい仕事をする機会も無く退屈しだしたのと、波濤組の営業が上手に回っているため、ゴンザが湖陵庵にいる時間が多くなって、湖陵庵の安全に問題が無くなっているのも要因である。
ケンカイも、海姫を呼び寄せて湖陵庵の護衛をさせている。
更に、リオウから供出させた警戒用の魔法道具を湖陵庵に置いていたりするので、ケンカイも不安なく外出ができている。
行き先は、大抵ダンの店であり、そこで酒を呑んで来たり、夜の街で少し楽しんできたりといった気ままな生活を送っていたりする。
そこで絡まれたりもしたことがあるのだが、最初の一人を一撃で叩きのめしてから、彼に絡んで来ようとする者はいなくなっていた。
「レイトン、先に帰ってムツキがいるか見てきて。わたしは、この辺りの店を見て回ってるわ。新作の服とかあるかしら?」
湖陵庵のある通りは、高級店が立ち並ぶ。そこには、イーリンが着るような高級な服を扱っている店もあった。
「いえ、お嬢様。お1人では危険です」
「ふーん、本音は?」
「私だけでムツキに対処しろとは、あんまりです」
「さっさと、行ってきなさいっ」
「少々、お待ちを。すぐに部下を呼びますので」
「いらないわよ」
イーリンは、目についた店に入る。そこは、女性用の下着を主に扱う高級店であった。
「ここで、時間潰しているから、さっさと確認してきなさい。
あ、もしムツキがいても、わたしがここにいること喋っちゃだめよ」
さすがに男のレイトンが入るには躊躇われる店である。
レイトンは諦めて、港の商館へ向かった。
少なくとも、この店にいる限りはイーリンの身に危険が及ぶことは無いだろうと思ったのだ。
そのことを、彼は後で後悔することになるのである。
「まあ、この辺りを狙ってるといや、枯葉のクルドアが筆頭てなもんよ」
ダンが大声で喋る。大分、酒が廻っているようだ。
「シマが1区分増えりゃあ、太えからな。あの痩せぎす野郎が狙わねえ理由はねえわな」
「そうなのか」
ケンカイは自分の杯の酒を干した。街に出た時は、ほぼ必ずダンの店に寄り、ダンと飲むのが通例になっていた。
そして酒飲み話の一つに、地回り組たちの状況を聞くと真っ先にでてきたのが、この話である。
ダンは、それから枯葉のクルドアがどんなに欲深で狡猾な奴かを延々と話した。
周囲の客の反応からすると、ダンの話は彼の思い込みや与太話では無い様である。
「波濤の先代が殺られたのも、クルドアが裏で糸を引いていたって噂でな。
まあ、すぐに自分の息の掛かった波風を押し込んできたんだ。
あらかじめ知ってなきゃ、ああも見事には出来ねえってもんだ」
「よくゴンザのおっさんが殴りこまなかったな」
「そう単純にはいかねえのが、あいつらの稼業だな。クルドアの上はリドバウム本家の直筋─分家ってのが面倒だ」
「リドバウム?」
ケンカイは知らない名前だった。
「ああ、おまえさんは知らんか。この街に住んでる奴は、3歳のガキでも知っているんだが。
地回りの総纏めをしている連中のことさ。
この街の創成期に活躍したことが始まりで、以来ずっとこの街の裏の支配者って訳だ。
表のベルザウアの連中と対だな」
「ベルザウアって商家のか?」
「ああ、さすがにそれは知っているよな。海を旅してきたんなら」
ベルザウアは大交易商人である。大量の船を所有している彼らを知らない海の人間はいないだろう。
もっとも、他大陸の出身であるケンカイが、その名を知ったのはごく最近であるのだが。
「てことでよ、一応、波濤組から見りゃ、枯葉組のクルドアは親筋の親戚ってことになる。となりゃあ、噂だけでカチコムわけにはいかねえってのが、あいつらの業界の面倒なところみたいだぜ。
筋を通さねえと、他の組からの介入の言い訳にされちまうわな」
「組同士ってのは仲が悪いのか?」
「時と場合によるが、今じゃ、欲深い連中の方が多い世界だ。見た目は筋を通しても、裏じゃ汚い事をやってるのは珍しくねえ。
おまけに、昔と違って、筋目もいろいろ絡み合ってるんでなあ。
実力がないのが親筋になってたり、力をつけすぎた子筋を妬む親筋もいたりで、いろいろ火花が散っているのが現状ってことだ。
まあ、俺は店に火の粉がとんでこなきゃ、ミカジメだけ払って見学するだけの話だぜ」
「なるほど」
ケンカイは頷いた。
「面倒になったら、そのリドバウムってのを潰せばいいんだな。よく判った」
「へ?」
ダンは呆然とする。目の前の男が何を言い出したか、理解できなかったのだ。
「いや、おまえさん。何言い出してんだ?」
「ん? 違ったのか? リドバウムって言ってなかったか?」
「いや、だから、その、そう言ったがよ。ああ、俺の聞き間違いか。
リドバウムを潰すって聞こえたもんだからよ」
「そう言ったんだが」
ケンカイは至極真面目な顔をしていた。
「よく判らんが、波濤組の邪魔をしたのがクルドアって奴で、そいつを締めると、その上のリドバウムが手を出してくるって事だろう?」
「・・・まあ、間違いないな」
「じゃあ、リドバウムを潰しちまえば、手を出されることがなくなって問題解決ってことだよな」
「いや、だから、そこがおかしいって!」
ダンは慌てた。
強面の大男が慌てる様は滑稽だが、彼が慌てる理由はある。
目の前の男は波風を潰した男である。だが、波風組とリドバウム家では訳が違うのだ。
「そりゃ、おまえさんの腕っぷしは知っているが、腕力だけでどうこうなる筈ないだろう。
それに、もし、あそこが潰れたりしたら、この街は大混乱だ。
地回りの取り纏めしてるってこたあ、ヤクザ者共が好き勝手するのを防いでいるって意味でもあるんだぜ」
「ふむ、そうか」
ケンカイは、納得したような表情を見せる。
ダンは、ほっとした。いくら、ケンカイが強いと言っても、リドバウム家を相手にして無事に済むわけがない、と思ったからだ。
それほどの組織力と実力を持っているからこそ、長年にわたりベルバウムの街の裏の世界を支配しているのである。
現在のケンカイが、その程度の相手に後れをとるのかといわれると微妙であるのだが。
ダンはそこまでケンカイの事を知らなかった。
「じゃあ、こちらから手出しするのはやめておくか」
「そりゃ、当然だ」
ケンカイは、いつものように言った。
「でも、仕掛けられたらしょうがないけどな。その時は、潰してしまおう」
「はは、ほどほどにな」
ダンはケンカイの言葉は冗談だと思って軽く受け流した。
それが、あながちな冗談では無かったことを理解するのは、数日後の話である。
それは、いろいろな戦場を体験してきた男にとっても初めてみる景色だった。
第9特務隊長は、上司が幼女にしか見えない彼女を恐れていた理由を理解したのだ。
人が捻じれていく。
頭が、体が、腕が、足が、骨を砕く音をたてて捻じれ砕け千切れていく。
それも1人ではない。10人はいたチンピラ風の男達が一斉に変形し、奇怪な血まみれのオブジェに変わったのだ。
千切れた体から飛び散る赤い血が周囲を染めていく。
それは、地面に横たわった少女の体をも血に染めた。
イーリンが、時間潰しに入った店にいた時間はそれほど長くなかった。
本当はもっと長くいるつもりだったのだ。
でも、店の店員が聞いてきたなにげない一言に、彼女としては珍しく恥ずかしくなったのである。
別に店員が変な事を言ってきたわけでは無く、原因は全て彼女の心情によるものなのだが。
「どのような品をお探しですか?」
「え、ど、どのようなって・・・」
「いえ、こちらの棚をご希望でしたら、もっとよい質の物も別に用意しておりますが・・・」
イーリンは、なんとなく店に入り、なんとなく商品を眺めていたのだが、気づくと過激なデザインの多い商品棚に辿り着いていた。
お嬢様である彼女には、今まで縁の無かったデザインのものだ。
ケンカイを攻略する方法を考えていたら、いつのまにか思考が飛躍して、こんなのを履いた方が男は喜ぶのかしら、などとぼんやり思ってしまっていたのだ。
「こちらの陳列の物は、このような目的の方がよくご購入いただけるので・・・」
店員が指さした先には、綺麗に彩られた紙が貼ってある。
そこには、『恋人との熱い夜に』 という文字と共に。
それに気付いたイーリンは真っ赤になった。
彼女はケンカイに結婚を申し込んでも、それが意味することは嫌いなデブの中年と結婚しなくて済む程度としか考えていなかった。
その先の男女関係のことまでは、具体的には意識してなかったのだ。
「え、えー、なによ、わたしにこんなの付けろって言うの。こ、こんな紐みたいなの」
「お客様には、なかなか好評でございます」
イーリンは自分がその下着だけを身に着けたところを想像してみた。
そして、目の前にケンカイが立っている事も。
自分でも顔に血が上るのが判る。なんで、そんな想像をしてしまったのか、わかるようでわからないもやもやとした気持ち。
「よろしければ、試着用の品もご用意できますが? 如何ですか?
なんでしたら、もっと過激な物も・・・」
「ま、またくるわっ」
イーリンは店を飛び出した。今まで感じたことが無いほど頬が熱かった。
(そういや、あいつ、ずっと娼館に住んでいるのよね・・・)
今さらながら、そのことに気付くイーリン。
実の所、彼女は男と付き合った経験は無い。
男女の仲についても、常識的な性知識ぐらいはあるが、それだけだった。
(いや、ちょっと待って。べ、べつに、そういうのをしたいからって訳じゃないし、ただ、そう、あのデブと結婚したくないだけなのよっ。
別に、あいつに抱かれたいとか、そういうんじゃないしっ
そうよ、そう。結婚したって形式さえあれば、わたしはいいんだからっ。
でも、男って手を出しても文句いわれないのなら、いくらでも出すっていうし、求められたら・・・あああっ)
経験は無い癖に、そういう所まで想像してしまうのがイーリンだった。
ムツキが知れば、
「やはり、お嬢様はむっつりですわね。そうではないかと思っておりましたが」
と無表情にばっさりと言うであろう。
そんなことまで想像していたイーリンは、気づくのが遅れてしまった。
自分がいつの間にか、柄の悪い連中に囲まれてしまったことに。
「なによっ あんた達!」
夢中で歩いていたせいか、いつの間にか人気の少ない通りに入ってしまったらしいことにイーリンは気づいた。
周りにいるのは柄の悪い若い男達だった。しかし、何故か怪我人が多い。
10人近くいるのにかかわらず、無傷な男は2名程しかいなかった。
イーリンは、こういう場面で怯むような性格をしていない。お嬢様とは言われているが、逞しい商人の娘なのである。
イーリンの気迫のこもった声に、男達のうち数名が動揺した様子を見せる。
しかし、それはすぐに、追い詰められた者が浮かべるせっぱつまった表情に変わった。
「おい、何してる。早く取り押さえろ。俺達にゃあもう後がねえんだぞ!
あの化け物の仲間だろうが、只の女じゃねえか」
男達の中で数少ない無傷の男が、後ろの方から叫んだ。
臆病な性格なのだろうが、その言葉は他の男たちの行動を促した。
一斉に数人が飛び掛かり、イーリンを拘束しようとする。
それは強引で、女相手に遠慮や手加減を加えるようなことは一切なかった。
怯えた者の発揮する容赦も加減もない暴力に、イーリンは抵抗することができない。
力ずくで地面に押し倒し、用意してきたらしい布をイーリンの口に巻き、声が出ないようにする。
そして、腕を折りかねない勢いで、手を掴み後ろに回して動けないように地面に押し付けた。
その態勢で、イーリンが激痛にあえいで身動きをすると、数人の男が、びくりと怯え、反射的に蹴りを入れる。
鈍い衝撃がイーリンの身体を震わせた。
蹴られた腹を抱えたいが、身動きができないのでそれもできない。
「おい、生かして連れて行かなきゃいけねえんだ。やり過ぎだぞ」
「けどよお、あの化け物の仲間だっていうじゃねえか。これくらいじゃ安心できねえ」
「だから、こいつは只の女だろ。みろ、結構きれいな顔してるじゃねえか」
男は、強引にイーリンの顎を掴んで振り向かせた。
口を布で覆われているため、顔の半分は隠れているが、それでもイーリンの整った顔立ちは判る。
「ほら、さっさと連れていくぞ。これで、枯葉の奴らも俺達をバカにはできねえ。
あの化け物へ恨みを晴らすのはこれからだぜ」
そして男はイーリンを引きづり上げた。
「け、恨むんならあの化け物を恨むんだな。まあ、そのまえに、隠れ家についたら、お前の躰で俺達の恨みってのを晴らさせてもらうけどよお」
そのままイーリンの服の胸元に手を入れて、服を引き裂いた。
「ほら、これでも抵抗できねえんだ。只の女に何びびってんだ。
結構いい胸してやがるし、こりやあ嬲るのが楽しみってもんだぜ。なあ」
何人かの男が同調していやらしい笑いを浮かべた。
イーリンは愕然としていた。体中が痛みをうったえているが、苦痛の声すらあげれない。
それは屈辱であり、恐怖であった。
知らない内に涙が流れてくる。
「ほーら、泣き出しやがったぜ。けけけ、やっぱり只の女だな。ほら、これでもびびってるやつは、帰ってもお預けだぜ。ほらいくぞ」
男達は歩きだして、直ぐに脚を止めた。
「あのう、おにいちゃんたち。何してるの?」
「け、ガキが見てんじゃねえ、どこかに消えな」
それは、幼女といってもよい女の子が目の前に立ちふさがったからだ。
あどけない笑顔を浮かべた、こんな場所には似合わない天使の様な子供だ。
先頭を歩いている男が、邪魔な子供を追い払うように手を振った。
「そのおねえちゃん、怪我してるよ。どこに連れて行くの?」
「うるせえな、くそガキが。失せろと言ってるだろうが」
男の剣幕に怯えた表情を浮かべた幼女は俯いた。
「ああーん、け、下種なオスの臭いさせやがって。女を力づくでコマスってか。
けけ、嫌だねえ。腐った金玉しかねえ下種共って本当に嫌だ」
それは、とても幼女の口からでたとは思えない言葉だった。
「あ、ああ?」
「そいつは、あたしの獲物だってんだよ。その上、あたしの大嫌いな下種共があたしの目の前に立ってんじゃねえよ。くそがああ」
「はぁ?」
幼女が顔を上げる。あどけない笑顔は顰めた冷笑に変わっていた。
「てめえらは、消えな」
そして、虐殺が始まった。
ミリスの目が赤く染まる。
それは、彼女の力が解放された徴である。
変質した魔力。それは、見えない力となる。
その力が近くにいた男を捉えた。そして、男は捩じられる。
体のあらゆる部分を、あらゆる方向に。
それは一瞬だった。
噴き出る血が、地面に流れる。血の流れが止まるより早く、次々とチンピラ共は同じ末路を辿って行った。
「な、な・・・」
イーリンを捕まえていた男は、腰が抜けたように地面にへたり込んだ。そのせいでイーリンも地面に倒れる。
イーリンと男の周囲は、あっという間に血に染まった。
流れた血が二人にも降りかかり、赤く染めていく。
その血の赤よりも赤い光。目の前の幼女の眼光が、じろりとイーリンを抱える男を見た。
幼女の表情が、先ほどと変わっていた。
冷笑は消え、新たに表れていたのは狂気の笑み。
血に酔ったような、陶然とした恍惚の笑みが、溢れ出す狂気を感じさせていた。
力を使うことは快感であり苦痛である。ミリスはいつもそう思う。
溢れる力を感じることは、体の芯をしびれさせるような快感だ。
だが、それについて回る忌まわしい思い出が、彼女に苦痛を与える。
その苦痛を忘れるために、力を振う。
あたしは強い。
ほら、ちょっと、力を振うだけで、あのいやらしい男達が、次々と消えていく。
”落ち着きなよ”
あたしは落ち着いている。
”ちょっと、何しようとしているの、ミリス”
そんなの、決まってる。下種共を殺すのだ。
何のために殺すんだっけ? まあ、いい。
歪んだ視界。力を使っていると、だんだん周りの景色がおかしくなる。
昔、自分が書いた拙い絵のように、周囲がみえてくる。
あの、黒い塊が下種どもだ。
あれ、まだ、動いているのがいる。
なんで殺してないんだろう。
不思議に思う。
”そうそう、何をしようとしたか思い出そうよ。それが理に叶うってことだよ”
ああ、そういえば、あたしと同じ目に合いそうな女を助けようとしたんだった。
あれ?なんで、助けようとしたのかな。
”任務のためだって、あれほど言ったじゃないか”
さっきから、声が五月蝿い。
男達を殺せば、女は助けられるんだから、さっさと殺せばいいんだ。
”いや、さっきまで、女の人を巻き込むから自重してたよね”
女なんて見えない。
いない女を巻き込むなんてできないのに、変なマリス。
”ああ、暴走してるじゃないか。最近、安定してたから油断していた。ミリス、落ち着いて。キミの行動は理に反する”
”うるさい。邪魔するな。この真似っ子”
”邪魔するよ。だって、それが僕の理なんだから”
目の前の幼女が動きを止めたのを、イーリンを捕まえていた男は目敏く気づいた。
男の前にはイーリンがいる。
追い詰めれた男は、懐からナイフを取り出すと、イーリンの喉にあてた。恐怖で手が震えているため、うっかり喉を切り裂いてしまいそうだったが、なんとか堪える。
「う、うごくな、てめえ、この女を助けに来たんだろ?
だったら・・・ぐえ」
男は最後まで喋ることができなかった。
「こりゃ、何の騒ぎだ」
聞き覚えのある声と同時に、ナイフを持った腕を折られたからだ。
空元気で忘れようとしていた声。
痛みのあまり、地面を転がった男は、自分の腕を折った男を見て絶望した。
「丸太の化け物っ」
そこにはケンカイが立っていたのだった。
「その呼び方は、気に入らないんだが」
ケンカイの文句を、男は聞くことができなかった。
なぜなら、イーリンの傍を離れた瞬間、見えない力が男を捉えたからだ。
「こりゃ、酷いな」
男の最期を見て、ケンカイは顔を顰めた。
「それで、何が起こっているんだ? イーリン」
ケンカイがこの場にいるのは、ほとんど偶然である。
ダンの店からの帰りに、リオウから念話が届いたのだ。
”そっちから、変な力を感じるんじゃが。何かみえるかのう?”
”変な力ね・・・また爺さんの関係者だな”
”勝手に断定するでないぞい。まあ、その可能性は否定せぬがのう”
そして、とりあえずリオウの指示に従って裏路地に入ったケンカイが見たものは、地面に倒れているイーリンと、彼女にナイフを突きつけている男だったのである。
それに、大量の死体らしき物体。
それの原因とおぼしき赤目の幼女。
面倒なことになりそうな予感がしたが、さすがに顔見知りの女を見捨てることはケンカイには出来ない。
「わ、わたしも訳がわからないわ、よ」
イーリンは、口を覆っていた布を外した。ケンカイの顔を見て、ほっとする自分がいるのがわかる。
そして、今の自分の姿に気付いた。
「なんだ、意外と胸はあるんだな」
「どこ見てんのよ。この、バカっ。上着くらい貸しなさいよ」
「そうしてもいいんだが・・・!」
ケンカイはイーリンを抱きかかえると、その場から飛び退いた。
嫌な力が体を掠めるのを感じる。
咄嗟に身体強化を使用して、強引に力を振り払った。
ケンカイが居た場所が、大きく抉れていた。正確には抉れるというより、こねまわされたと言ったほうがよいかもしれない。
堅い地面が、砂を混ぜるように流動して捲れ返る。
”おい、爺さん。あれは何だ?”
”なんと珍しいのう。念動力とは”
”なんだそりゃ? と、説明は後でいい”
ケンカイは、腕の中でぐったりとしたイーリンに気付いた。
本気で動いたケンカイに抱きかかえられていたのだ。気絶で済んでいれば奇跡である。
”とりあえず、逃げるか。こいつも怪我をしているようだし”
そして、ケンカイは走り出す。イーリン程度の少女ならケンカイにとっては、箸を持つのと変わらない。
幸いながら、あの幼女は追いかけてこないようだった。
その日、半裸の少女を抱えた男が通りを走り、湖陵庵に駆け込むのを多くの人間が目撃することになった。
これが、ベルザウア家令嬢誘拐事件の始まりである。




