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第4話

 「やっぱりヒマだね……」

 「あんまり話しかけないでよ、授業中なんだから。そうじゃなくても、誰かに聞かれたら変に思われるでしょ?」

 「そう? だったら答えてくれなくてもいいよ」

 「それでもあんたはずっとしゃべってるんでしょ? 耳触りで集中できないわよ。そもそも黙っててって言ってるの」

 「風の精霊を捉まえて耳触りはないでしょ。でもまあ……努力してみる」

 精霊たちと出会ってから三日目の午前中。精霊たちは、相変わらず自由奔放だった。

 フラムとメルは授業が始まる前にフラフラとどこかへ行ってしまった。昨日ほど口やかましく言うつもりはないが、やはりどこで何をしているのか心配になってくる。もっとも、心配なのはフラムの方でメルは問題ないだろうとは思うが。

 また一方で、教室に残ったエールは楓の机の中でポツリポツリとどうでもいいことを呟いていた。ちなみに今は授業中だ。エールの言う通り無視すればいいのだが――

 「ねえ、今日のお弁当のおかず何?」

 そう考えれば考えるほど気になって仕方がない。

 「……って、それ思いっきり話しかけてるでしょ」

 そこでついつい、エールの会話に乗ってしまう。

 「今日は昨日の晩ご飯の残りよ。肉じゃがとサバ、それと冷凍のコロッケ」

 「ふむふむ……基本に忠実なメニューだね」

 「面白みがないって言いたいわけ?」

 「いやいや、基本は大事だよ」

 エールは例によってノラリクラリとしていてどこまで本気か読み辛い。まあ、徹頭徹尾ふざけているのかもしれないが。

 それはそれとして、意外だった。

 「そう言えばエール、今日はどこにも行かないのね?」

 「ん……? まあね」

 「あんたシルフなんでしょ? いっつもフラフラしてると思ったけど……」

 「いつも……とは限らない」

 「あっそ」

 今、エールはその言葉通り机の中。この気紛れさも風の性質、ということだろうか。

 「エールは、ほかの二人がどこ行ったか知ってる?」

 気を取り直して、楓はそんなことを尋ねてみる。

 「メルは、水のある所じゃないかな? プールとか。あとは……図書館とか?」

 「え? プールはわかるとして、図書館も?」

 「うん。メルは本とかが好きで、図書館とか……あと、本屋とかにもよくいるよ」

 「それで何? こっそり読んだりしてるわけ?」

 「大丈夫だよ。バレないようにやると思うから」

 これまた意外なことを聞いた。これはウンディーネだからと言うよりメル本人の性格だろうか。しかしそう聞いてみると、なるほど三人の中では一番理知的な雰囲気をしている。

 「フラムは?」

 「フラムは…………わかんない」

 「まあ、そうよね。学校で火の気がある所なんてそうそうないし」

 むしろ、あったら由々しき事態だ。あるいは火災探知機代わりにでもなるだろうか。

 「そうじゃなかったら、食べ物のある所かな?」

 「それこそ特定できないわよ」

 そう呆れつつ、楓は視線を正面に戻した。

 気づけば随分と置き去りにされていた。楓がエールと話している最中も授業はつつがなく進行したのだから当然と言えば当然だ。

 もちろん、そのまま置き去りにされっ放しでは不味い。楓はエールとの会話を中断し、猛スピードでノートにペンを走らせ始めた。

 すると――

 「ん……?」

 ふと、背後から視線を感じた。

 反射的に振り向こうとしたが、今は授業中だと一旦堪える。そうしてあらためて背中に意識を凝らしてみると、やはり間違いではない。

 「どうしたの?」

 「しっ……!」

 エールを制した楓は頭を最小限動かし、肩越しにコッソリ背後の様子を探った。

 すると、楓と目が合うなりパッとその視線を逸らせる人物がいた。

 その長身ゆえ、後ろの方の席に座っているクラスメイト。

 「柊さん? どうして……」

 「ねえねえ楓、どうしたの?」

 なぜかただならない興味を示したエールをよそに、楓は考えた。

 クラスメイト――柊優華がこちらを見ていた理由、一つしか思い当たらない。

 (これって……もしかしてヤバいかしら?)

 楓が再び前を向くと、それからも度々優華の視線が背中を刺す。

 その視線にのっぴきならないものを感じながら、楓は必死に平静を装ってノートに向かう。しかしその心中は、このあとどう対処すべきかという懊悩で一杯だった。

                       ***

 「ふ〜む……」

 授業後の休み時間、楓は腕組みをして難しい顔を浮かべていた。

 「楓ちゃ〜…………ん?」

 能天気な調子で歩み寄って来た春姫の声も右から左。

 そうして楓は、黙然とあることを考え込んでいるのだ。

 「…………ねえ、楓ちゃんどうしたの?」

 「さあ? 授業終わってからずっとこんな感じ」

 「君絡みじゃないのかい? 私たちは、そうじゃないかって話していたんだけど」

 「んう〜? 特にそんなことは……」

 春姫は同じく黙殺状態になっていた幸やいずみに尋ねるが、状況は変わらず。当然だ、現在楓を悩ませているのはつい先ほど降って湧いた問題なのだ。

 行き詰った春姫が次に答えを求めたのは、その場にいるもう一人の人物だった。

 その視線が、楓の机の中へと向く。

 「…………」

 そこにいたのはエール、しかしエールも無言のまま首を横に振っている。

 それもそのはず、授業中にポツリポツリと言葉を交わしていたエールの声ですら、途中からすっかり耳に入らなくなっていたのだ。

 これは、それほど大切なことなのだ。

 だが、いつまでも悩んでばかりはいられない。

 「――わあっ!?」

 楓は春姫の首にガッシと腕を回して懐に引き寄せた。

 「ななななな何? どうしたの楓ちゃん?」

 「静かに! ねえ、昨日の柊さんの様子、どうだった?」

 「え? 柊さん……?」

 「そう。私が着替えを取りに行ってる間、一緒にいたんでしょ?」

 「う〜んと、別に変ったことは……」

 そんな状態のまま、声を潜めて春姫に尋ねる。

 初めこそ楓が危惧しているような答えが返って来そうにはなかったが――

 「ああ、そう言えば……」

 しばらく考えて何かに思い当たったのか、春姫はポンと手を叩いた。

 「え? 何?」

 「楓ちゃんが更衣室に来る直前なんだけどね、何か聞きたそうにしてたかな?」

 「何かって、何を?」

 「だから、それを聞く前に楓ちゃんが来ちゃったんだって。ん〜でも…………なんか、聞きにくそうにしてたかな?」

 「き……聞きにくそうに……?」

 「うん」

 その答えを聞いた楓は腕で春姫を抱えたまま、心の中で頭を抱えた。

 これは、やはり不味いかもしれない。

 「ねえねえどうしたの?」

 そこへエールも加わる。

 が、今の楓にエールの相手をする余裕はない。

 虫のいい話だが、フラムがいなくて助かった。メルはともかく、こんな状況でフラムまで相手にしなければならない事態だけはなんとしても避けたい。

 ともかく、これは一度確認してみなければならないだろう。

 「ちょっとここで大人しくしてて。エール、あんたもね」

 楓はそれだけ言い残して席を立った。

 取り残された春姫とエールは完全に置いてけぼり状態。二人の頭には大きなクエッションマークが浮かんでいる。

 加えて――

 「何よ何よ? 一体何を始める気?」

 「さあ……なんだろうね?」

 幸といずみに至っては、もはや唖然としてその様子を見守るのみだった。

 二人の視線が背中にチクチクと痛い。今日はそういう日なのだろうか。

 楓はその視線に耐え、目的の場所までやって来た。

 「柊さん、ちょっといい?」

 「津月さん…………どうしたんですか?」

 楓が声をかけた時、優華は次の授業の準備をしているところだった。

 まずは、軽くジャブから。

 「いやね、昨日のことなんだけど……まあ、あらためてというか」

 「昨日の?」

 「ええ。あれから体調とか崩さなかった?」

 「それは、見ての通り大丈夫です。身体は頑丈な方ですから」

 「そう。昨日は本当にごめんね。まさかあんなことになるなんて」

 「いえ……昨日も言いましたけど、大したことありませんから」

 「そう……? あ、それでその昨日のことなんだけど……」

 「はい?」

 「春姫に、何か聞きたそうにしてたって聞いたんだけど、なんだったの?」

 「ああ、それは……」

 それまでなんの抵抗もなく受け答えしていた優華だったが、その問いかけに急に言葉を澱ませた。

 否応なしに、嫌な予感が募る。

 「何か、聞きにくいこと?」

 「そう……いう、わけでは……」

 優華はチラリと楓を見上げ、また目を逸らす。

 言葉とは裏腹に歯切れが悪い。よほど聞きにくい――話しにくいことなのだろう。

 (やっぱり見ちゃったのかしら…………あれ)

 その態度を見るにつけ、どうしてもそんな考えが頭を過ってしまう。楓は、嫌な汗が滲み始めた掌を隠すように後ろ手を組む。

 それこそが、楓を悩ませていた危惧だった。

 危惧の元は水。しかも、メルの力によって操られた水だ。

 学内に入り込んだ火の精霊ジンを追い払うためにメルが放った水の塊。それはメルの力によって操られ、宙に浮いて蛇のようにうねって標的へ向かうという自然では決してありえない動きをしていたのだ。

 優華は、その水を被ったのだ。

 その場にいて、それを目撃した。不自然極まりない動きをする水を。

 もちろん、あのような一瞬の出来事でそれを把握できたかはわからない。また把握できたとしても、それにどれほどの疑問を挟む余地があるだろうか。あのような非現実的な現象を目の当たりにしても、何かの見間違いだと思い直すのがオチだろう。そしていずれは頭の片隅に追いやられて消える。楓もそうだった。

 だが万が一ということもある。精霊の存在が知られれば、果たしてどんな事態になるか想像も出来ない。優華が、そう大騒ぎをする人間にも見えないが。

 (でもどうしようかしら……? 下手なことを聞くと墓穴を掘るだけだし、かと言ってこのままじゃ素直に言ってくれそうにないし……)

 手詰まり状態の楓は、どうにか笑顔を保った優華と相対していた。

 そこでどうにか手はないものかと、失礼かと思ったがやや俯き気味の優華を観察する。相変わらずチラチラとこちらを見上げるばかりで、それ以上は言葉を発しようとしない。

 そんな時、ある物が目に入った。

 「あれ……? 柊さん、そのボタン……」

 「はい? ……ああ、本当だ」

 目に入ったのは机の上に乗った優華の腕、そのブレザーの袖口。そこに縫いつけられているボタンが取れかかっているのを見つけたのだ。

 この八方塞状況から抜け出したいという気持ちもあったのだろうか、楓の中でまたしてもお節介心に火が点いた。

 「放っておいても問題は…………それとも取っておいた方がいいでしょうか?」

 「…………ちょっと待ってて」

 楓は一旦自分の席に戻る。

 しきりに不思議がる春姫たちの視線をよそに、鞄の中から小さな長方形のケースを取り出して再び優華のもとへ。

 「それ脱いで、ちょっと貸して。直してあげるから」

 ケースはいつも持ち歩いているソーイングセットだった。それを開いて針に糸を通しながら、誰の物だか今は無人の手近な席に腰をかけた。

 「え? いえ、そんな……」

 「すぐすむから、ね? そのまんまじゃみっともないわよ」

 「は、はあ」

 戸惑い気味に差し出された優華のブレザーを受け取ると、早速作業を開始する。

 ほつれた糸を抜き、滑らかな手つきで袖にボタンを縫いつける。それを優華が、感心しきったような表情で見つめていた。

 「すごい、上手ですね」

 「まあね。慣れてるから」

 「慣れてる?」

 「ほら……あれ」

 顎をしゃくっただけで示したのは、楓の席の傍らに立つ春姫。

 「ああ、なるほど……」

 それで優華は心底納得した様子で頷いた。

 このソーイングセット自体、春姫のために持ち歩いているようなものだ。転んで擦れたりどこかに引っかけてほつれさせたりというのは日常茶飯事、その都度直してやるのももはや手慣れたものだ。

 それからしばし手を動かすことに集中し――

 「はい完成」

 宣言通り、休み時間が終了する前に作業を終えて見せた。

 「ありがとうございます……本当に元通りですね」

 「ええ。またなんかあったら言ってね、それなりに役に立てると思うから」

 「あ……はい」

 「っと、チャイム鳴っちゃったわね。それじゃあね柊さん」

 「はい、ありがとうございました」

 始業のチャイムを潮に、楓は自分の席へと戻る。

 とりあえず、いいことをしたあとは気持ちがいいものだ(相手が春姫でないというのがなおさらに)。が、当初の目的を果たせなかったことが非常に気がかりでもある。しかし授業が始まってしまってはどうしようもない。

 (まあ、あとでまた聞きに行くしかないわよね。次は墓穴を掘るかもとか考えないで、もっとストレートに聞いた方がいいかしら)

 心の中で拳を固めつつ、次の授業に向けて準備をする楓。次は日本史だ。

 楓が準備を終えるのと同時に担当教師が教室に入ってくる。

 そうしていつも通りに授業が始まる、かと思いきや――

 「今日は小テストをするから、教科書やノートは一旦仕舞えー」

 教師の口から予想外の宣言。

 それがなされるのと同時に、そこかしこからブーイングが巻き起こった。楓も声にこそ出さなかったものの、その突然の試練に気分が暗澹としてくる。

 だが、どれだけ非難の声を上げようがその小テストが中止されることはない。特にこの教師は、生徒のそういった反応を楽しんでいる節があるのだ。それを知る楓はブーイングの中、せっかく準備した教科書類を素直に机の中に仕舞い込む。

 と、一際力強いブーイングを教師に投げかける声が楓の耳に入った。

 楓がよおく聞き馴染んだ声、しかも二つ。

 「そんなの聞いてませんよ! いきなりなんて卑怯ですよ! 卑怯者おーっ!」

 「先生予習! せめて予習する時間をください……!」

 あろうことか教師を卑怯者呼ばわりしている声は幸。そして、せめてもの情けと予習時間を嘆願する声が春姫だ。

 だがそれらが聞き入れられるということはもちろんなく、幸に至ってはその悪口によって開始前から五点の減点が科せられる始末だ。

 このあと起こる出来事が容易に想像できる楓は、乾いた笑いを漏らしながら前の席から回ってきたテスト用紙を受け取った。

 「あれ……?」

 その時、ふと机の中にいるべき存在がいなくなっていることに気づいた。

                       ***

 (ああ〜、どうしようどうしよう)

 小テスト開始から一分、春姫は早くも頭を抱えていた。

 名前は書いた。いくら勉強が苦手とはいえこれを忘れるほど間が抜けてはいない。

 続く一問目、これはさすがの春姫にも解くことができた。明らかに生徒全員に正解させることを意図したサービス問題だ。

 二問目、選択問題だったので運を天に任せて記入。

 三問目…………わからない。

 春姫のテストは三問目にして早々と暗礁に乗り上げてしまったのだ。

 (もうわからない。もう…………どうしよう)

 どうにかしようとはしてみても、春姫の頭はウンともスンとも言わない。

 これが本番の、中間や期末のテストならば事前に準備をすることができる(と言うより、楓に準備をさせられているのだが)。今回の小テストが抜き打ちというのが問題だ。多少なりとも準備ができれば、いくらなんでもこれほどできないことはないはずだ。

 (まあ楓ちゃんは、“普段からやってないからだ”って言うんだろうけど)

 と、どれだけ嘆いてみても状況は変わらない。

 目の前のテスト用紙も消えてなくならない。

 春姫は、渋い顔で解答欄を睨みつける。精霊に力を与えるなんていう特殊な能力が発覚したのだ、その解答欄に答えが浮かび上がりやしないだろうか。

 「むう〜……」

 もちろん、そんな都合のいいことが起こるはずもないのだが。

 正直な所、悪い点を取ること自体はあまり気にしていない。正規のテストではないので成績にはそれほど影響はなく、仮に零点だろうと風に柳といった風情だ。日本史担当のこの教師なら点数が悪かったとしても補習の類はほとんど心配しなくていい。

 問題は、楓だ。

 悪い点を取ろうものなら、小言の一つや二つではすまない。そして教師が課する補習などとは比べものにならないほどの勉強会が敢行されることは間違いないのだ。

 さらには、春姫に関することでは今日母親以上の権力を有している楓のことだ。オヤツ禁止、ゲーム禁止、マンガ禁止など、春姫にとっては生き地獄とも言えるような罰が講じられることも十分に考えられる。

 (ああ〜! どうかそれだけはご勘弁を〜っ!)

 鬼のように目を吊り上げた想像上の(実際にも鬼になることがあるが)楓に心の中で懇願する春姫。

 今月は欲しいマンガがいくつか出るし、やりかけているゲームもある。今、目をつけているコンビニの新作お菓子に手が出ないなどということはまさに悲劇だ。

 だから睨む。

 力一杯睨む。

 そんな時だ。

 「悩んでるみたいだね」

 「――ひっ!?」

 唐突に声をかけられ、心臓が飛び出しかけた。

 半分出かかった悲鳴をどうにか飲み込んだ春姫は、乱雑に打ち鳴らされる心臓を必死になだめながら声の出所に目を向ける。

 春姫の机の縁、そこにエールが頬杖を突くような形でぶら下がっていた。

 「エ、エールちゃん…………どうしたの? 楓ちゃんの所にいるはずじゃあ……」

 「ん……ちょっとね。ところでテスト中なんだよね。難しい?」

 「そりゃあもう……! それに抜き打ちだし、もうどうしようもないよ」

 周囲に気づかれないよう小声で力説する。

 そんなことを話している間に少しでもペンを動かせばいいものを、こういった方面で集中力が持続しないのが春姫だ。

 そうしてすっかりテストのことを忘れてエールに管を巻いていると――

 「…………ねえ春姫」

 「ん……?」

 「手伝ってあげようか?」

 「えぇっ……!?」

 エールからの思わぬ申し出。

 春姫はただでさえ大きな目を思いっきり丸くした。

 「手伝うって…………どうやって? エールちゃん日本史得意なの」

 しかし春姫は、一際声を潜めてエールに尋ねた。まさしく、悪巧みのそれだ。

 エールも(春姫以外には聞こえていないだろうに)同じく声を潜めて、それに答えた

 「ううん、勉強のことはぜ〜ん然わからない。でもほら、私はほかの人たちには見えてないわけだから。こう…………ね?」

 エールは人差し指を掲げてツイッツイッと宙を往復させた。

 その動きに合点のいった春姫は、途端に瞳を輝かせる。

 「ああ、なるほど!」

 道が、拓けた。

 「それじゃあ……」

 本来ならばあってはならないこと。だが楓にお説教を食らうのは嫌だ。オヤツやゲームやマンガを禁止されるのも嫌だ。

 エールが差し伸べた救いの手を、春姫は躊躇なく握った。

 「お願いね。あとで何かお礼するから」

 「オッケー」

 机から飛び立つエールの背中を見ながら、春姫の胸は希望で一杯だった。

 一杯で、忘れていた。

 果たして神様が見ているのか。

 この手の悪巧みが成功した例など、一度もないということを。

                       ***

 「……………………ふう」

 楓は、一つ息を吐いてペンを置いた。

 小テストが開始されておよそ十分、楓は特に詰まることもなく全ての問題を解き終えていた。残り時間は五分、楓は答案を見直す前にコリをほぐすようにグルリと首を回す。

 「――っ!?」

 その視線が教室の内側へ向いた時、驚くべきものが楓の目に飛び込んで来た。

 楓の机から姿を消していたエールが、フヨフヨと宙を通り過ぎている場面だ。

 (あんのバカまた……!)

 楓の脳裏に昨日の光景が過り、瞬間的に怒りが噴出しかける。

 が、その動きにふとした違和感を覚えた。今日のエールは、ある二つの地点を往復するように移動しているのだ。昨日のように人をおちょくっているのではなく、何か明確な意図が感じられる。

 その二点のうち、一点はすぐに判明した。春姫の席だ。この教室内におけるエールの居場所と言えば楓か春姫の席であるため、これに関しては納得できる。

 問題はもう一方の場所だ。

 そこは別の生徒の席だった。クラスメイトではあるものの楓や春姫とは馴染みが薄い生徒の席、もちろんエールと関係があるはずもない。そんな席に一体なんの用があるのか。そして春姫の席と往復する必要は。

 「――ぁっ!」

 楓は、一つの結論に達した。

 思わず出かかった声を両手で口の中に押し込み、その結論が本当に正しいかどうかを頭の中で反芻させる。

 現在楓たちが置かれている状況。

 エールの動き。

 そしてエールが向かった席の生徒が、このクラスでもかなり成績のいい部類の人物だという事実。

 それら全ては間違いなく、ある一つの結論に帰結する。

 「あんのおバカは……!」

 思わず声に出てしまったその言葉は、滲み出た憤怒の現れだった。

 そして今度のそれは、エールだけに向けられたものではない。

 「本っ当にしょうもないことばっかり考えるんだからっ……!」

 それがどちらの提案によるものなのかは楓のあずかり知るところではない。だが、それが実行されている時点でどちらも同罪だ。

 是が非でも阻止しなければならない。

 カンニングなどという不正、春姫のためになるはずがない。ましてや精霊という特殊な存在の力を借りてなど言語道断だ。

 「さあて…………どうしてくれようかしら」

 楓はフツフツと沸き立つ怒りを必死に堪えながら自身の手元に視線を落とした。

 現在は授業中かつテスト中、なりふり構わず飛び出してエールを捕えるというわけにはいかなかった。それは最終手段として、ひとまずは手近な物に可能性を見出したい。

 「う〜ん…………これと言って使えそうな物はないわね。どうしようかしら」

 が、そう上手くはいかない。エールがいる場所まで席三つ、四つ分の距離がある。そうそう何かができる距離ではないのだ。

 楓は頭を抱えた。

 すると、机の中に何者かの気配を感じた。

 「ん……? メル、戻ってたの?」

 「あ、はい。ただ今戻りました」

 「声くらいかけてくれればいいのに」

 「お邪魔をしてはいけないと思いまして」

 ようするにテスト中だったため気を遣ってくれたようだ。ほかの二人もこれくらい気を利かせて欲しいものだ。

 それに引き替え、エールの行動はどうだ。

 「ん……そうだ!」

 その時、楓はひらめいた。

 そうだ、精霊を止めるには同じく精霊の力。

 「ねえメル、何もない所でも水は出せる?」

 「何もない所……ですか? それはつまりこの場で、ということでしょうか?」

 「うん、そう。できる?」

 「何もない所と言いますか、空気中にも水分はありますから。それを集めれば多少のことは…………でもどうして?」

 「ああ、実はね……」

 楓はカクカクシカジカとこれまでの経緯をメルに話して聞かせた。

 すると――

 「……………………なるほど、エールがそんなことを」

 穏やかな口調とは対照的にメルの目が剣呑に細められる。

 メルならばこういう反応をしてくれると思っていた。

 「それでは直ちに止めに……」

 そうしてすぐさま、エール目がけて飛び出しかける。

 「ちょっと待ってメル」

 しかし楓はそれを呼び止めた。

 「は? なんでしょう……?」

 「もう何問か解いちゃってるかもしれないから、答案の方をどうにかしないと。それに、こんなよからぬことを考えた春姫にもちょっと痛い目を見てもらわないとね」

 「答案を…………あ、それで……」

 楓のその言葉で、メルは合点がいったようだった。

 楓は、あらためて詳しい作戦をメルに言って聞かせる。とはいえ難しいことはない、ごくごく単純な内容だ。

 「……了解しました」

 「お願いね。あとで何かお礼するから」

 そこで話を切り上げ、メルは飛び立っていた。

 春姫やエールにバレないよう低空飛行。作戦実行のポジションは春姫のすぐ後ろの席、その足元だ。その場所まで難なく到達したメルは、目を閉じて念じ始める。

 異変が起こったのは春姫の頭上だった。

 何もないその空間に、雨粒ほどの水の塊が現れた。それは周囲の水分を吸収して徐々に膨らんでいき、やがてバレーボールほどの大きさにまで成長する。

 楓を除く教室内の生徒たちは春姫も含めて机の上に視線を落としている。担当教師も何やら書き物をしている最中で、いずれも何もない空間に生じた水の塊に気づかない。

 楓とメルは、アイコンタクトで合図を送り合う。

 そして――

 「――っひゃあっ!?」

 水の塊は、メルによって正確に春姫の机の上に投下された。

 突如響き渡った水音に教室内は一瞬騒然となり、続いてクラス中の視線が春姫の席へ集まる。

 当の春姫は水浸しになった机の上を呆然と見遣っていた。その視線の先には、水の威力によって粉々になった小テストの答案用紙。

 (よっし……!)

 作戦成功、楓はメルに向かってグッと親指を立てた。

 「う〜わ〜……何これ? 雨漏り?」

 「雨なんて降っていないよ。水道管か何かの水漏れじゃないか?」

 その惨状に幸やいずみが推察を交わす。

 それを裏づけるように、春姫の頭上の天井からは水が滴っていた。が、これは楓がメルに頼んだ演出だ。こうしておけばメルたちのような存在を知らない限り、いずみの言うように水漏れという結論に達するのが妥当なのだ。

 しかして、騒動を収めるべく担当教師の声が上がった。

 「誰か雑巾持って来い。あ〜時間はちょうどいいくらいだな。答案を後ろから回収しろ」

 「――えっ!?」

 もちろん、春姫はその言葉に過剰な反応を示す。

 「あの先生……私は?」

 「ん? ああ、お前のところに直撃だったのか。災難だったな。それじゃあ悪いが、お前は放課後残って再テストだ」

 「えぇーっ!?」

 春姫の悲痛な叫びが教室中に木霊した。

 これこそがまさに楓の狙い。被害を受けたのは春姫一人、ならば再テストも春姫一人で受けることになる。一人では当然、先ほどのようなカンニングができるわけがない。さらに念を押す形でエールやフラムの身柄を押さえておけば完璧だ。

 そんな黒い思惑(春姫にとって)が滲み出ていたのだろうか、春姫は楓の視線に感づいた様子でこちらに見た。

 楓が全身全霊を込めた笑顔を返してやると、春姫は今にも泣き出しそうな表情になってうなだれてしまった。

                       ***

 「はあ…………」

 「だ、大丈夫エール?」

 「……………………ダメ」

 放課後、楓たちは廊下の一角で春姫の再テストが終わるのを待っていた。

 その傍らで、エールは生気のない視線を宙にさ迷わせている。メルと楓はその様を黙殺、唯一事情を知らないフラムはそんな有様のエールをしきりに気遣っている。なかなか珍しい光景だ。

 日本史の授業が終わったあと、楓はすぐさま春姫の捕獲に出た。

 春姫は春姫で追及を逃れるべくいつにないスピードで席を蹴ったが、春姫ごときがいつにないスピードを出したところで楓にとってはどうということもない。むしろ、魑魅魍魎(ちみもうりょう)もひれ伏してしまうほどの憤怒に突き動かされた楓の目には止まって見えたほどだ。

 そうして春姫を捕獲した楓は、春姫の三倍のスピードで人目につかない空き教室の一帯へ。そしてそこには、楓の指示を受けたメルによって捕獲されたエールの姿もあった。

 そこからは、レッツ説教タイムだ。

 一応、一方的に決めつけるのはよくないと二人から事情聴取も行った。その結果、情状を酌量する余地が寸分たりとも存在しないことを確認し、有罪判決と同時に刑を執行。残りの休み時間一杯を使って耳がもげんばかりの説教を食らわせてやった。

 そうして今、エールはその後遺症で生ける屍と化しているわけだ。

 さらに――

 「あぁぁ……」

 もう一人の生ける屍が教室から顔を出した。

 「ハル、もう終わった?」

 「あぁ……」

 春姫は、カックンと首を縦に折った。

 「結果は?」

 「あぁ……あ」

 今度は力なく顔を横に振る。

 楓たちが受けたテストはあの時に回収されて採点は後日ということになったが、ただ一人再テストを受けることになった春姫はその場で採点ということになっていた。

 結果は春姫の状態が物語っている。

 どうやら春姫のゾンビ状態は、楓の説教だけが原因ではないようだ。

 「だって、先生ヒドいんだよお……」

 ようやく人間の言葉を発した春姫は、すっかり消沈した様子で眉をハの字にした。

 「何言ってんの、自業自得でしょ」

 「そうじゃないよ。先生ね…………問題を変えてたんだよ?」

 「え、問題を? へえ〜……」

 これは驚きだ。

 確かに春姫は一度問題を目にしている。これでは抜き打ちでテストを受けたほかのクラスメイトたちと平等な評価を下すことはできない。それは楓にも十分わかるが、だからと言ってなかなか簡単なことではない。

 「すごいわね、この短い時間で新しい問題つくるなんて。しかもハル一人のために。随分愛されちゃってるじゃないの」

 「そんな愛いらないよお〜……おかげで、せっかく頑張って予習したのに全部パアだよ」

 「そういう時ばっかり頑張らないの。これに懲りたら、今後は普段からしっかり勉強するようにしなさいよ」

 「むう〜……」

 本当に、これで懲りて欲しい。楓は心の底からそう思いながらうなだれる春姫を見つめる。特に、カンニングなどという不正行為は今後一切止めてもらいたいものだ。

 「それじゃあまあ、これで十分痛い目を見たってことにしましょうか。というわけで帰りましょ。ほら、エールもシャキッとする!」

 「――はっ!?」

 その一声に、エールの目に魂が宿る。

 そうして全員そろって昇降口へと歩き出した。

 「はあ……」

 しかし足こそ動かしているものの、春姫の足取りは相変わらず重い。ノソリノソリとまるでカタツムリだ。もはや、授業終わりに猛然と逃走を図った姿は微塵もない。

 さすがにそろそろ見るに堪えなくなってきた。

 「…………今日はなんだ疲れたわねえ」

 「はは……そうだね」

 「疲れたし、どっか寄り道して帰りましょうか」

 「えっ……!?」

 困った時の食べ物頼み。

 その言葉を聞いた途端、春姫は髪を振り乱さんばかりの勢いで顔を上げた。

 「でも……疲れたんならすぐ帰った方がよくない?」

 「疲れた時は甘い物がいいって言うでしょ?」

 「再テストのせいで、もうちょっと遅いよ?」

 「ちょっとだけでしょ? それに家、門限ないし」

 否定的な言葉ばかりを並べ立てる春姫だが、その顔は見る見る内に笑顔になっていく。例によって現金なものだ。まあこういう反応をするだろうと予測しての提案なのだが。

 「何、行きたくないの? それともお金ないとか?」

 「えへへ…………そんなことないよ。あ、今の“お金ない”って言ってたらもしかしておごってくれてた?」

 「それはもちろん……私だけで行ったわよ」

 「え〜? 何それえ」

 春姫はすっかり笑顔、チョロいことこの上ない。

 「それじゃあ早く行こう! ああ、その前にどこ行くか決めないとね。駅前のアイスクリーム屋さん? アーケードでドーナッツ? モールの……」

 「ちょっと落ち着きなさいよ。それに、駅前とモールは今からだとちょっと遠いわ。だから今日はドーナッツ」

 「うんうん、いいよねドーナッツ。ドーナッツドーナッツ♪」

 「ちょっ、ちょっとハルッ!?」

 笑顔を通り越して、嬉々として楓の腕を掴んで駆け出す春姫。これまでの状況が状況だっただけに、それらから解放されて爆発しているのだろうか。機嫌を直すどころか調子に乗せてしまったかもしれない。今日の出来事を忘れなければいいのだが。

 「何? 結局どこだって?」

 「ドーナッツ屋さんよ、アーケードにある」

 「え、ドーナッツ? わっしょお〜い!」

 「なるほど、それはよろしいですね」

 それに追随してくる精霊の面々。エールはすっかり元気だし、フラムは何やら変な歓声を上げている。メルも心なしか声が弾んでいた。

 「ああもう! いい加減止まりなさいよ!」

 「ヤ〜ダ! だって早く……わっ!?」

 「――った!?」

 「――うわっ……と」

 軽い衝撃。

 春姫の楽しそうな声が途切れて足が止まった。もちろん春姫に腕を引かれていた楓はその背中につっかえてしまう。

 その瞬間に上がった声に混じった第三者の声。また誰かとぶつかったのだろうと考えた楓が反射的に謝罪の言葉をつむごうとしたその時――

 「すみません、大丈夫で……あれ?」

 相手に先手を取られてしまった。

 しかもそれが聞き覚えのある声だったことに、楓は驚く。

 「え…………ひ、柊さん!?」

 「宮原さんに津月さん、またもや奇遇ですね」

 「あ、本当だ。こんにちは、柊さん」

 「ええ、こんにちは」

 昨日の今日で全く同じ相手にぶつかるとは確かに奇遇だ。

 相手をつい最近関わった人物と認識した春姫は、ホンワカとした笑みを浮かべて挨拶を交わした。優華も朗らかにそれに応じる。

 が、そんなノンキなことではいけない。

 「こらハル! 挨拶より先に言うことがあるでしょ?」

 「あ、そうだった…………ごめんね柊さん、ちょっと急いでて」

 「いえ、構わないですよ」

 「本当にごめんなさい。まさか二人して二日立て続けにぶつかっちゃうなんてね」

 「アハハ……そうですね。何かの縁でしょうか?」

 「そういういいものならいいんだけどね」

 「ええ〜? いいものだよ、絶対」

 昇降口目前の廊下に和やかな空気が流れる。

 一方で、楓は微妙に緊張していた。

 それとなく周囲に視線を巡らせると、精霊たちの姿はない。代わりに鞄の中に気配、優華と話し始めた時点で姿を隠してくれたようだ。

 これでとりあえず心配はないだろうが、果たしてこのあとも大丈夫だろうか。優華に関しては、昨日何を見たのかもまだ確認していない。

 クラスメイトと親交を深めるのも、これまで縁遠かった相手とふとした出来事でその縁が結ばれるのもやぶさかではない。

 やぶさかではないが、それ以上に危険なのだ。

 だというのに春姫は――

 「そうだ! 縁ついでに、これから一緒に帰らない? それで一緒にドーナッツ食べに行こうよ。ね、それがいい!」

 楓の気など知らず、そんなことを言い始めた。

 「え、これからですか?」

 「ちょっとハル……!」

 「いいでしょ楓ちゃん? あ、柊さんって部活してたんだっけ?」

 「一応剣道部ですけど……まあ、あまり熱心ではないみたいで。しばらく待っていたんですけど、今日は顧問の先生が用事で来られなくなったそうで、中止に」

 「そうなんだ。柊さんにピッタリ。でも中止だなんてやっぱりすごい偶然だよね。しかも私が再テストを受けたから時間が合ったんだし、これってやっぱり縁なんじゃない?」

 「だからちょっと落ち着きなさいってハル。いきなりそんなこと言ったら、柊さんだって困っちゃうでしょ? 用事があったりするかもしれないし……」

 「いえ、それは大丈夫です。そうですね……」

 優華は、しばし思案するようにどこへともなく視線を投げた。

 一縷(いちる)の望みは、優華がそれほど社交的には見えないということだ。昨日今日でわずかに距離を縮めた相手と一緒に、おいそれと寄り道して帰るようなタイプではない、と。

 やぶさかではない。が、できれば断って欲しい。楓はそんな想いで優華を見つめる。

 だが、この縁を取り持った神様はなかなかにお節介焼きのようだった。

 「その…………お邪魔じゃなければ、是非」

 しばらくして、優華はオズオズとそう申し出て来た。

 忘れていた。優華の方はそれほど社交的ではなさそうだが、春姫の方は社交性の塊だ。誰とでもすぐに仲よくなるし、相手も春姫のあの笑顔に引っ張られてしまう。

 「ほらね、決て〜い!」

 「ん〜……」

 鬼の首を取ったかのような喜び上がる春姫をよそに、楓は思わず渋い表情を浮かべた。

 だが、そんな表情を浮かべれば歓迎していないことがあからさまに伝わってしまう。それに気づいてすぐさま平静を装うが、時すでに遅かったようだ。

 視線を感じる。

 チラリと向けられてはすぐに伏せられ、それが何度か繰り返される。申し訳なさそうな、いたたまれなさそうな、しかし何かを訴えるような視線。

 長身であるはずの優華が、まるで叱られた子犬のようだ。

 「うっ……」

 良心という名のナイフが楓の胸に突き刺さる。いや、この威力は大ナタだ。

 ともかく楓は、こういう類の視線にすこぶる弱い。それこそ、春姫が無言の内に何かを訴えようとする時にこんな顔をする。全く違うタイプであることは重々承知しているが、今の優華が春姫と重なって見えるのだ。

 (………………………………はあ)

 楓は平静を保ったまま、心の中でタメ息を吐いた。

 そんな時の春姫に、楓は勝った例がない。すなわち、今の優華にも勝ち目はないということだ。

 「…………そうね、そうしましょうか」

 「え……?」

 「わ〜い! だから楓ちゃんって好き」

 「うぐっ……!?」

 優華の表情が戸惑ったものに変わり、春姫は喜びのあまり楓に抱きついてきた。

 春姫の不意打ちに一瞬もだえるが、それ以降はもういつもの楓だった。決断した時点で、疎ましく思う気持ちもすっかり消えている。

 「あの…………いいんですか?」

 「ええ、せっかくだし。春姫の言う通り、これも何かの縁よね」

 優華が戸惑うのは無理もない。楓自身からしても、驚くべき掌の返しようだ。

 しかし、このくらいの不況は買ってしかりだろうか。

 「それじゃあそれじゃあ、早速出ぱあ〜つ!」

 「――わっ!?」

 「おっとっと……」

 なんていう微妙な空気を全く無視した春姫は再び楓の腕に自分の腕を絡め、さらにはもう片方の手で優華の手を掴んで走り出した。

 二人の人間を引きずるその勢い、普段からそのくらいの能力を発揮して欲しいものだ。

 「だから落ち着きなさいって! そんなに急いだって、ドーナッツは逃げないわよ!」

 楓の言葉など聞く耳を持たず、春姫は昇降口を目指してなおも駆けて行く。

 言葉とは裏腹に、楓には不思議とそれを止めようという気は起きなかった。

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