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第2話

 「……………………はあ」

 机の上に頬杖を突き、楓はひっそりとため息を吐いた。

 その視線は力なく宙をさ迷い、壁に掲示されている時間割表から黒板の上に備えつけられているアナログ時計へと向けられる。

 朝から二つの授業を終え、今は短い休み時間。教室は賑やかな喧騒に包まれているが、その中にいる楓はそんな心境ではなかった。

 「どうしたの楓? 暗い顔して」

 それを見止めた幸が声をかけてくる。とはいえ取り立てて心配するような風でもなく、いつも通りの雑談をするテンションだ。

 「ああ、うん…………まあね」

 「確かにそうだね。何かあったの?」

 「うぅん……」

 そこへいずみも加わるが、楓は煮え切らない態度を変えられなかった。

 今現在、楓を悩ませているものはおいそれと他人に話せるような内容ではない。それがなおさらに楓を思い悩ませているのだ。

 悩みの種は、三人の精霊。

 ウンディーネのメル、サラマンダーのフラム、そしてシルフのエール。それぞれの種族を表す名前は、楓に限らずよく耳にするものだろう。しかしそれはマンガやゲームなど、創作物の中での話だ。それが実際に存在するなど誰も思っていない。

 だが楓は、それを確かに目の当たりにした。それどころかその精霊たちは、現在楓の家に住みついてまでいるのだ。

 その精霊たちが言うには、楓の幼馴染である春姫は精霊のような存在に力を与える能力を持っているらしい。容姿と性格以外に何もいいところがないと思われていたダメ人間の春姫に、思わぬ才能が発覚した瞬間だった。

 精霊たちは、だから側にいて力をもらいたいと申し出て来て、春姫はあっさりとそれを受け入れた。しかしそこに一つの問題が生じた。春姫の家では、春姫の両親にその存在がバレるかもしれないというのだ。

 そこで白羽の矢が立ったのが楓の家だった。

 両親が単身赴任中の楓は現在一人暮らし。よほどのことがない限りほかの誰かにバレるというような心配はない。だがそれによって楓は、精霊などという得体の知れない存在と生活をともにすることを強いられたのだ。

 精霊との共同生活が楓に一体何をもたらすのか、それは未知数だ。だが昨夜はその内の一人、サラマンダーのフラムのおかげで英語のノートを何ページか焼失してしまった。今のところは被害しかない。果たして得をすることなどあるだろうか、昨夜と同じように被害を受ける一方なのではないか、そんな不安と懊悩が頭から離れないのだ。

 それが楓の悩み。そしてそれは、友人たちとはいえおいそれと話すわけにはいかない。

 「ちょっと、本当に大丈夫?」

 「えっ……?」

 そんなことを思い返している内に、いつの間にか黙り込んでしまっていたようだ。幸が今度こそ心配そうな表情で楓の顔を覗き込んでいた。

 「ああ…………大丈夫よ。うん……」

 「本当? な〜んか隠してない?」

 「そうだね。明らかに様子が変だ」

 「何よ何よ〜私たちにも話せないなんてよっぽどのこと? はっ! まさか色っぽい悩みなんじゃ…………はないか、楓の場合。春樹ちゃんに世話焼くことで精一杯だから」

 「うっさいわね! 余計なお世話よ!」

 幸のあらぬ疑いに一喝する楓。ただし、そのあらぬ疑いの内容自体はグウの音も出ないくらい事実なのだが。

 「じゃあなんなのよ」

 そして幸は、なおも食い下がってくる。が――

 「話して聞かせることもないくらい、大したことない話よ」

 「大したことないんだったら話してくれてもいいじゃん」

 「大したことないから話さないのよ」

 「じゃ大したことだったら?」

 「そう簡単には話せないわね」

 「どっちしにろ聞けないじゃんそれっ!」

 その幸を口八丁で煙に巻く。

 こう言ってはなんだが、幸は頭が回る方ではない。知能的な意味で言えば春姫とドッコイドッコイだ。しつこさの点では舌を巻くが、口先でかわすことはできる。

 問題はこっちだ。

 「…………怪しいね、どうも」

 幸が楓の弁に阻まれてウンウン唸っている傍らで、いずみが鋭い眼差しを向けていた。

 「何がよ……?」

 「何を隠してるんだい? そんなに隠しておきたいこと?」

 「だから、大したことないんだってば」

 「そうは思えないけど……」

 いずみは冷静に、問題となる部分のみを追求してくる。いずみに対しては口八丁も通じない。何より、目が結構真剣だ。それほど深刻な問題でもないのだが、少し良心が痛む。

 痛むが、やはり話せない。

 「…………ごめんいずみ」

 幸がまだ唸っているのを横目で確かめ、楓は心持ち声を潜めた。

 「このことについては、ちょっと……」

 「ふむ……」

 「まあ、その内話せるかもしれないから」

 「……………………そうかい。ま、いいさ」

 「ごめんね。なんか埋め合わせするから」

 「おや? これは棚からぼた餅だね」

 いずみに幸のようなしつこさはない。きっぱりと意思を示せばそこで諦めてくれる。やはり心なしか胸が痛いが。

 ともかくこれで、心置きなく精霊たちに頭を悩ませることができる。幸たちと話したことでいくらか気も晴れた。

 「はあ……」

 今回、楓の口から出たのは安堵の息だった。

 そうして胸を撫で下ろそうとした瞬間、それは現れた。

 「――!?」

 信じられないものを見た楓は、その両目を大いに見開いた。

 楓の家に居着いた精霊の一人――シルフのエールが目の前を横切ったのだ。

 しかも――

 「ちょっ……」

 フヨフヨと、この上なくノンキな様子で。

 ありえない、というよりあってはならない光景。せっかく胸を撫で下ろそうとしたところに再び問題発生だ。

 (どうしよう? どうすればいいの? 何をどうした方が……)

 タラタラと冷や汗を垂らしながら、楓の頭は高速回転する。

 なぜという疑問は置いておき、とにかくこの状況をどうにかしなければならない。精霊たちの存在が明るみに出ていいことはないのだ。

 だが、とっさに思いつくことができた方法はたった一つ。

 「…………………………………………」

 楓は幸といずみが別のことに気を取られているのを確かめ、即座にそれを実行に移した。

 「――ふんっ!」

 エールに向かってあらん限りの速度で伸びる楓の右手。

 その右手は全く同じコースをたどって元の位置へ。

 「ん? 楓なんかした?」

 「ううん、なんにも」

 どうやら周りに感づかれてはいない。それほど見事な右ジャブだった。今なら空中を舞うハエすらもその手に掴めそうだ。まあやらないだろうが。

 ともかく幸をかわしつつ、意識を右手へ。

 そこには何か柔らかいもの蠢いている感触があった。そこだけを考えるとなかなか気持ちが悪いが、その正体をしっかりと思い起こせばなんのことはない。

 「あー…………私ちょっとトイレ」

 「え、もう休み時間あんまりないよ?」

 「うん、だから急いで行ってくる」

 楓は一も二もなく席を立った。

 その手の中にいるだろう相手を潰さないよう、しかし決して逃がさないようにしながら。


 「鞄の中でじっとしてなさいって言ったでしょ!」

 宣言通りトイレに直行し、個室に入った楓は開口一番その憤まんを迸らせた。

 外に漏れないようトーンは低く、かつ語気を荒げるという巧みな一喝だ。

 「ああ苦しかった」

 とりあえず手を放してやると、エールはフワリと楓の目の高さにまで浮き上がる。

 そのエールは、本来なら楓の鞄の中にいるはずだった。楓の家に居着いたエールたちを春姫の側にいさせるためには、学校に連れて来なければならない。だが普通の人間にその存在がバレないようにすることも必須だ。だから楓や春姫以外の人間が周りにいる時は鞄で大人しくしている、そう約束していたのだ。

 それがどうだ。エールは、生徒でごった返している教室を平然と飛び回っていた。

 その理由は――

 「…………ヒマ」

 古今東西で指折りのどうでもいい理由だった。

 「あんた! ハルの親にバレるかもしれないって理由で私の家にいるのよね!? なのに平然とそこらへんフラフラしてんじゃないわよっ!」

 「だって、何にもやることないんだもん」

 「昼休みまで待ちなさい!」

 「ヒマ過ぎて我慢できない」

 「我慢しなさいよ! こっちはこっちで忙しいんだから!」

 かなりの剣幕で詰め寄っているはずだが、エールは相変わらずノラリクラリとそれを受け流している。これも風の精霊ゆえの性質だろうか。

 が、そんな精霊に対する考察はひとまず脇に退けておく。

 重要なのは、このエールにどうやって言うことを聞かせるかだ。先ほどの幸と逆のような立場だが、これは骨が折れそうだ。

 「大丈夫だよ。自分で見られようとしない限り、普通の人にはそうそう見えないから」

 「はあ?」

 しかしエールのあっけらかんとした答えに、楓は早速呆気に取られた。

 「どういうことよ?」

 「だから、普通の人には見えないの。特に今みたいなご時世の人間には」

 「ちょっと待ってよ、じゃあ私やハルは?」

 「春姫は力を持ってたから。楓は、力を持った春姫の側にずっといたから? 今見えてるのは、私たちみたいなのが存在していることを認識してるからだけど」

 「何それ? 随分適当ね」

 「そんなもんだよ。科学みたいにハッキリしたものじゃないから」

 「うっ、それはまあ……」

 確かにそれは納得せざるを得ない。精霊などという常識外れの存在に、科学的な根拠など求められるはずもない。何より、理路整然とした理屈なんてものがあったら幻想的な雰囲気がぶち壊しだ。なんでもハッキリしていればいいというものではない。

 しかし楓は、そこであることに気がついた。

 「でも、ちょっと待って…………それって、ハルの側にいれば誰でも見えるようになるかもしれないってこと?」

 「うん。まあ、実はそういうのは珍しいんだけど。だから一応、楓の家の方がいい」

 エールの「イヨッ! この希少価値」という称賛は完全に黙殺し、話を整理する。

 本来、春姫のような特殊な例を除いてはそう簡単に精霊を見ることはできないようだ。一方で楓のような別の特殊例もあるが、その点は可能性の話になる。そしてなるほど、春姫の側にいるということに関しては両親の右に出る人間はいない(と思う)。ならばクラスメイトたちよりもエールたちが見える危険性も高いというわけだ。

 両親もクラスメイトも同じならば楓の家から追い出す理由になったかもしれなかったが、これでは無理だろうか。

 だが、それはそれだ。だからと言って別の可能性が消えるわけではない。

 「むぅ……」

 楓は、心底うんざりした気持ちでエールを見つめた。

 「それじゃあまあそれはいいとして、クラスメイトにだって見える可能性もあるってことでしょ? とにかく大人しくしてなさいよ」

 「だからそうそう見えないって」

 「それでも! せめて人目につかないように行動しなさい」

 「……………………わかった」

 エールは、渋々といった風情ではあるが楓の言うことを聞き入れた。

 これでどうにか一安心――

 「ほかの二人にもそう言っとく」

 「そうそう、ほかの二人にも…………え?」

 ――しかけたところで思わぬ言葉が返って来た。

 「ちょっと待って…………二人?」

 「うん。二人もどこかに行っちゃってるから」

 平然と、ごく当たり前のようにそう口にするエール。

 だが楓はそれどころではなかった。

 「なんでそれを早く言わないの!?」

 「え? 何が?」

 「二人! メルとフラム! あっちも誰かに見られたら大変じゃない!」

 「ああ、そっか」

 「どこにいるかわからないの!?」

 「それはちょっと」

 「あーもう! とにかく探しに……」

 エールの話を聞き、楓は慌てて個室を出ようとした。

 しかしそこに、最悪の宣告が突きつけられる。

 ――キーンコーンカーンコーン

 「――あっ!」

 次の授業の始まりを告げる予鈴が、トイレに鳴り響いたのだ。

 「何よこの測ったようなタイミング!」

 すでにトイレ内には誰もおらず、思わず出たその叫び声を聞いている人間がいなかったことは幸いだった。

 だが、そんな幸運を喜んでいるヒマなどない。

 残り二人の精霊を放っておくことはできない。しかし二人を探すために授業をサボるわけにもいかない。

 楓は全精力をかけて頭をフル回転、そして――

 「――ひっ!?」

 取って食わんばかり勢いで、エールを両手で引っ掴んだ。

 その瞳には必死さゆえか、爛々と尋常ならざる輝きが宿っていた。

 「……二人を探して」

 「あ……え?」

 「二人を探して、さっきのことを話して……!」

 「えっと、その……」

 「わかったわね……!」

 「う……………………うん、わかった」

 よほどの形相だったのか、これまで柳のような態度だったエールが慄いた様子で首肯する。これならば先ほど交わされた会話の内容以上のものが伝わることも期待できる。

 「それじゃあ私は戻るから。頼んだわよ?」

 ともかく、これで打つべき手は打った。

 楓はその場にエールを残し、全速力で教室へと駆けて行った。


 授業が始まる前に教室へ戻ることができた楓は、今は静かに英語の授業に受けていた。

 昨夜はフラムのおかげで一騒動あったが、あのあと春姫にはしっかり課題を終わらせた。楓も焼けたノートを取り換えてすませており、抜かりはない。

 楓の気がかりは、やはり精霊たちのことだった。

 エールにはかなり念入りに頼んだのでほかの二人にはちゃんと言伝てくれるとは思うが、問題は二人が見つからなかった場合だ。とはいえそのほかの二人、メルやフラムの行動など楓には読めない。それこそ、これまで行動をともにしていたエールに頼るしかないのだ。

 そう思い直し、楓は黒板に書き連ねられていくアルファベットに目を向ける。

 が――

 「――!?」

 楓の目に、とんでもないものが飛び込んで来た。

 フラムだ。

 フラムが黒板の上側の縁をタドタドしい足取りで歩いていたのだ。

 (なんであんな所に!?)

 楓は我が目を疑った。しきりに目を擦り、パチパチと瞬かせてみたが幻の類ではない。

 すると、黒板の上を歩いていたフラムが楓の視線に気づいた。しかしフラムは慌てる様子もなく、あまつさえこちらに向かって大きく手を振って来るのだ。

 (何やってのよあいつは……!?)

 もし普通の人間に見つかったら、そんな危機感など微塵もない態度。平静が戻ったかと思えばまたしても肝を冷やす状況が訪れた。こうなっては、事情を知るエールがフラムを止めてくれることに期待するしかない。

 楓は、エールが教室に戻ってくるのを今か今かと待ち詫びる。

 しかし、その期待はいとも簡単に裏切られた。

 「――はぁっ!?」

 「ん? どうした津月?」

 「あ……いえ、なんでもありません」

 思わず声を上げかけた楓を教師が見咎める。

 それをかわした楓は今一度我が目を疑った。しかしまたしても見間違いなどではない。

 黒板の上でノンキに手を振るフラムに、エールが合流したのだ。そして一緒になって小さく手を振っている。

 「あんのバカ二人っ……!」

 どうにか声は抑えたが、楓は今にも怒りが爆発しそうだった。

 フラムを止める立場にあるはずの(少なくとも楓がそう頼んだ)エールが一緒になってふざけた行動を取っている。意図的なのか本当に忘れているのか、いずれにしても頭の血管が二、三本ははち切れそうだ。

 その上、フラムたちの存在がクラスメイトや教師にバレるかもしれないということにも気を揉まなければならない。心なしか胃がキリキリと痛み始め、上も下も大変だ。

 だが、楓には手も足も出ない。

 二人を捕まえるために声を上げたり飛び出そうものなら、授業中に奇行に及んだ異常者というレッテルを周囲から貼られることは請け合いだ。そんなことで今後周囲の人々から後ろ指を指される人生を送るようなことだけはどうしても避けたい。

 楓にできることは、ただ耐え忍ぶことだけだった。

 周囲の人間にバレないよう必死に祈りつつ、頭が弾け飛びそうな怒りと胃に穴が空きそうなその痛みにただ耐える。

 (あの二人…………授業が終わったらただじゃおかないわよ……!)

 その想いを一気に解放する、その瞬間に向けて怒りのボルテージを溜め込みながら。

                       ***

 「いっただっきまーす!」

 昼休み、楓は春姫と一緒に人目につかない屋上まで登って来た。

 理由はもちろん精霊たちの存在が誰かの目に触れることを極力避けたいがためだ。幸いにして誰もいないことを確認した楓は、ベンチに座っていつもの自作弁当を広げる。今日は春姫の分も含まれているため大き目の弁当箱だ。

 実は普段もたまに春姫の分の弁当をつくったりするのだが、こうして一つの箱に詰めるのは稀だ。なんとなく、体育祭や遠足のようで少しだけテンションが上がる。

 「ん〜……相変わらず美味しい!」

 春姫は早速卵焼きに舌鼓を打つ。幸もそうだったが、どうやら楓のつくる料理の中では卵焼きが人気のようだ。

 楓は春姫の反応を満足げに眺め、続いて自分も箸を伸ばす。

 「……うん、上出来」

 そうして弁当の出来を自ら確かめたあと――

 「ほら、あんたたちも遠慮せずに食べなさいよ」

 精霊たちにもそれを勧めた。

 「はい。では……いただきます」

 それを受けて弁当に手を伸ばしたのはメル。メルたちの大きさに合う箸がないので手で食べなければならないのはこの際仕方がない。

 メルは焼き鮭の切れ端を口に入れ、同時に顔を綻ばせた。

 「……美味しいです。楓さん、料理がお上手なんですね」

 「でしょう? 楓ちゃんのお弁当って、いっつもおいしいんだよね」

 「なんであんたが偉そうにしてるのよ? 第一それ、単に焼くだけだし」

 「それでもですよ」

 「そうなの! それでもなの!」

 「だから…………まあいいか」

 などと、照れていいのか呆れていいのかわからないどうでもいい会話が繰り広げられる。

 ちなみに、精霊たちも人間と同じ食事を取ることができるらしい。栄養にこそならないが味はちゃんと感じるようで、それぞれ好みの食べ物もあるそうだ。メルが優先的に魚に手を伸ばしているのは水の精霊だからなのだろうか。

 とそこで、弁当に手を伸ばしているのが春姫とメルだけであることに気がついた。

 「ほら、あんたたちも。もう怒ってないから」

 楓はベンチの端っこに目を向ける。

 そこではエールとフラムの二人が怯えきった様子でガクガクブルブルと震えていた。

 この二人が何故このような状態に陥っているのか、その原因は楓にあった。

 三時間目の授業、すなわちエールとフラムが黒板の上で調子に乗りまくっていた英語の授業が終わった瞬間、楓はクラスメイトはもちろんエールたちすら反応できないほどのスピードでもって二人を捕獲し、さらに猛スピードで教室を飛び出した。

 そして誰もいない空き教室が集まる辺りに達したのと同時に、楓はその怒りを爆発させた。

 鬼の形相での説教などまだ序の口、昨今の社会情勢では決して口外できないようなオシオキをその休み時間の終了間際まで実行したのだ。

 具体的には捻……とか。

 締め……とか。

 引っ張……とか。

 あまつさえ振り回……とか。

 まあ、さすがにやり過ぎたとは思う。それなりに反省もしている。

 ちなみにメルは、あのあといつの間にか鞄の中に戻っていた。エールが伝えたのか自発的の戻って来たのかはわからないが、その後も大人しくしていたのでお咎めなしだ。

 だからできるだけ優しく、柔らかい声色で二人に接する。

 「……………………本当に?」

 「本当に」

 「怒ってない?」

 「ええ」

 「もう捻ったりしない?」

 「振り回したりも?」

 「しないわよ」

 少なくとも、先ほどのようなことをしなければ。

 「……………………わーい!」

 「いただきまーす」

 しばしの沈黙のあと、まずはフラムが弁当箱に飛びついた。エールもそれに続く。

 これでようやく落ち着いて昼食を取ることができる。

 「ほらフラムちゃん、これも美味しいよ」

 すると、春姫が近寄ってきたフラムたちに素早くおかずを勧め出す。

 「お、どれどれ…………ん! おいしっ!」

 「ほらこれも」

 「んおっ……!」

 春姫がニコニコしながらウインナーを差し出すと、フラムはただならぬ勢いでそれに食いつく。そして次から次へとそれを繰り返す。フラムは笑顔満面だ。

 それを眺めながら春姫もニコニコ。まるで――

 「なんか…………餌付けしてるみたいね」

 「んなっ……!」

 フラムがハムスターか何かに見えてきた。

 ちなみにエールとメルは、その傍らでマイペースに食事を進めている。

 「あ、確かにそんな感じ」

 「ちょっ……何それ!? ボクをその辺の小動物と一緒にしないでよ!」

 笑顔でうなずく春姫の一方で、フラムが目を吊り上げる。どうやら動物扱いがお気に召さなかったようだ。まあもっともな話だが。

 しかし、一度そう見えてしまった以上はなかなかあらためることは難しい。

 「だって…………ねえ」

 「ねえじゃない! 訂正してよ!」

 「第一、今のところ役に立つようなことしてないじゃない。これじゃただの無駄飯食らいよ。愛嬌振りまくペットの方がまだマシよ」

 「な、何を〜!」

 「そんなことないよ。フラムちゃんは、ちゃんと可愛いよ?」

 「それでもペット並!?」

 楓の言葉にフラムはさらに怒りを募らせる。それを象徴するかのように、フラムの髪がメラメラと燃え盛る。春姫のフォローは火に油を注いだだけのようだ。

 とはいえただそれだけなら焚火を眺めているようなものだ、楓も鷹揚に構えていただろう。だが状況は、それだけではすまなくなってきた。

 「えっ……フラム?」

 「何……?」

 その光景に、楓と春姫は目を見張った。

 「ボクは役立たずなんかじゃなああああーい!」

 そうしている間にフラムの全身から炎が迸り、火力が増していく。

 これはもはや焚火どころではない。そうして、昨夜の惨事が頭に彷彿とする。

 「わっ……わかったフラム! 私が悪かったわ!」

 「うおおおおおおおおっ!」

 そこでどうにか諌めようと下手に出るが、楓の声は届かなかった。それどころか炎はさらに猛々しく燃え盛る。この火力も春姫の力を受けてのことだろうか。

 「エール! メル! どうにかならないの!?」

 そこで頼りになりそうなのは、同じ精霊であるエールとメルだ。

 「無理。私がやると火の勢いを助けるだけ」

 エールからはすぐさま不可能という答えが返って来た。

 メルは――

 「そうですね……それをいただけますか?」

 「え……これ?」

 そう言って、楓が飲んでいたお茶のペットボトルを指す。

 「フタを開けていただいてよろしいですか?」

 「こう……?」

 「それでは……」

 言われた通りにペットボトルのフタを開けると、メルは集中するように目を伏せた。

 すると――

 「――わっ!?」

 突然ペットボトルの中身が躍り出た。

 それは空中を蛇のようにうねり、とぐろを巻いてメルの頭上で静止する。水の――いやお茶の塊が宙に浮かぶ。そしてそれが、徐々に膨れ上がって行く。

 それがやがて人頭大にまで膨らんだところで、メルはその目をカッと見開く。

 「それでは…………参ります!」

 そうしてメルが手を振るうと、その塊がフラムに向かって勢いよく放たれた。

 「――ふぎゃっ!?」

 景気のいい盛大な水音。

 お茶の塊は寸分の狂いもなくフラムに命中し、辺りに水蒸気が立ち込める。

 「うわっ…………やったの?」

 あれだけの勢いを誇っていたフラムの炎はメルの一撃によって見事に鎮火。フラム自身はその衝撃で床に叩きつけられ、潰れたカエルのようにピクピクと痙攣していた。

 「ったた……………………なあにすんの!」

 フラムは即座に起き上がって気色ばむ。が、楓たちはようやく胸を撫で下ろした。これで昨夜のような惨事が起こらずにすんだのだ。

 「ふう……ありがとうメル」

 「いえいえ。精霊のしでかしたことは、同じ精霊が対処いたしませんと。一緒にいさせてもらっているのですから、迷惑ばかりかけるわけにはいきません」

 「フラムちゃん大丈夫?」

 「ああ……うん、ありがと」

 楓がメルを労う一方で、春姫は水浸しになったフラムをハンカチで拭う。

 だがフラムが気持ちよさそうに目を細めていると、メルが怒った様子で詰め寄った。

 「フラム……あのくらいのことで腹を立てて燃え出すなんて、我慢が足りませんよ? もう少し落ち着いて行動しなさい。私たちは一緒にいさせてもらっている立場なんですから」

 「だって楓が……それに春姫の力のせいで」

 「その言い訳は何度も通用しません!」

 「私も悪かったのよ。役立たずは言い過ぎたわ、ごめん」

 「ん、まあ許す」

 「偉そうにしてるんじゃありません……!」

 尊大に胸を反らすフラムにニラミを利かせるメル。昨日から見ていて、どうやらこのメルが三人のリーダー格であることは間違いないだろう。性格も落ち着いており、何より三人の中で唯一人間に気を遣ってくれる。その点に関しては感謝しなければならない。

 だが、このままでは収まりがつきそうにない。

 さてどうしたものかと楓が思案していると、春姫が先手を打った。

 「まあまあメルちゃん。フラムちゃんも」

 「ですが春姫さん……」

 「なんともなかったんだし、いいんじゃない? 私たちはそんなことでメルちゃんたちを追い出したりしないよ」

 「へっへ〜ん」

 春姫の陰に隠れて舌を出すフラム。

 当然メルは納得のいかない顔をしていたが――

 「フラムちゃんも」

 再び春姫が割って入る。

 「心配して言ってくれてるんだよ? 一緒にいられなくなったら困るって。そうなったらフラムちゃんも困るでしょ?」

 「うっ……」

 「だから言うこと聞かないと…………ね?」

 春姫の必殺技、無垢で満面の笑顔が炸裂。

 これを前にすれば、たとえ楓だろうと太刀打ちできないのだ。

 「むう……」

 フラムも、メルさえもその笑顔に押し黙る。

 「……………………ごめん」

 そうしてフラムは、ボソリと謝った。楓やメルに対して、あれだけ強情を張っていたフラムがだ。

 上から押さえつけるでもなく、力に訴えるでもない。こういうことを自然にやってのける春姫には本当に頭が下がる。楓ではこうはいかない。

 そうして全てが丸く収まろうとしていた時、楓は傍らの異変に気づいた。

 「……ってあんた!」

 「んう……?」

 「どうしたの楓ちゃ…………あーっ!」

 楓たちの弁当が、ほとんど空っぽになっている。あれだけの騒動が起こっていた一方で、エールはただ一人何食わぬ顔で弁当を食べ進めていたのだ。

 「あんた何やってんのよ!?」

 春姫のようにはいかない楓は、とにかく怒鳴るしかなかった。

 しかしそれでもエールは涼しい顔。この肝の太さは三人の中では一番だろう。

 もしかすると、三人の中で一番扱い辛いのはこのエールなのかもしれない。あくまでも飄々としたその姿に、楓はヒシヒシとそう感じていた。

                       ***

 「はあ…………今日はもう疲れたわ」

 放課後の喧騒の中、楓はくたびれた様子で首をコキコキと鳴らした。

 「楓ちゃん大丈夫? そうだ! 帰ったら私がお風呂入れてあげるね」

 「そう? ありがと」

 隣に当然のごとく春姫の姿もあった。帰宅する者や部活へと向かう者、そんな生徒たちでごった返す廊下を、楓たちは昇降口を目指して歩いているところだった。

 そうしてその肩には――

 「申し訳ありません、私たちのせいで……」

 メルたちの姿もあった。

 楓の右肩にメル、左肩にエール、そうして春姫の右肩にフラムだ。

 「ああ、いいのよ。もうすんだことだし」

 とはいえ、そう簡単にはいかない。

 屋上での騒動はもちろんだが、本当の難事はそのあとに起こった。昼食を片づけ終えて屋上をあとにしようとした時、フラムによる炎を火事と勘違いした生徒たちが教師を連れて雪崩れ込んできたのだ。

 当然のことながら、そこで起きたのは火事などではない。そして何が起きたのかを詳しく解説するわけにもいかない。楓が持てる言葉の限りを尽くしてその場を誤魔化しきるのは随分と骨が折れたものだ。

 春姫も同じことを思い返していたのだろうか、不意に口を開いた。

 「それにしてもやっぱりすごいよね。フラムちゃんもそうだけど、メルちゃんも」

 「はい? 私ですか?」

 「うん。ああいう風に水をこう……ウネウネって。あんなことできるんだね」

 「……お褒めいただいて光栄です」

 メルはかすかにはにかんだように笑う。

 確かに春姫の言うことももっともだ。フラムもそうだがメルのあの能力を見るにつけ、やはり人間とは一線を画する不可思議な存在のようだ。

 そんなことを考えていると、楓の頭には別の場面が思い浮かんだ。

 「もしかして…………さあ、昨日の昼休みも教室にいた?」

 「はい。お気づきになられましたか?」

 「っていうことは、やっぱり助けてくれたのって……」

 「はい……!」

 楓が思い出していたのは昼休みの終わり頃、春姫がつまづいて紅茶をこぼした時のことだ。春姫を支えに入った楓ともどもその紅茶を被るところだったのを、宙に舞った紅茶が不自然な動きをして楓たちを避けたのだ。

 その時は見間違いかとも思ったが、あの能力を見たあとではそれがメルの助けだったのだということが理解できる。

 「そうだったんだ……ありがとね、メルちゃん」

 「そうね、おかげで紅茶まみれにならずにすんだわ。ありがと」

 「いえいえ……」

 ならばお礼の一つも言っておかねばならない。楓は先ほどフラムに“無駄飯食らい”と言ってしまったが、この例のように精霊たちの能力が役に立つことも多分にある。これは認識をあらためなければならない。

 と思っていると――

 「あ……私も私も」

 「ん……?」

 そこへなぜかエールが加わってきた。

 「私も…………って、何が?」

 「昨日私もいたの、わかった?」

 「は? あんたも?」

 「うん。どこにいたでしょう?」

 なぜか誇らしげに胸を張るエール。クイズでも出すようなその態度に乗せられたわけでもないが、楓と春姫はそろって考え込む。

 しかし思い当たらない。昼休みの一件以外は特に変わったことはなかったが――

 「――あっ!」

 なおも楓が昨日のことを思い出そうとしていると、春姫の方が先に何かを思いついたように手を叩いた。心当たりがあったようだ。

 「もしかしてあの時?」

 「あの時って……?」

 「ほら、昨日の帰り。私転んじゃったでしょ?」

 「ああ、何かが目の前を通り過ぎて、それに気を取られたって?」

 「そうそれ! その時のがエールちゃんだったんでしょっ!」

 春姫はどうだと言わんばかりにビシィッ! とエールを指差した。

 「……………………ファイナルア○サー?」

 エールは、途端に神妙な表情になってそう問いかける。

 「フ……フ○イナルアンサー」

 春姫もそれに釣られて神妙な表情で答えた。特にそんな必要のない楓たちまで同じく神妙な表情を浮かべ、その成り行きを見守る。

 「……………………」

 「……………………」

 重苦しい沈黙が流れる。

 そして――

 「………………………………正解」

 「――わあいっ! やったあ!」

 エールは、もったいぶった割にビックリするほど低いテンションで春姫の正解を称えた。その落差に楓の前に出した足がつんのめる。そして春姫は春姫で、エールのローテンション振りとは対照的な歓声を上げた。なぜだか噛み合っている二人の様子が憎らしい。

 が、楓は気を取り直してやるべきことがあった。

 「偉そうなこと言ってんじゃないの……!」

 「――あだっ」

 楓はエールに軽くデコピンをかます。

 なんとなくただならない雰囲気になったが、エールがやったのはただ春姫の目の前を通り過ぎただけなのだ。加えて――

 「あたた…………何すんの?」

 「ということはあんたのせいで春姫は転んだってことでしょ? メルみたいに助けるどころか怪我するところだったじゃない」

 「そういう楓ちゃんは、私より卵を取ったけどね」

 「そ……それはさておき、そんなことで堂々と変なクイズ出してんじゃないの!」

 春姫が卵のことまで思い出したのはやぶ蛇だったが、その点をツッコまずにはいられなかった。これではせっかくあらためた認識をさらに方向転換する必要があるかもしれない。あっちへ行ったりこっちへ来たりと忙しい限りだ。

 (いやまあ…………メルはいい娘ってことなんだけど。それ以外の二人がまだ判断できないってだけで……まあ、百歩譲って)

 ボンヤリと、これからの生活に頭を痛める。昼休みに頭を悩ませていたことが再びぶり返し、ウンザリとした気分になってきた。

 一方で、春姫は肩に乗せたフラムとノンキにじゃれ合っている。

 (全く、人の気も知らないで……)

 心の中で恨み言を呟く楓だったが、その顔には笑みが浮かんでいた。

 こういう時の春姫は無邪気な笑顔で、文句のつけようがないほど可愛い。加えてその笑顔は周囲の人間まで笑顔にする。

 その笑顔をずっと見ていたくなる。同じ笑顔で。

 (まあ…………この笑顔のためにしばらく頑張ってみようかな)

 春姫は精霊たちとの生活にはかなり乗り気だ。その笑顔ためならば、先々の悩ましい出来事を飲み込むくらいはしたい。

 そうして和気あいあいとした空気を隣に感じながら、楓たちは階段へと差しかかった。

 「ありゃ? あれは……」

 それに真っ先に勘づいたのはフラムだった。

 「どうしたのフラ…………ム?」

 楓もほぼ同じタイミングでそれを見つける。同時に、今しがたの決心が大いに揺らぐ。

 しばらくして春姫たちも、見下ろした階段の踊り場に浮かぶそれに気づいた。

 「何あれ…………火の玉?」

 「ちょっとフラム、あんた今度は何やったの?」

 「ボクじゃないよあれは。あれは別の奴」

 「別の奴って……」

 楓の、せっかくの笑顔が引きつる。

 別の奴、ということは――

 「つまり……」

 結論に達するより先に、その火の玉が盛大に膨れ上がった。

 「――うわっ!?」

 襲いかかる熱気に、楓は両手で顔を庇った。

 その耳に、メルの声が届く。

 「あれは……フラムと同じ火の精霊、ジンです。ちょっと不味いかもしれませんね」

 「ま、不味いって……?」

 「少々、質の悪い精霊でして。自己の欲求に忠実というか……」

 「へえ……」

 それならエールやフラムも十分質が悪いと言える。が、この際それは置いておこう。重要なのは、目の前の火の玉とメルの言葉から、とてつもなく嫌な予感がするということだ。

 その不安を助長するかのようなざわめきが、楓の耳に届き始める。

 「ねえ、なんか暑くない?」

 「だよね。今日こんな暑かったっけ? 空調の故障かな……?」

 「もうアッつい! 外出よ外」

 周囲の反応と同じく、楓も全身から汗が滲み出す。

 この熱気が、目の前にいるこのジンという精霊の影響であることは間違いない。

 「――あっ!」

 そんなことを考えている内に、ジンは踊り場からフラフラと下りて行ってしまった。

 「ちょっ…………ちょっとこれ、不味いわよね?」

 「そうです。攻撃してくるような素振りはありませんが、このままではこの校舎全体が巨大なサウナになってしまいます」

 「…………フラム、あんた行ってお引き取り願いなさい。同じ火の精霊でしょ?」

 「ひと(くく)りにしないでよ!」

 「どうでもいいから! あんたも少しは役に立ちなさいよ!」

 「ですが、それもどうでしょう? ジンは話し合いができるほど知能が高くはありませんし…………まあ、フラムの方も同じですけど」

 「今サラリとバカにされた!?」

 「ああもう! とにかく追いかけるわよ!」

 業を煮やした楓は、考えもまとまらないまま階段を駆け下りた。どう対処するにしても相手がいないことには話にならない。

 と――

 「ほらハル! あんたも来るの!」

 ボンヤリとしていつまでも動く気配のない春姫のところまで戻ってその手を掴む。

 「え……私も?」

 「ほぼ間違いなくあんたが狙われてるんだから、何かあったらどうするのよ!?」

 「えぇ〜?」

 「えぇ〜じゃないの! 行くわよ!」

 「――ひやっ!?」

 春姫の手を強引に引き、今度は一緒に階段を駆け下りる。

 メルは“攻撃する素振りはない”と言っていたが、相手は精霊だ。行動原理もわからないし、万が一のことが起こらないとも限らない。一緒に行動するのが一番無難なのだ。

 なのだが、ことはそう単純ではない。

 「わわっ……きゃあっ!」

 「もっとちゃんと走って!」

 「そんなこと、言ったっ……あわわっ!」

 幼児並とも言えるの運動神経と体力の春姫を連れて追いかけっこをするのは当然のごとく骨が折れる。ちょっと走っただけでも春姫はそこここにぶつかり、足をつんのめらせ、バランスを崩すのだ。だが今は、それでも春姫を連れて追いかけるしかない。

 「さっきのあいつ、どこに行ったかわからないの?」

 そこで楓は、どうにかこの追走を楽なものにするべく尋ねた。

 「存在はおぼろげに感じますが、どこにいるかは……エールはどう?」

 「空気の流れで大体の方向だけなら」

 「フラムはどうなの? あんた真っ先に気づいてたでしょ?」

 「そうだね、近くにいればわかる」

 「遠かったら?」

 「うん、まるでわかんない!」

 「何よそれ!」

 「か……楓ちゃ…………ちょっと……」

 足を忙しなく動かしながら、肩に乗った精霊の面々と言葉を交わす。

 運動音痴の春姫をことあるごとにフォローしてきた楓。そうしている内に不本意ながら運動部員並の体力を手に入れた楓にとっては、口と足を同時に動かすのもお手の物だ。

 階段を駆け下りると今度は廊下。やや疎らになってきた生徒たちの合間をすり抜ける。

 だが――

 「暑っついわねやっぱり。走ってると余計に」

 ジンの影響で楓たちを取り巻く気温が異様に高い。季節はまだ初夏だが、もはや真夏の空気と言っても過言ではなかった。

 そんな中を走り回れば、いくら体力に自信があっても噴き出してくる汗をどうすることもできない。こんな状況をなんの指針もないまま闇雲に続けるのは、正直気が重かった。

 「仕方ないわね……エール、その大体でいいからどっちにいるの?」

 「とりあえずこのまま。それからまた上に上ってるかな?」

 「何よ! 面倒くさいわね」

 「か、かえ……で……ちゃ……」

 問題は、楓がしっかりと握った手の先にもあった。

 すなわち、いつもフォローされる側の春姫。

 「また上って、その次は……」

 「も……ダメ……」

 「――!?」

 再び階段を一階分上りきった瞬間、掴んでいた春姫の手が急激に重さを増した。それに引っかかるようにして楓の上半身が後ろに傾く。

 そこへ、悪いことは続くものだ。

 「――った」

 「――うわっと!?」

 そのタイミングで、偶然にも上階から下りてきた生徒と出合い頭に衝突。

 楓と春姫は、そろってその場に尻もちをついてしまった。

 「あたた……」

 楓は鈍く痛むお尻を撫でさする。

 バランスを崩したところにぶつかったので、楓たちはいとも簡単に転倒してしまった。つまり相手の方に大した被害はない、ということに関しては幸いだったが。

 「すみません、大丈夫で……津月さんに宮原さん?」

 「え? あ……」

 その相手はすぐさま手を差し伸べてくれたのだが、そこで唐突に自分の名前を呼ばれて楓は戸惑う。

 差し伸べられた手からたどって頭の方に視線を上げると、そこには見知った顔があった。

 「柊さん……」

 「珍しいですね、こんな所で。あ、大丈夫ですか? 手を……」

 「ああ、うん……ありがとう」

 楓はその手を借りて立ち上がる。

 別に大したことはなかったが、せっかく差し出された手を無駄にするのももったいない。

 その手を差し伸べてくれた相手は、(ひいらぎ)優華(ゆうか)。長身に長いおさげ髪、クールな面差しと落ち着いた物腰が特徴の楓たちのクラスメイトだ。

 「ケガはありませんか? すみません、私の不注意で」

 「ケガは大丈夫。私たちの方こそごめんね。ちょっと急いでたから」

 「そうみたいですね。一体何をそんなに?」

 「いやまあ…………ちょっとね」

 「そうですか。ところで、その……………………大丈夫なんですか?」

 「え? うん、だから私は……」

 「そうじゃなくて、その……後ろ……」

 「は? 後ろ……?」

 「か、かえで……ちゃ〜ん」

 優華に言われて後ろを振り向いてみると、同時に地を這うような低い声が耳に届いた。

 「あ……ハ、ハル」

 そしてそこには、あたかもゾンビのように床に這いつくばった春姫の姿。

 春姫は息も絶え絶えといった様子だ。おそらく階段を上りきる頃には力尽きていたのだろう。優華とぶつかる直前に感じた重みはそれだ。

 「だ、大丈夫ハル!?」

 「楓ちゃん……ヒドいよお〜…………色んな意味で」

 「ごめんねハル! ごめん!」

 楓はその姿を見て大慌てで春姫を介抱した。その春姫の恨みがましい視線がチクチクと突き刺さる。昨日も似たようなことがあっただろうか。

 そうして平謝りする楓を見て呆気に取れる優華。

 「大丈夫…………なんですか?」

 「ああ、大丈夫大丈夫。いつものことだから」

 「そうですか? よかったら、手を貸しましょうか?」

 「気持ちだけもらっておくわ。ありがとうね。ほらハル、立てる?」

 「うん……」

 楓は春姫の肩を抱いて立ち上がらせる。

 まだ足元が覚束ない様子だが、どうにか動けるだろう。

 「それじゃあ私たち、もう行くわ」

 「あ……はい。それじゃあお気をつけて」

 「うん、ありがとう」

 「バイ……バ〜イ…………柊さん」

 春姫が力なく手を振ったのを潮にして、楓は歩き出した。春姫はまだ十分に回復していないようなので、とりあえず廊下の方へ。

 思わぬハプニングで時間を食ってしまった。急いでジンを追わなければならない。

 が――

 「あ、あれ?」

 春姫に加えて、さらに失念していた。

 精霊たち三人が、楓の肩からいなくなっていたのだ。

 「あ、あの三人どこに……」

 「楓さ〜ん」

 取り急ぎ辺りを見回していると、楓を呼ぶ声が聞こえた。

 それがどこから聞こえてきたのか探るまでもなく、楓の肩に何か小さいものが取りつく感触。もちろんそれはメル、エール、フラムの三人だった。

 「どこ行ってたの? 三人とも」

 「楓が倒れた拍子にこう、ヒューっと……」

 エールが、指先で緩やかな曲線を宙に描く。

 「ああ、そうだったの? 悪かったわね」

 「それで、お友達とお話し中だったみたいなので、離れて様子を見ていました」

 「助かるわ」

 「では、引き続きジンを……」

 「ちょっと待って。ハルがヘバっちゃったから、ちょっと休憩しましょう。それにこの暑さで、私も疲れちゃったわ」

 「あ、そうですか」

 「はえ〜…………やっと休める」

 「ついでに作戦会議といきましょうか」

 楓はそう言うと、たどり着いた廊下の逆端から階段を降り始めた。

                       ***

 そんな楓たちの姿を、優華はしっかり見送っていた。

 「津月さんたち…………どうして?」

 その行動に、優華は疑問を持つ。

 (春姫が)息も絶え絶えになりながら上って来たというのに、どうしてまた階段を下りて行ってしまったのだろう。

 その違和感のある行動が、優華は妙に気になったのだ。

 楓たちとは、特に親しいというわけではない。気になったとしてもそれを放っておくことは簡単なことだった。

 だがなんとなく、今日の優華はそういう気にはなれなかった。

 「……………………よし」

 すでにその姿は消えていて、行方はようとして知れない。

 それでも優華は、意を決してその足を前に出した。

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