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第1話

 昼休み。日本全国のありとあらゆる学校がひと時の解放感と喧騒に包まれる時間。

 楓もまたその内の一人として解放感に浸りつつ、仲のいいクラスメイト二人と一緒にささやかな昼食を囲んでいた。

 「楓って相変わらず器用だよねえ」

 友達の一人である杉山(すぎやま)(さち)が感心したように楓の手元を覗き込む。そこにあったのは今まさに楓が突いている弁当だった。

 「何がよ?」

 「毎日毎日そんな美味しそうなお弁当つくって来てさ。大変じゃない?」

 「もう慣れたわよ。元々料理は嫌いじゃないし」

 幸の言うように、その弁当は楓自らがつくった物だ。学生の身空でありながら、貴重な朝の時間を費やして弁当をこしらえているのにはもちろん理由があった。

 「一人暮らしも大変だね」

 もう一人の友達、大河(おおかわ)いずみの気遣うような言葉。それが理由だった。

 「まあね」

 楓はその言葉を受け取りながらウインナーに箸を伸ばす。

 高校生としては珍しい部類に入るだろう一人暮らし、それが楓の置かれている現状だ。なんでもかんでも自分でやらなければならないのだから、その苦労は弁当どころではない。実際にはまだまだ慣れたとは言い難いが、そこは楓の性格が物を言っている。

 幸に言った通り料理は嫌いではないし、元々が自分の面倒は自分で見るタイプだ。そんな性格が手伝って、楓は今のところ特に苦もなく一人暮らしを続けることができているのだ。

 そんな状況だからこそ、次なる幸の行動を許すわけにはいかない。

 「ふ~ん……どれどれ?」

 「――あっ!」

 最後に食べようと思って取っておいた卵焼き、それを幸がかすめ取ったのだ。

 「ん〜! 相変わらず美味しい」

 「ちょっと何すんのよ! せっかく人が楽しみに……」

 「まあまあいいじゃん、減るもんじゃないし」

 「いやいや、明らかに減っているだろう」

 冷静ないずみのツッコミも受け流し、笑顔満面の幸。卵焼きが美味しかったことは喜ばしいが、それを奪われてしまったのだからなおさらに悔しい。

 楓はギリギリと口惜しげに歯ぎしり、次いで迅速な行動に出た。

 幸いにも、卵焼きは二つ詰めてある。これだけはなんとしても守りきらなければならない。ここは取っておくなどと悠長なことを言ってはいられないと判断し、楓は早急にその最後の一切れを口に放り込んだのだ。

 「あぁん、いけずう!」

 「どの口が…………んく、言ってんのよ」

 幸の批判じみた声にはもちろん耳を貸さず、楓は明後日の方を向く。

 その視線が、偶然にも見慣れた姿を捉えた。

 楓と同じように、クラスメイトと楽しそうに話をしている春姫だ。

 「……相変わらず人気者みたいだね、楓の幼馴染は」

 「そうみたいね。私にはいまいちピンと来ないけど」

 いずみに対するその言葉は、間違いなく率直な意見だった。確かに人気があることは認めるが、子供の頃から一緒にいる身としてはどうにもしっくり来ない。

 「何言ってんのよ。あんなに可愛いんだよ? その上スタイル抜群! 人当たりもいいし、人気があるの当然じゃん」

 「そりゃそうだけど……」

 「あれだけ人気者の幼馴染がいるなんて、鼻が高いでしょ? 私なら誰彼かまわず自慢して回るけど、自分のことみたいに」

 「そりゃあんたはそうでしょうけど……」

 幸が口にした春姫の賛辞にも、楓は微妙な反応を示す。

 「あんたたちは春姫のこと何も知らないからそんなこと言えるのよ」

 幸も含めて、春姫を取り巻く多くに人々はその本性を知らないのだ。勉強も運動もろくにできず、楓に頼りきったその実態を。

 「確かに楓からたまに聞いているけど、それほどなのかい?」

 「だよねえ? だとしても、そのくらいはご愛嬌なんじゃない?」

 「じゃあたまにはあんたたちがお守してみる? その愛嬌で被害を受けるのはいっつも私なんだから、堪ったもんじゃないわよ」

 その切実な想いが籠った重いタメ息を吐き、ペットボトルのお茶を一口飲む。

 もちろん、春姫の可愛さは楓にも疑う余地はない。ずっと一緒に過ごしてきた楓ですらドキリとする瞬間があるくらいなのだから。最近はさらに磨きがかかっているのではないだろうか。

 だがドキリとした次の瞬間に視界から消え失せたり(転倒)、名古屋の県庁所在がどこかなどと訪ねてきたり(二重に間違い)するのだ。全くもって浸るヒマもない。

 (本当に…………ねえ)

 そう思いつつ、楓の視線は再び春姫へ。

 クラスメイトとの会話にケラケラと笑う春姫。その場所にだけ花が咲いたようで、楓は一瞬見惚れてしまう。

 が――

 「あっ……!」

 春姫が箸を落っことした。

 慌ててそれを拾おうとする春姫の姿に、やはりやってくれたと楓は目を覆う。

 「ありゃりゃりゃ」

 「行かなくていいの?」

 「箸落としたくらい、自分でなんとかするでしょ」

 「えぇ〜? 行きかけたくせに」

 「うっさいわよ……!」

 ギラリと目で牽制。

 しかし幸の言葉は正しく、楓は春姫が箸を落とした瞬間腰を浮かしかけた。それはもはや条件反射として楓の身体に刻まれたものなのだ。とはいえ、さすがに春姫ももう子供ではない。あのくらいで世話を焼くこともないだろう。

 「ふう…………ごちそう様」

 そうしている間に弁当を平らげ、サクサクと片づけて一息吐く。あとは昼休みが終わるまでのんびり過ごすだけだ。

 「そうそう楓、そういえばさあ……」

 もっとも、幸がそれを許してくれればの話だが。

 明るく活発な性格の幸は、黙っているのが苦痛だと言わんばかりにしゃべり通す。時には一体どこから話題が湧いてくるのか、いやそんなことまで話題にするのかと思ってしまう。果たして感心していいのやら呆れていいのやら。

 多少煩わしく感じる時もあるが、それでも楓にとっては貴重な友達だ。高校入学からほどなくしてこんな友達ができたのは幸運だったと言える。ちなみに、一方のいずみは口数が少なくてドライ気味。楓としてはいずみの方がつき合い易い。

 なんてことを考えながら、幸と取り止めのない会話を続けていると――

 「楓ちゃ〜ん」

 クラスメイトとの昼食を終えた春姫がこちらへ歩いて来た。

 近距離だというのに手を大きく振りながら。無邪気で微笑ましいと言えないことはないが、大げさで子供っぽいとも言える。

 楓は知っている。

 こんな時に春姫は、決まって足元が疎かになるということを。

 「あっ……?」

 「――あっ!」

 笑顔のままの春姫が傾く。すぐ側にある椅子の足に突っかかったのだ。

 楓は今度こそとっさに席を蹴った。

 「――っと」

 つまずいたのが近い場所だったため、楓が伸ばした手はどうにか春姫を支えることができた。ひとまずは安心。

 しかし、そこでホッと息を吐く余裕もないのは春姫が何か持っているからなのだろうか。

 「えっ……?」

 視界上方に過った影、それはくびれた円筒形をしていた。

 それは春姫が手にしていたペットボトル、つまずいた拍子に手からすっぽ抜けていたようだ。しかもまだ中身が入ったまま、かつ、フタも空いたまま。

 (どうしてフタ空いてんのよお〜!)

 心の中でどれだけ叫んでももう遅い。

 楓は、今まさにペットボトルの口から褐色の液体が噴き出すのが見えた。しかもスローモーション。

 人間は危機に瀕した際に映像がスローモーションに見えると言うが、まさかごくごく普通の学生生活でそれを経験するとは思わなかった。

 ちなみにその液体が春姫の好みから紅茶だろうということはわかった。わかったがそれが何かの慰めになるわけでもないが。

 楓は、無意識の内に春姫を支えた腕に力を込める。

 「――っ!?」

 辺りに小さな水音。

 次いで額に軽い衝撃。

 そのまま軽い音を立てて床に落ちたのはペットボトル、それが楓の額に当たったのはわかる。

 だが一方で、なんとも理解し難い現象が起こっていた。

 「二人とも大丈夫?」

 その一部始終を見ていたいずみが心配そうに立ち上がった。

 「うん…………大丈夫。ハルは?」

 「私も……大丈夫みたい」

 それは、全く言葉通りだった。ペットボトルが当たった額が少しヒリヒリするだけで、当然ケガなどありはしない。

 加えて、こぼれたはずの紅茶がほんの少しも二人の身体にかかってはいなかったのだ。髪や顔にはもちろん、制服にもシミひとつない。

 ありえないことだった。

 二人の周りには、紅茶が飛び散っている。ペットボトルから中身が噴き出したのは間違いない。それが少しも二人を濡らすことなく床に落ちたのは奇跡に近い。果たしてこんなことが起こり得るのだろうか。

 「楓ちゃん……?」

 「ん…………あぁっと」

 そんな現象に呆然と考えを巡らせていると、腕の中の春姫が心配そうに楓を見上げていた。楓自身が感じる以上に時間が経っていたのかもしれない。

 「あーあーこんなにしちゃって。足元気をつけなさいって、いつも言ってるでしょ」

 「う、うん……ごめん」

 あらためて床にこぼれた紅茶を見た楓は、真っ先に春姫に小言を食らわせた。同時にポケットからティッシュを取り出して床を拭き始める。

 よくよく考えてみれば、紅茶まみれは免れないところだったあの状況が無傷ですんだのだ。これは幸運以外の何ものでもない。ならば素直にそれを享受すればいい。なぜ楓と春姫になんの被害もなかったのか、そんな答えの出ない疑問に気を取られてもしようがない。

 などということを考えていると、作業はあっという間に終了していた。

 床を拭いたティッシュの後始末までし終えると、楓はふと春姫に尋ねる。

 「あ、そういえばなんだったの?」

 「えっ? 何が?」

 「何か話があってこっちに来たんじゃないの?」

 「あぁ、えっとね…………今日、楓ちゃんの家に行っていい?」

 「今日?」

 「うん。ダメ?」

 「別に構わないけど…………それじゃあ帰り、買い物にもつき合いなさいよ?」

 「うん! それじゃあ放課後ね」

 「わかったわ」

 約束を交わしたところで昼休み終了のチャイムが鳴る。

 それを耳にした春姫はそそくさと席に戻って行った。楓もそれに倣って自分の席へ。

 その途中、楓の頭をチラリと過る光景があった。

 考えないようにしていた幸運の瞬間。それは、あまりにも不可解な一瞬の出来事。

 (なんだったんだろう……あれ)

 楓の瞳の中で、宙に舞った紅茶の雫が動いたような気がした。まるで、意思を持って楓たちを避けるかのように。

 (まさか…………ね)

 見間違いかもしれない。しかしそう決めつけることのできない何かが楓の中にはあった。

 それは、午後の授業が始まってからもなかなか消えてはくれなかった。

                       ***

 時は流れて放課後。

 楓は約束通り春姫と一緒に買い物をし、家路に着いたところだった。

 「今日の晩ご飯はなあ〜に?」

 「ギョーザと、チャーハンとスープ。それとサラダかな」

 「あっ、さっき買ったチョコちょうだい」

 「ダーメ、家に着いてからよ。コラ! 手を突っ込むな!」

 夕焼け色に染まった景色の中を歩く二人の姿は、まさしく買い物帰りの母娘そのものだ。楓が手にしているエコバッグの内容もまた主婦のそれなのだから一際そんな気配が強まる。

 買い物の内容は主に食料品、及び日用品(春姫が勝手に買い物カゴに忍ばせたお菓子の類も入っているが)。楓は一人暮らしをしている身の上だ、身の回りの品物は全て自分の手で購入しなければならない。楓はそれをほぼ毎日、こまめに繰り返しているのだ。

 楓の両親は現在単身赴任中、正確には単身赴任する父親に母親もくっついて行って楓だけが一人残されているという状況だ。

 もっとも楓は、自分の意思でこちらに残ったのだった。

 高校入学を目前にして父親の単身赴任が決まった時、楓はしばし悩んでこの町に止まることを決めた。理由はいくつかある。長年暮らしたこの土地を離れたくなかった、一人暮らしにほんの少し憧れを抱いていた、などもその内の一つだ。

 だが最大の理由はやはり――

 「楓ちゃん重くない? 荷物一個持つよ」

 隣を歩くこの頼りなさげな幼馴染が心配だったのだ。

 「いいわよ。あんたに持たせると心配だもん」

 「大丈夫だから! ほら貸して」

 「あっ、ちょっと……!」

 言いながら無理矢理荷物をひったくる春姫。しかし春姫の「大丈夫」ほど不安を煽る言葉はない。どうせなら落としても特に問題のない学生鞄の方を持ってもらいたいのだが、何をどう間違ってもそちらには手を伸ばさないのだから大したものだ。

 「落とさないでよ、卵入ってるんだから」

 「わかってるぅっ!」

 先んじて駆けて行く春姫の背中にさらなる不安が募る。春姫の場合普段の行動が行動だけに、この反応はもはや止むを得ないだろう。

 しかし一方で、その様子を素直に微笑ましく思う気持ちも確かにあった。

 春姫は、確かに頭も悪ければ運動神経も悪い。面倒を見る人間がいなければまともな学生生活を送れるかも怪しい。だがその心根は優しく、穏やかで人の心を惹きつける。クラスでの人気もそこに起因するところが大きいだろう。

 こうして帰途を共にすること、これもまた春姫の優しさの現れだった。広い家にたった一人、楓も少なからず寂しい想いをしている。そんな楓のために、春姫は頻繁に楓の家に泊まりに来てくれるのだ。春姫の世話をという手間が増えはするものの、その時間は楓の寂しさを紛らわせて余りある。

 (ま、そこまで深く考えてるかはわからないけど……)

 少なくとも、それが楓のことを想っての行動であることは間違いないだろう。春姫は物事を深く考える性格ではない、しかし無意識の内にそういったことを察するのもまた春姫なのだ。その性格にどれだけ救われているか知れない。

 もちろん、その何倍も迷惑をかけられてもいるのだが。

 「あれ……?」

 今しも、その迷惑が積み立てられる事態が発生した。

 「ハル!」

 なんと本日三回目。何をどうすればそうなるのか、春姫はまたしても何もない道の真ん中で何かにつんのめるようにしてバランスを崩していたのだ。

 楓はいつも通り春姫を助けようと路面を蹴った。が、同時に春姫の身の安全とは別のことが頭を過っていた。

 春姫がバランスを崩した拍子に宙を舞った買い物の荷物。

 中には、セールのため格安で手に入れることができた十個入りパックの卵。

 「――ったぁあああああっ!」

 楓は必死に手を伸ばした。

 愛用の、オレンジ色をしたエコバッグに。

 「――ぅべっ!」

 その傍らで、無様な呻き声。

 しかしその声は耳に入らず、楓は即座にバッグの中身を確かめた。

 「卵は!? ……………………ふう、無事ね。ほかのも」

 楓は安心し、胸を撫で下ろした。が――

 「か、楓ちゃ〜ん……」

 「うっ……」

 刺々しい視線が、楓の背中に突き刺さる。当然、春姫以外に考えられない。

 春姫は道に突っ伏した状態で顔だけ上げ、楓のことを恨めしそうにニラみつけていた。

 「あぁ……いや、これはその……」

 「今のはちょっと…………ひどくなあい?」

 「だ……だってほら、卵。だからさっき心配だって……」

 「ふぅん……」

 春姫は、いつになく殺伐とした気配を立ち昇らせながらユラリと立ち上がる。

 楓はその姿に思わずたじろぐ。

 「だからってえ…………私のことはほったらかしなのお……? 私があ……ケガしてもよかったって言うのお……?」

 「ハ、ハルはさ、運動神経ないけど結構頑丈だし……」

 「かあ〜ええ〜でえ〜ちゃあ〜ん……!」

 言い訳には聞く耳を持つはずもなく、春姫がジリジリと詰め寄ってくる。

 「うぅ……」

 珍しく追い詰められた楓は、苦し紛れに視線を右往左往させた。

 右には……何もない。

 そうして左には――

 「――!」

 そこには、楓が探し求めていた退路が確かに拓けていた。

 ただしそれは、道ではなかった。

 「ほ、ほらハル! あれ」

 「えっ……?」

 ここで乗ってくれる辺り、やはり春姫だ。

 「あれって…………コンビニ?」

 「うん、そう。さっきオヤツ欲しがってたでしょ? せっかくだから私がなんかおごってあげる。アイス? それとも肉まんとか……」

 「……………………それって買収しようとしてる?」

 「そんなことないわよ! 私もちょうど小腹が空いたなあって」

 「ぬう……」

 楓は会心の笑顔をつくった。

 対する春姫は口をへの字にしたまま、しかし迷うように楓とコンビニを見比べる。

 それを繰り返すこと数度、楓は祈る想いでその様子を見守った。

 そうして春姫の口が、への字からかすかに動き――

 「……………………それじゃあ、アイス」

 楓はガッツポーズ。ただし、心の中で。

 「アイス? アイスがいいのね! だったら溶けない内に急ぎましょう!」

 「買ってもいないのに溶けるわけないよ、もう……」

 言いながら、春姫の足は早速コンビニへと向いていた。その足取りは軽い。

 楓はそれに置いて行かれないよう、急ぎ足で自動ドアを潜った。

 春姫は早くもアイスが陳列されているケースの前で中身を物色しているところだった。

 「あんまり高いのは勘弁してよね」

 「わかってる」

 その横顔は、もうすっかり上機嫌だ。

 ホッとした楓もその隣でアイスを選び始める。仕送りもあり、無駄遣いをする質でもないためお金に困るということはないが、その目はついついお手頃価格な物へと向いてしまう。いや、だからこそなんの不自由もなく一人暮らしができていると言えようか。

 「私は……………………これ!」

 そうこうしている内に、春姫が自分の選びだした逸品を誇らしげに掲げ上げた。だがそれはなんの変哲もないソフトクリーム、どちらかと言えば定番の一品だ。

 「ハルまたそれ? 本当に好きねえ」

 「うん、大好き。試したいのも色々あるけど、こういう時はこれだよね」

 「こういう時って、誰かにおごってもらう時?」

 「楓ちゃんにおごってもらう時。それで、楓ちゃんは何にするの?」

 「私は…………これかな」

 「なんだ、楓ちゃんだっていつものじゃない」

 「いいでしょ別に。選ぶのが面倒だったの」

 楓が選んだのは、やはりなんの変哲もないフルーツ味の棒アイス。これまた定番品だ。

 特別に意識してこれを選んだわけでない。しかし結果として春姫の指摘通りであることは間違いなく、そこを突かれた楓は少しムッとする。一応このアイスは種類がいくつかあって、今回は前と違う味を選んでいる。しかしそれを言うのも言い訳じみていて口に出そうとは思わないが。

 「さっさとそれよこしなさい。お金払ってくるから」

 「えへへ……ごちそう様で〜す」

 笑顔満面の春姫に見送られ、楓は店のレジへ。

 手早く支払いをすませてコンビニを出ると、春姫は早速ソフトクリームを一口頬張る。

 「だから……なんでいきなりかぶりつくわけ?」

 「この方が美味しいよ?」

 「あっそ」

 ソフトクリームと言えばまずは舐める物、という先入観のある楓にはいまいち腑に落ちない。だがそれを言ったところで仕方がないので楓も自分の分の封を切って歩き出す。

 いつもと変わらない味。それを味わいつつコッソリと視線を横に動かすと――

 「〜〜〜〜♪」

 楓と並んで歩く春姫の、いつもと変わらない笑顔。

 春姫の機嫌を直すためのとっさの提案だったが、この笑顔を生み出せただけでも元は取れたと言うべきだろうか。

 その笑顔を横目に、楓にも自然と笑みが浮かぶ。

 茜色が深まった空、その端は早くも紺色に染まりつつあった。そんな空の下で、二人はしばらく足と口を動かすことだけに専念する。

 「それにしても、なんでいつも同じことになるわけ?」

 それから楓は、しみじみとそう口にした。郷愁を誘うこの景色を眺めながらする会話ではないが、何故かしみじみとそう感じたのだ。

 「ふぇ……? 何が?」

 「なんで毎度毎度なんにもない所で転ぶのかってこと?」

 「なんでって、んん〜……」

 ソフトクリームを食べる手をひと時休めた春姫は、難しい顔をして唸り始めた。先ほどのことを思い返しているというより、何やら考え込んでいる様子だ。

 春姫の運動神経に関しては諦めきっている楓としては単なる世間話のつもりだったが、春姫の反応が何やら妙だ。

 「んん〜……………………なんだったんだろうね?」

 だが春姫から返って来たのは、そんな要領を得ない答えだった。

 「は? どういうことよそれ」

 「普段転んじゃうのはまああれとして、さっきのは何かに気を取られたっていうか……」

 「何かって何?」

 「なんて言うかね、こう……目の前をヒュッ! って通り過ぎてったの。何かが」

 人差し指を目の高さに持ち上げ、一の字を書くように素早く動かす春姫。

 「何それ、虫?」

 「それがわからないから“何か”って言ったの! でも……結構大きかった。手の平サイズくらい? だから虫やなんかじゃなかったと思う」

 「ふう〜ん……」

 詳しく聞いてみても、やはりよくわからない。

 手の平大の物が目の前を横切って、それが何かわからないということがあるのだろうか。

 (まあ、春姫ならあり得るけど)

 あるいは手の平大というのは見間違いで、やはり虫か何かが高速で横切っただけなのかもしれない。いずれにしろその答えは春姫の記憶の中にしかなく、楓が考えても無駄だ。

 楓が言うべきことは一つ。

 「目の前を通り過ぎた何かだけじゃなくて、周りにもちゃんと注意しなさいよ? ただでさえハルは足元が覚束ないんだから」

 「そんな、おじいちゃんやおばあちゃんみたいに……」

 「おじいちゃんおばあちゃんの方がよっぽど頼もしいわよ」

 「むう……………………はあい」

 楓のお小言に春姫はむくれたような素振りを見せたが、気を取り直してソフトクリームを口にするとすぐ笑顔に変わる。

 そうして漠然とした不思議な出来事は、すぐさま頭の片隅に追いやられてしまった。

                       ***

 「ふあ〜…………美味しかったあ」

 「こおら、だらしなく寝てるんじゃないの」

 リビングのソファにベッタリと寝そべった春姫に向かってピシャリと言い放つ楓。だが食後の幸福にドップリと浸った春姫にはまるで届いていなかった。

 時間は午後八時を少し過ぎた頃。陽はとうに暮れ、今日も静かな夜が訪れていた。

 「こら!」

 「――ひゃっ!?」

 言葉は届かなかったというわけで、うつ伏せになって寝ていた春姫のお尻を平手で一発。それで春姫はビクリと身体を跳ねさせた。

 「牛になっても知らないわよ?」

 「もうー……そんなの迷信だって」

 「でもほら“モウー”って」

 「だから違うって……!」

 言いながら、春姫は身体を起こす。

 「楓ちゃんのご飯が美味し過ぎるのがいけないの」

 「何わけのわからないこと言ってんの、デザートまで食べといて。そんなことより、鞄どこに置いたのよ? 持って来なさい」

 「え? なんで?」

 「なんでって、今日も課題出てたでしょ? 今朝みたいなことにならないように、今日はちゃんとやって行かないとね」

 「うっ……」

 楓がそう言った途端、春姫は表情を曇らせた。

 だが楓は、その監視下において課題を忘れて行くようなことを許すつもりはない。それが巡り巡って楓にもシワ寄せが来るのだから当然だ。時間のない朝に大急ぎで片づけるより、あらかじめすませておいた方がいいというのも間違いない。

 というようなことを春姫が泊まりに来る度に言い聞かせているはずなのに、それを泊まりに来る度に忘れているのだから恐れ入る。それとも忘れたフリをしているのだろうか。

 「あ〜…………それより楓ちゃん、先にお風呂に入らない?」

 そうしていつものように、春姫は矛先を逸らしにかかる。

 それで逸れた例などないとわかっているだろうに。これも毎度のことだ。

 「ハルはお風呂入ったら眠くなっちゃうでしょ? だからお風呂は寝る前」

 「小腹空かない? チョコまだあるよ?」

 「残念ながら空いてないわね」

 「ゲームしない? 昨日は楓ちゃんが負けっぱなしだったし」

 「負けっぱなしで結構よ」

 「あ! UFO!」

 「部屋の中にいるわけないでしょ! あんた私舐めてんの?」

 往生際の悪い態度に、楓は青筋を立てる。

 しばしの沈黙。楓の視線を避けるようにそっぽを向いた春姫をじっとニラみ据える。春姫は春姫でその状態のまま次なる一手を考えているのだろうか。

 春姫が口を開くのと、楓が手を伸ばしたのはほとんど同時だった。

 「…………あ、私ちょっとトイレに」

 「待ちなさい……!」

 ソファから立ち上がろうとした春姫の頭を、楓の手がガッシとワシ掴みにした。

 春姫は笑顔のまま硬直。楓はその手から春姫の身体に走った戦慄を明確に感じ取る。

 当然楓は――

 「ハル〜?」

 一気呵成に仕留めにかかる。

 「鞄を……」

 春姫の頭を掴む手に一層力を込めて。爛々と輝くその瞳に尋常ならざる気迫を込めて。

 「取って来なさい。オーケー?」

 春姫にそう命じた。

 「……………………はい」

 それで春姫はようやく観念してうなずいた。


 「さあて、始めましょうか」

 「むう〜……」

 場所を楓の部屋に移して、早速課題に取りかかる。

 今日の課題は英語。なおもグズグズ言っている春姫のことは半ば黙殺し、楓も自分の課題を進める。春姫にばかり構っていて自分のことを疎かにするわけにはいかないのだ。

 「ねえ楓ちゃ〜ん」

 と、ミニテーブルを挟んで向い合せに座っていた春姫がか細い声を上げた。

 「ここってどうなるの?」

 「ハル……あんた少しは自分で考えてる?」

 「だってわからないんだもん」

 「基本は同じなんだって。ほら、主語があってこれが動詞で……文法は教科書に載ってるでしょ? わからない単語は辞書を引く!」

 テキパキと解説し、テーブルの端に置いてある分厚い英和辞書をバンッと叩く。

 「むう〜……」

 春姫は相変わらず難しい顔をしていたが、教科書と辞書を交互に見比べて呻り出す。とりあえずは自力で解く気にはなってくれたようだ。

 そうでなければ意味がない。自分で考え、解決しようとする習慣を身に着けてもらわなければ元の木阿弥、この先も変わらず課題やテストがある度に楓が面倒を見ることになる。それは楓としても避けたいところではあるし、春姫のためでもあるのだ。もちろん、それが上手くいっていないが故の現状なのだが。

 ともかく、今はいい傾向だ。その様子に安心した楓は再び自分の課題に集中する。

 その矢先のことだ。

 「ん……?」

 「あれ?」

 唐突に、目の前が真っ暗になった。

 「な、何?」

 「停電かしら……?」

 楓はそう口にしながら目の前の暗闇を見つめる。当然何も見えないわけだが、楓の目にはキョロキョロと辺りを見回しながら慌てふためく春姫がはっきりと見えた。これもまたつき合いの長さがなせる業だ。

 「もう……」

 せっかく春姫も独りでに課題に取り組み、楓も集中し始めたというのにやる気が削がれた気分だ。とはいえ、愚痴っていても仕方がない。楓は暗闇の中を手探りで立ち上がる。

 「そんなに色々使ってなかったんだけど……ちょっとブレーカー見て来るわ」

 「えぇ〜……こんなに暗い中、私一人置いてくの?」

 「二人で行ったって意味ないでしょ?」

 「やだ! 怖い!」

 「携帯の明かりとかあるでしょ。えーっと私のは……」

 いい年をしてこの暗がりを怖がる春姫は置いておくとして、とにかくこの状態をどうにかしなければならない。まずはブレーカー、そこに異常がなければ外に原因があるということになる。そうなった場合は楓にどうすることもできないが。

 楓は、少しずつ暗闇に慣れてきたその目で自分の携帯電話を探す。

 「あ、ありがと」

 すると、急に手元が明るくなった。

 楓の言葉に従った春姫が照らしてくれているのだろう。と思ったが――

 「え? 何が?」

 「だから明かり……」

 「私、何もしてないよ」

 「えっ……?」

 会話が噛み合わない。何やら腑に落ちないものを感じながら、楓は振り向く。

 そこにあったのは、楓が予想だにしなかった光景だった。

 「ーーっ!?」

 テーブルの上に、ぼんやりとした光を放つ“何か”がある。春姫の視線もそのテーブルの上の何かにジッと注がれていた。

 「なっ…………何、これ?」

 「さあ……」

 楓はテーブルの側にしゃがみ込み、あらためてその光に顔を寄せてじっくり見つめる。

 それは、人の形をしていた。

 しかし大きさは人の十分の一にも満たない。それが柔らかな赤い光を放っている。一見して人形か何かのようだが、こんな物を持っていた記憶は楓にはなかった。

 そんなことを考えていると、続いて決定的な出来事が起こった。

 「んお……?」

 「――へっ!?」

 その人形が、視線に気づいて楓を見上げたのだ。バッチリと視線も合ってしまった。

 「…………」

 「…………」

 「…………あ、ヤッバ」

 そのまま硬直していると、人形は一声上げて部屋の隅の方へと駆けて行った。

 しかし薄ぼんやりと光っているそれを見失うはずもない。その人形は隠れているつもりなのだろうか、本棚の脇で小さく丸まっている。

 いや人形ではない。

 理解し難いが、明らかに生きている。赤く光る小人、としか考えようがない。

 「か…………楓……ちゃん」

 春姫もその小人に目を見張っている。そうして二人分の視線をこれでもかというほどその小人に注ぎ続ける。

 しかしそれ以上はどうすればいいのかわからない。まさか飛びかかって捕まえるわけにはいかないし、かと言って今更見て見ぬふりなどできるはずもない。

 そのまま沈黙が流れる。

 楓も春姫も動けない。

 小人も隅で丸まってから微動だにしない。

 三人(?)を取り巻く空気も、時間すら止まってしまったかのようだ。そのままどれほどの時間が流れたかわからない。

 そこへ――

 「隠れきれてないよ、フラム」

 新たな声が上がった。

 「火の属性のくせに、意外と潔くありませんよね」

 しかも二つ。

 「――!?」

 楓と春姫は同時に振り返る。声の出所は、楓が普段使っている学習机。

 その上に、声の通り新たな二人の小人が並んで立っていた。

 「それにしても、いきなり見られたね」

 「ええ、なるべく気づかれないように貼りつくつもりだったんですけど」

 「フラム、なんであんな所にいたのかな?」

 「どんなに近づいても気づかれないとか、そんな子供じみたことをしていたんでしょう」

 「アホだね、相変わらず」

 「ええバカですね、相変わらず」

 「だああああーっ! なんだよさっきから!」

 机の上の二人から、静かながら辛辣な言葉が矢継ぎ早に放たれる。

 その言葉に我慢の限界を超えたのか、本棚脇の一人が一転して叫び上がった。

 「メルがバレないように近づこうって言うから隠れてたんじゃないか!」

 「それなら最初からそんな場所に立たないでもらえますか?」

 「それに、そんな所で丸まってても隠れきれないよ。まんまマヌケだね」

 「マヌケじゃない! 大体エールだってオツムはそんなに変わんないじゃん!」

 「私はそんな見え見えな隠れ方しない」

 「じゃあ隠れてみなよ! 今すぐ!」

 「無理。そんなこと言い出すのもマヌケ」

 「があああああーっ!」

 フラムと呼ばれた小人が吹っかけた無理難題を、エールと呼ばれた小人は涼しげに受け流す。

 それ以上言い返すことができなかったフラムの髪が、怒髪天を衝くと言わんばかりに逆立った。その様子は、まるで炎が燃え立っているかのようだ。

 すると、それまで黙っていたメルと呼ばれた小人が二人の間に割って入った。

 「二人とも、その辺にしてください」

 それは、完全に蚊帳の外に置かれていた普通の大きさの二人のためだった。

 「そちらのお二人が困っていますよ」

 「はっ……?」

 そうしてフラムとエールの二人は、ようやく双方の視線の間にいた二人――すなわち楓や春姫の存在に気づいたようだった。

 だが、かと言って楓たちはどうすることもできなかった。

 突然室内に現れた三人の小人。そのうち二人が喧々囂々(けんけんごうごう)と言い合いを始めた日には、もはや状況を飲み込むどころではない。

 メルは、そこまで見透かしていたようにその笑顔を楓たちに向けた。

 「今は混乱していらっしゃるようですから、まずは落ち着いて私たちの話を聞いていただけませんか? 全て説明いたしますから」

 静かな、それこそとても落ち着いた声音。その声と笑顔だけで、楓は自分の心が落ち着きを取り戻していくのを感じた。

 と同時に、室内に明かりが灯った。

                       ***

 停電から復旧して明るさを取り戻した部屋で、小人たちの話が始まった。

 その小人の三人は、今は楓と春姫が向い合せに座っているミニテーブルの上にいた。

 「それではまず自己紹介から。私はメル、ウンディーネです」

 「エール……シルフ」

 「ボクはサラマンダーのフラム、よろしくね」

 「はあ……?」

 まずは各からの自己紹介。

 しかしそれを聞いた楓は、怪訝そうに眉をひそめた。理解不能な三人の口から、何やら聞き覚えのある単語を聞いた気がしたのだ。

 「ウンディー……ネ? シル、フ?」

 「その通りです。ご存知ですよね?」

 「そりゃあ、まあ…………いや、でも……」

 「驚かれるのも無理はありません。ですがこれは事実なのです。私たち三人は、あなた方人間がいわゆる“精霊”と呼ぶ存在です」

 「「――えぇっ!?」」

 楓と同時に春姫も驚きの声を上げた。

 聞き間違いではなかった。なおかつ本人からはっきりとそう宣言されてしまった。その上十五センチにも満たない身体で普通の人間ように動き、ハキハキと会話までこなしているのだ。ここに疑いを挟むことは難しい。

 楓は、あらためて三人の姿を観察する。

 確かにウンディーネのメルは身体が半透明の液状をしているし、シルフのエールはその背中に虫のような薄い羽が生えている。サラマンダーのフラムは耳に魚のようなヒレとトカゲの尻尾、髪の毛は燃え盛る炎のようだ。この姿を見るだけでも、それが人知を超えた存在であることをこれでもかと主張している。

 だが――

 「すごーい! 精霊とかって本当にいたんだあっ!」

 「いや精霊って…………まさか、そんな……」

 春姫が瞳を輝かせる一方で、楓は未だにその現実を受け入れきれずにいた。

 否定し難い理由が無数にある反面、これまで積み重ねてきた常識という名の壁が精霊という存在を受け入れることを妨げているのだ。

 「あれ? 信じていない?」

 そんな楓の態度を見て取って、ニヤリと不敵な笑みを浮かべたのはフラムだった。

 「よおーし! それじゃあ証明してみちゃおっかな!」

 「フラム、あまり大げさなことは……」

 「大丈夫だって! 最近は栄養不足気味だから、やろうと思ってもできないよ」

 「やらない方が…………いいと思う」

 「エールは黙ってて!」

 何か思い立った様子にフラムに、残る二人が注意を促す。それを見るにつけ、楓としても言いようのない不安がまとわりついてくるようだった。ちょうど、重い荷物を持った春姫を見るかのような。

 「それじゃあ行くよおー……たあっ!」

 「――わっ!?」

 そんな楓の不安をよそに、フラムが右腕を勢いよく真一文字に振る。

 するとどうだろう、何もない空間に突然火の玉が出現したのだ。

 大きさはテニスボールほど。しかしその炎は、蛍光灯で照らされた室内にあってなお赤々と力強い輝きを放っていた。

 それは明らかに超常的な現象だ。確かにこれは信じざるを得ない。

 が――

 「あれ……?」

 フラムの出した火の玉が不意に膨れ上がる。手近な物にその炎が及ぶほどの勢いだ。

 そう、手近な物。

 「――わあああああっ!?」

 テーブルの上に広げていた楓のノートが、メラメラと燃え出したのだ。

 不安的中だ。

 「ちょっと! 早くそれ消して!」

 「あわわわわ……!」

 フラムがパンッと手を叩くと火の玉は消えたが、ノートに燃え移った火までは消えない。

 楓は慌ててノートをテーブルに叩きつける。結果、どうにかノートの方も鎮火することができた。

 「あ〜あ…………もう」

 ノートの状態を確認した楓は、切なげに天井を仰いだ。

 初期消火には成功したものの、それでも数ページは完全に焼け落ちている。辛うじて無事だった部分も焼け焦げていて判読が難しいものになっている。その量はおよそ数日分、その分の授業内容を生真面目に書き写した時間と労力も灰となって消えたのだ。

 「なんてことしてくれたの!」

 楓は当然、目を吊り上げてフラムに食ってかかった。

 「いやだって、あんなことになるとは……」

 「確かに驚いたわ! ええ驚きましたとも! だからってこんなやり方ないでしょ!?」

 「だ、だからこんなことするつもりじゃなかったんだって! 信じてよ!」

 「そもそも大したことはできないんじゃなかったの!? 栄養不足とかで!」

 「そうだよ! 栄養足りてないから普通あんなには…………あっ」

 途中から楓にも負けない剣幕で言い訳を始めたフラム。

 そのフラムが、何かに気がついたように言葉を途切れさせた。

 そこへさらに春姫とメルが仲裁に入る。

 「まあまあ楓ちゃん、その辺で。いいじゃないノートくらい」

 「ハルは真面目にノート取ってないからそんなこと言えるのよ……!」

 「フラム、だからあれほど……」

 「だから誤解なんだって! そう、栄養なんだよ!」

 「どういうこと?」

 「その娘の近くにいたからだよ!」

 「ああ、なるほど」

 楓が春姫に憤まんをぶつける一方で、メルは何やらフラムの言葉に納得したようだった。

 それに反応したのは、楓ではなく春姫だった。

 「どういうこと?」

 「フラムの力が予想以上に強かったのは、あなた…………そういえばお名前は?」

 「あ、私は宮原春姫。でこっちが楓ちゃん」

 「なんで私は名前だけなのよ。津月楓」

 「春姫さん、楓さん……ですね。話を元に戻しますが、フラムの力が強過ぎた原因は春姫さんが側にいたからだと思います」

 「私が?」

 「はい。それは私たちがここにいる理由でもあるのですけれど」

 「うん……? どういうこと?」

 首を傾げる春姫。楓も頭の中でハテナマークが乱れ飛んでいた。

 そもそも精霊などという存在に今日初めて出くわした楓たちだ。その精霊との関わりなど皆目見当もつかない。

 そうして戸惑っている内に、メルの口から驚くべき発言が放たれた。

 「春姫さんは、私たち精霊の力の源なんです」

 「は……?」

 「春姫さんはそこにいるだけで、側にいる精霊に力を与えてくれる特異体質なんですよ」

 「「……………………えぇーっ!?」」

 それは、メルたちが精霊だと聞かされた時以上の衝撃だった。

 「いや………………いやいやいや……」

 楓はどうにか動揺を堪えつつ、あらためてメルに尋ねる。

 「でもハルは、今日まで精霊のことなんて……」

 「知っていてもいなくても、関係ありません。そういう体質ですから。それほど多くはありませんが、確かにほとんどの人がそれと気づくことはありませんね」

 「それじゃあ、その私を見つけてここに来たってこと?」

 「うん。私が見つけた」

 あっさりと衝撃が行き去った様子の春姫には、どうだとばかりにふんぞり返ったエールが応じた。こちらも態度の割に淡々とした口調だ。

 「空をフラフラ飛んでたら、匂いがしてね」

 「匂い?」

 「うん、美味しそうな匂い」

 「へぇ〜……フンフンフン」

 そう言われた春姫は、自分の腕を鼻先に寄せて匂いを嗅ぐ。

 「いや、普通の人にはわからないよ」

 そこへエールのあまりにも当然のツッコミが入った。

 それはそうだ。それが何かは知らないにしろ、なんだかわからない匂いが春姫からしていれば楓も気づくだろう。

 それでも春姫は、熱心に自分の腕の匂いを嗅いでいる。

 「……で、そのままハルにくっついてたってこと?」

 楓はその会話を引き継ぎ、続けて質問をぶつける。

 「はい」

 「いつから?」

 「朝、エールが登校中のあなた方を見つけて教えてくれて。それからフラムとも一緒になって側にいましたから十時くらいからですね」

 「そんな早くから……それで、さっきの火の玉が大きくなったのは春姫の力ってこと?」

 「その通りです。十時間以上経っていますから」

 「ふーん……」

 一応筋は通っている。それでノートが燃やされた憤まんが消えるわけではないが。

 「そういうことなの! だから私は悪くない!」

 「あんたが言うな!」

 それで燃やした張本人が力強く胸を張るのだからなおのことだ。

 「…………それで、あんたたちはこれからどうするの?」

 しかし腹に据えかねる想いを一旦抑え、楓は尋ねた。

 気づけば、“精霊に力を与える”などという話をあっさりと受け入れている自分がいる。もっとも、精霊という存在とその能力を目の当たりしては無理もないことと思いたい。

 「それなんだけど……」

 それに答えたのは、春姫の相手から抜け出してきたエールだった。

 春姫はまだその“力”の匂いとやらを嗅ぐことに躍起になっている。

 「私たち、このまま春姫に貼りついてようかと思う」

 「――はいぃっ!?」

 「今のご時世、私たち精霊が力を得るのは難しいんだよ。だから力をもらえる相手って貴重なんだ。大丈夫、迷惑はかけないから」

 「迷惑って…………あんたたちに力を与えて、ハルはなんともないの?」

 「よっぽどのことがない限りは。私たち三人ぐらいなら余裕だと思う」

 「よっぽどねえ。でも逆に、さっきみたいなことも起こるかもしれないわよね?」

 「さっきのは力加減を間違えただけなんだって! わかってればちゃんと操れるよ」

 「ふうん……」

 楓は懐疑的な視線を送る。主に、フラムに対して。

 そこへメルが加わる。

 「お願いできませんか? 私たち精霊は、普段はその属性に応じた自然から力を得ています。ですがエールが言うように、めっきり近代化してしまったこの社会ではそれもままならないのです。どうか、春姫さんのお側に」

 「そうなんだよ。最近は常にお腹空き空きでさあ……」

 「……………………ひもじい」

 メルは懇願とともに頭を下げる。

 フラムもメルの尻馬に乗って迫ってくる。

 エールは同情を誘うためか、しかし言葉の通りとは思えない平淡な調子でお腹を抱えていた。

 「とは言ってもねえ……」

 楓は答えに困った。

 人間で言えば食べ物に困っているということで、確かに可哀想ではある。しかしこの精霊たちといることでどんなことが起きるかは未知数だ。その不安は如何ともし難い。

 いやそもそも、これは楓が決めていい問題ではない。

 「……って言ってるけど、どうするハル?」

 そこで楓は春姫に水を向けるが――

 「フンフンフンフンフン……」

 まだやっていた。

 「ハル!」

 「えっ……?」

 「あんた話聞いてた?」

 「ふえ? なんの話?」

 「あんたねえ……!」

 楓の額にビキビキと青筋が浮かぶ。

 この状況でこのマイペースぶり、怒っていいのか呆れていいのか困るところだ。しかし今はそのどちらも飲み込んで、これまでの経緯を話して聞かせた。

 「はあ、なるほどお……」

 「それでどうする?」

 「うん、いいんじゃないかな?」

 「えっ……?」

 「困ってるみたいだし」

 「――はあっ!?」

 全くこともなげに返って来た答えに、楓は今度こそ呆れた。

 状況がわかっているのかいないのか、春姫の様子はあまりも軽い。心なしか、その頭の上にポヤヤ〜ンと花が咲いて見える。

 だが、続く言葉に楓は虚を突かれた。

 「あんたちゃんと考えた!?」

 「ちゃんとっていうか、ん〜…………よくわかんない。わかんないけど、人助けできた方がいいかなって。それにほら、私って普段は人に迷惑かけてばっかりだから、たまには人の役に立たないとね」

 「人じゃなくて精霊なの! この先にどんなことになるかわかんないのよ!?」

 「同じだよ。困った時はお互い様」

 「ハル……」

 これだ。

 その態度に頑なな部分はない。だが柔らかいからこそ折れないのが春姫だ。

 そして春姫が向ける優しさは、誰が相手だろうと変わらない。それが人ではない、精霊であっても。この優しさに、楓自身も幾度となく救われてきた。

 こうなった春姫はなかなか止められない。

 そして、邪魔をしたくない。

 「……………………はあ、どうなったって知らないわよ?」

 「うん! でも大丈夫だよ、多分」

 「だってさ」

 楓は、その視線を再び精霊たちへ。

 「はい…………ありがとうございます、本当に。このご恩は、いつか必ず返させていただきます。絶対に……お約束します」

 メルの表情は、本当に嬉しそうだった。

 そして恭しく腰を折る。このメルの態度を見るにつけ、行く先の不安も少しは薄れるというものだ。

 「よっしゃあっ!」

 「イエ〜イ……」

 その後ろで、エールとフラムが楽しげにハイタッチしていなければ。いや、エールの方はあまり楽しげには見えないが。

 「精霊と一緒に暮らすなんて……なかなかできないよね。楽しみ」

 ともかくこれで、春姫と精霊たちの共同生活が決まった。春姫は無邪気に顔を綻ばせるが、その前途は多難だ。それを少しでも手助けをするのが楓の役割になるだろう。

 (ま、いつもと変わらないか)

 と、これから春姫が送るだろう日常に楓が想いを巡らせたその時だ。

 「あ、でもパパやママはいいって言ってくれるかな?」

 話は思わぬ方向に流れ始めた。

 「なるほど……そういう問題もありますね」

 「大丈夫じゃない? マズいならボクらは隠れてればいいし」

 「基本的に、私たちは普通の人間には見えないしね」

 「でも、何かの拍子に見えることもあるし……」

 「そうなんだ。う〜ん、どうしよう……」

 春姫と精霊たちはそれぞれに頭を抱える。もちろん楓もだ。

 そうして最初に顔を上げたのは――

 「あ、そうだ!」

 春姫だった。

 「ここは?」

 「……………………はい?」

 春姫は下向きにチョイチョイと指を指す。

 楓は、その胸の中で急速に不安が膨れ上がっていくのを感じた。

 春姫が指しているのは足元、床、どちらでもない。この場所そのもの。

 「楓ちゃん一人暮らしだから、誰にもバレないよ?」

 「ちょっ…………待ちなさいよ!」

 もちろん楓は即座に反対を表明した。

 「なんで私がこんな得体の知れないのと一緒に暮らさないといけないの!?」

 「いやほら、これも人助けと思って……」

 「だから精霊だって! そもそも春姫の側にいなくちゃいけないって話でしょ!? 私と一緒じゃ意味ないじゃない!」

 「でも学校は同じクラスだし、今日みたいにちょくちょく泊まりにも来るし、休みの日も大概一緒にいるし、大丈夫なんじゃない? ねえ」

 「うん。日中一緒にいるだけでも十分」

 春姫の問いかけに答えたのはエール。

 「私たちはそれで全然構わない」

 「私が構うって言ってるの!」

 「でも楓ちゃん、エールちゃんたちも困ってるんだよ?」

 「お願いです楓さん、どうか……」

 「ねえねえ、いいでしょ!? ボクたちにここにいさせてよ!」

 「…………お願い」

 「うっ……」

 合計八つの目が楓にチクチクと突き刺さる。

 エールの虚ろな目と、フラムのいかにもつくったような哀れな目はこの際どうでもいい。しかし春姫とメルの真剣な眼差しは正直堪える。

 チクチク、チクチク、チクチクと。

 「わ……」

 それにいつまでも耐えられるほど、楓はドライな性格をしてはいなかった。

 「わかったわよ! ここに置いてあげればいいでしょ!」

 「楓ちゃん……!」

 楓はついに音を上げ、そう宣言してしまった。

 「わあいっ! だから楓ちゃん大好き!」

 「楓さん…………ありがとうございます」

 春姫が嬉しそうに抱きついてくる。

 メルは、先ほどよりも勢い込んで頭を下げる。

 喜んでもらえて何よりだと思う反面、さっそく途轍もない後悔が込み上げてきた。それがなおさら大きくなるので、またしてもハイタッチをしている二人は視界に入れない。

 (ああ…………もう)

 だがもはや、出した言葉を引っ込めることなどできない。

 幼い頃から春姫の面倒を見てきた楓は、間違いなくお人好しだ。これまでそれを意識したことはなかったが、今日それを始めて実感した。痛いほどに。

 メルの姿をその瞳に映し……

 フラムの歓声を聞きながら……

 エールの虚ろな目を思い浮かべ……

 (どうなるのよこれから……)

 これから“自身”が送るだろう日常を嘆かずにはいられなかった。

 唯一、抱きついたまま離れない春姫の喜びようだけが楓にとっての救いだった。

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