第 2 章
沈黙には重さがある。
日によっては、ひと息つく間のように軽い。
けれど、ときには閉ざされた墓のように重い。
あの日の午後、居間にたまった沈黙は、何トンもあるみたいだった。
ほんの数週間前まで、この家には別のリズムがあった。
よく覚えている。
何でもない土曜日。
キッチン側の呼び鈴が何度も鳴っていた。
ジョアンさんが買い物袋を抱えて入ってきた。
でも、代金を取りに来たわけではない。
「カズオ、このチーズ、食べてみてくださいよ。今日ミナスから届いたんで
す」
父は布巾で手を拭きながら笑った。
「ジョアン、君は私を太らせる気か?」
「悲しいより、太ってるほうがいいでしょう」
二人はテーブルについた。
楽譜もなければ、調律の話もない。
ただ二人の男と、一皿のチーズがあるだけだった。
ジョアンさんは、いつも口数が少なかった。
でも父を見る目には、言葉にしない敬意があった。
カズオは、そういう人だった。
ただのピアニストではなかった。
公立学校のピアノを無料で調律していた。
教会では、ラファエル神父が高齢者コーラスの行事をするとき、いつも手
伝っていた。
あの小さな町内の、重力の中心みたいな存在だった。
当時の私は、それが普通だと思っていた。
居間にピアノがあるから、世界はあの部屋を中心に回っているのだと。
重力だって壊れることがあるなんて、知らなかった。
でも、あの火曜日、重力は壊れた。
私は十二歳。
フェルナンドも十二歳だった。
強い日差しがフリッツ・ドベルトの鍵盤に差し込み、舞い上がる埃を光
らせていた。
フェルナンドはフルートを構えていた。
銀色の管は輝いていたのに、音はくすんでいた。
「もう一回」
「ジュン、頼むからさ」
フェルナンドはフルートを下ろした。
「もう十回目だぞ」
「八小節目、走った」
「表現をつけたんだよ!」
「テンポを外しただけ」
思っていたより、きつい声が出た。
でも私にとって音楽は、正確であるべきだった。
完璧でなければ意味がない。
父はいつも、作品への敬意は自分のプライドより先に置けと言ってい
た。
フェルナンドは苛立ったように髪をかき上げた。
「なあ、ジュン。おまえの何が問題かわかる?」
「何?」
「ピアノを数学みたいに扱ってる」
「あなたは遊びみたいに扱ってる」
「遊びじゃない! 生きてるんだよ! この音を少し長く伸ばしたいって感
じたら、俺は伸ばす」
「それじゃ楽譜に嘘をついてる」
彼は私を見た。
いつも笑っている目が、暗かった。
「ほんっと、めんどくさいな、ジュン」
「あなたは雑すぎる」
彼の肺から、長いため息が漏れた。
怒鳴らなかった。
ただ静かにフルートをケースへ戻し始めた。
ジジッ。
面ファスナーの閉じる音が、その午後いちばん大きな音だった。
「帰る」
「逃げるの?」
「違う。精神衛生を守るだけ」
フェルナンドはリュックをつかんだ。
振り返らなかった。
玄関のドアが閉まる。
沈黙が戻ってきた。
でも、今度の沈黙には角があった。
泣かなかった。
私はただ、鍵盤を見つめていた。
白と黒。
正解と間違い。
まるで、こちらを裁いているみたいだった。
どれくらい経っただろう。
十分? 二十分?
ピンポーン。
呼び鈴が鳴った。
フェルナンドではなかった。
ドアを開けると、匂いが玄関いっぱいに入り込んだ。
発酵した生地。
チーズ。
熱。
そこにデボラが立っていた。
彼女は十七歳。
パン職人を目指していた。
家でパンを焼き、自転車に積んで近所を回って売っていた。
日の出より先に働き始める人だけが持つ疲れを、肩に乗せていた。
パン屋のエプロンには小麦粉の跡が点々とついていて、星座みたいに見
えた。
彼女はもう家で“出勤”していた。
父は彼女のパンを断ったことがなくて、いつの間にか家族ぐるみの友達に
なっていた。
デボラはすぐには入ってこなかった。
敷居のところで立ち止まり、私を観察した。
「フェルナンド、ここからすごい勢いで出ていったね」
質問ではなかった。
「用事があったの」
嘘をついた。
「ジュン」
彼女は足でドアを閉めながら中へ入った。
「ここの空気、よどんでる。パンをオーブンに入れっぱなしにしたときみた
い。誰にも見えなくても、中では全部焦げるんだよ」
デボラは居間のテーブルに紙袋を置いた。
「ポン・デ・ケージョ。焼きたて」
「お腹すいてない」
「それでも食べる」
デボラはピアノにもたれた。
彼女はこの楽器を怖がらなかった。
彼女にとってピアノは、木と弦でできた道具でしかない。
祭壇ではなかった。
「また音楽のことでケンカしたんでしょ?」
「フェルナンドが楽譜どおりにやらないの」
「で、ジュンは人生どおりにやらない」
私はむっとして彼女を見た。
「どういう意味?」
「音を間違えないことばっかり考えて、友達の音を聞くの忘れてるってこ
と」
デボラはポン・デ・ケージョをひとつ手に取り、半分に割った。
湯気が上がる。
「パン屋では、生地が膨らまないからって怒鳴ったりしない。オーブンを調
整する。待つ。それだけ」
半分を私に差し出す。
「フェルナンドは楽譜じゃないよ、ジュン。人間。人間は間違える。テンポ
だって変わる」
「でも、音楽は......」
「音楽は、人をつなぐためにある。離すためじゃない」
私はパンを食べた。
塩気があった。
温かかった。
現実だった。
「怒って帰った」
ようやく認めた。
「戻ってくるよ」
デボラはエプロンで手を拭いた。
「でも、ドアは開けておかなきゃ。鍵をかけたら、入ってこられないで
しょ」
彼女は少しして帰った。
週末には、父が注文していたパンをまた持ってくると言って。
私はチーズの匂いと、罪悪感の中にひとり残された。
夜になった。
父は居間の大きな照明をつけずに入ってきた。
脇のランプだけが、ピアノの椅子を照らしていた。
手には二つのティーカップ。
「デボラから、フェルナンドが早く帰ったって聞いたよ」
カズオは私の隣に座った。
ピアノの椅子ではなく、近くの椅子に。
「怒らせた」
「どうして怒ったかは、わかってる?」
私はカモミールティーをひと口飲んだ。
「ただ、完璧にしたかっただけ。フェルナンドはいつも間違えて弾くし、勝
手に変えるし......」
父はため息をついた。
疲れた音だった。
「ジュン......どうして私が、おまえにはこんなに辛抱強いかわかるか?」
「お父さんだから」
「違う。私も、痛い目を見て学んだからだ」
父は自分の手を見た。
大きな手。
長いあいだ鍵盤に触れてきた人の、少し硬くなった手。
「お母さんは......すごい人だった。絶対音感があった。私よりずっと耳がよ
かった」
私は固まった。
母の話題は、めったに出なかった。
棚に置かれた写真。
遠い笑顔。
それくらいの存在だった。
「でも、よくケンカした」
父は続けた。
「私は短気で、頑固で、自分が何でも知っていると思っていた。お母さんは
音楽を生きたかった。私は時間を支配したかった」
父は私を見た。
暗がりの中で、その目が光った。
「今日のおまえを見たよ。フェルナンドが間違えたときの顔。私が間違えた
とき、お母さんがしていたのと同じ顔だった」
「私、お母さんに似てる?」
「頑固なところはな。あと、私の不安症も受け継いだ」
父は私の頭に手を置いた。
「完璧は孤独だよ、ジュン。音楽のせいで、一人になるな」
立ち上がり、ランプを消す。
「もう寝なさい。音をひとつ間違えても、明日はちゃんと日が昇る」
私は暗い居間に残った。
ピアノは部屋の隅で、黒い影になっていた。
父の言葉を考えた。
母の頑固さ。
デボラのパンの温かさ。
そして、フェルナンドが出ていったときのドアの音。
直したかった。
でも、プライドという弦は、ひどく調律しにくい。
スマートフォンを見る。
画面の光が暗闇の中で私の顔を照らした。
宛先:フェルナンド
「ごめん」
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「また明日」
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画面を消した。
明日はまた別の日。
別の小節。
それでも、その夜の沈黙は重いままだった。
私は、その重さと一緒に眠る方法を覚えなければならなかった。




