第 1 章
この物語は、ひとつの問いから生まれました。
――沈黙の前には、何があったのだろう?
『沈黙の最後の一音』は、より大きな物語の「感情の核」となるために
書かれた作品です。
映画が喪失と、その先へ進もうとする人の姿を描くのだとすれば、この本が
描くのは音楽の始まりです。
ピアノに布がかけられる前、そこに誰がいて、誰が弾いていたのか。
ジュン、カズオ、フェルナンド――そして彼らを取り巻く人々は、スク
リーンの中で生き始めるより先に、このページの上で人生を歩んでいまし
た。
このライトノベルを閉じるとき、ひとつの物語の終わりだけではなく、
次の物語の始まりを感じてもらえたなら嬉しいです。
耳を傾けてくれて、ありがとう。
「痛みの中には、音を立てないものもある」
それは、父が最後に口にすることができた言葉のひとつだった。
その言葉に、音楽はなかった。
酸素チューブの向こうで、息をすることさえ苦しい人の、かすれた声だけが
あった。
私は病室の外にいた。
私たちの間には、一枚のガラスがあった。
病院は静かだった。
聞こえるのは、モニターが一定のリズムで鳴らす電子音だけ。
冷たく、無機質な音。
残された時間を数えるように鳴っていた。
私にとって、痛みはいつだって音を立てるものだった。
痛みとは、演奏の途中で鳴らしてしまった間違った一音だった。
机の角に小指をぶつけたときの、鈍い衝撃だった。
そして、あの三月の夜、父を連れていった救急車のサイレンだった。
でも、父は正しかった。
叫ばない痛みがある。
助けを求めることさえしない痛みがある。
ただ胸の奥に居座って、決して解決しない不協和音のように残り続ける痛み
が。
そして五年が過ぎた今、私は――ジュンは、ようやくあの言葉の意味を
理解している。
でも、話すなら最初からにしよう。
病院からではなく。
曇ったガラス越しの記憶からでもなく。
マスクと隔離の向こうで聞いた、最後の言葉からでもない。
始まりは、ピアノだった。
私が初めてピアノに触れたのは、八歳のときだった。
魔法みたいな瞬間でもなかった。
きれいでもなかった。
そしてもちろん、まともな音ですらなかった。
父――カズオは、居間に置かれた古いピアノの埃を払っていた。
濃い色の木で作られたフリッツ・ドベルト。
父はそれを「家宝」と呼んでいたけれど、当時の私には、ただやたらと大き
い家具にしか見えなかった。
私が鍵盤をおもちゃのボタンみたいに叩いているのを見て、父は手を止
めた。
埃を拭いていた布が、空中で止まる。
「ピアノはそんなふうに扱うものじゃないよ、ジュン。まして、このピアノ
は......」
父の声は低く、穏やかだった。
私は疑問だらけなのに反論されるのは嫌い、という子ども特有のむっと
した顔をした。
「扱ってないよ。弾いてるの」
父は笑った。
口元だけが少し上がって、目が細い線になる、あの笑い方だった。
「じゃあ、本当に弾く方法を教えてあげようか?」
「でも、もう弾いてるよ。ほら!」
もちろん、あれは音楽なんかじゃなかった。
ただの騒音だった。
私は何ひとつ弾けていなかったのに、自分が正しいと信じて疑わなかっ
た。
カズオはため息をつき、私の隣に腰を下ろした。
世界中の時間を持っている人みたいにゆっくりと、私の姿勢を直してから鍵
盤を指差した。
「この世のものには全部、“なぜ”があるんだ。その“なぜ”は、物語を知って
初めてわかる」
父は右手を上げた。
「この指はジョアンくん。ジョアンくんは歩くのが好きでした」
人差し指を白鍵に置く。
「それで、ジョアンくんはここから、あそこまで歩いていきました」
父はゆっくりと音階を弾いた。
ピアノの広い範囲を使って、一音ずつ。
父にとっては十秒の出来事だった。
私には五分にも感じられた。
私は、鍵盤のひとつひとつを友達の家や、お店みたいに想像していた。
どの場所にも意味があって、どの沈黙にも呼吸があった。
それから毎日のように、私はあの椅子に座った。
音が少しずつ形になっていくのが面白かった。
やがて“ジョアンくん”には仲間が増えた。
“マリアちゃん”、“フラヴィア”、“アントニオ”。
一年も経たないうちに、私は鍵盤を叩くのではなく、和音を弾くように
なっていた。
簡単な曲だった。
でも、私の音楽だった。
九歳になると、父は家で習うだけでは足りないと言った。
「音楽は部屋の中だけで生きるものじゃない。人と人の間で生きるんだ、
ジュン」
そうして私は、本格的に音楽教室へ通うようになった。
最初は小さなキーボードから始め、少しずつ本物の鍵盤の重さに慣れていっ
た。
そして半年後、音楽理論の授業で、私は最初の“戦略的失敗”をする。
ノートを忘れたのだ。
その朝、私は家を出るのが遅くなった。
リル――うちのダックスフンドと遊びすぎたせいだった。
父が数日前にプレゼントしてくれたばかりで、嬉しくて前の晩ほとんど眠れ
なかった。
そのツケが回ってきた。
黒板の前に立ち、楽譜を書き写す紙すらなく途方に暮れていると、横か
ら紙を破る音がした。
ビリッ。
隣の席の男の子が、一枚の紙を差し出した。
「ほら。使えよ」
顔を上げた。
ぼさぼさの髪。
少しだらしなく開いた制服の襟。
指の間でくるくる回るペン。
「あ......ありがとう」
私は小さな声で言った。
「この授業、難しくない?」
彼は椅子を後ろに傾け、二本の脚だけで器用にバランスを取った。
「俺、こうやって書いてるより弾くほうが好きなんだよな。実技でも十分
やってるし」
「私はけっこう好きだけど」
私はもらった紙を机の端にきれいに揃えた。
「音楽が、どうやってできてるのか知るのが好き。音の裏側っていうか」
「おまえ、けっこうオタクだな」
「そう言われると......そうかも」
「俺、フェルナンド。君は?」
「ジュン」
フェルナンドは昔から、「勉強しよう」より「やってみよう」の人だっ
た。
間違えて、笑って、吹き損ねたフルートの音すら冗談に変えてしまう。
私は楽譜の中に完璧を探していた。
彼は空気の中に感情を探していた。
あの頃の私は、まだ知らなかった。
あの一枚の破かれた紙が、すべての始まりになることも。
いつか私たちが一緒に覚える音楽が、私の人生で最も大きな喪失の“テー
マ曲”になることも。




