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第1話 ショートスリーパー宣言

 俺、鱈志野《たらしの》淳弥《じゅんや》には誇れるものが何もないが、一つだけ誰にも負けない特技がある。


 それは『秒速入眠』だ。


 祖父がDIYで手掛けた庭のプレハブ小屋。ここが俺の城だ。母屋から隔離されたこの空間は、断熱材と遮音シートのおかげで驚くほど静かで快適だ。

 ふかふかのベッドに背中を預け、目を閉じる。ワン、ツー、スリー……意識が暗闇に溶けるまで、本当に数秒しかかからない。

 酷暑日が続く寝苦しい夜でも、この完璧な睡眠環境さえあれば、俺の体力は完全にリセットされる。


「……んぁ、よく寝た」


 スマホのアラームが鳴る一分前。俺はスッキリとした頭で目を開けた。

 今日も八時間、質の高い睡眠をとった。睡眠こそが至高。睡眠こそが正義。

 眠るために生き、生きるために眠る。それが俺のモットーだ。


 伸びをしてからベッドを抜け出し、サンダルを突っ掛けて五メートル先の母屋へ向かう。

 朝食の席では、妹の莉央《りお》が相変わらず「お兄ちゃん、寝癖ダサい」と毒を吐いてきたが、俺は適当に笑って流した。波風を立てず、空気を読んでやり過ごすのが一番楽だからだ。


 たっぷりと睡眠を貪った俺は、健康そのものの体で私立夢見学園高校への坂道を登っていった。


 +++


 九月十五日、月曜日の一時間目。

 黒板に書かれた『公正取引委員会』の文字をぼんやりとノートに書き写しながら、俺はあくびを噛み殺した。


 クラスでの俺の立ち位置は、極めて『透明』に近い。

 目立たず、主張せず、誰かの邪魔をしない。要するに『都合のいい空気』だ。


「なあ淳弥、今日の放課後、美化委員のゴミ捨て頼んでいいか?俺ら部活のミーティング長引きそうでさ」


 前の席に座る男子が、振り返りざまに小声で言ってきた。

 美化委員の仕事は当番制だ。そいつの当番を押し付けられているわけだが、俺は顔色一つ変えずに頷いた。


「ああ、いいよ。ついでにやっておく」

「サンキュ!お前マジでいい奴。助かるわー」


 調子のいい言葉を残して、そいつは前を向いた。

 これで今週に入って三回目の雑用代行。誰もやりたがらない仕事を押し付けられても、俺は文句を言わない。

『お人好し』と言えば聞こえはいいが、単に断るのが面倒で、波風を立てたくないだけの小心者としての自覚がある。


 中学の頃からずっとこんな感じだ。グループに入れてもらう代わりに、いじられ役や便利屋のポジションを受け入れる。何を言っても軽く笑って流される奴。俺の言葉に重みなんてものはない。


 ノートの端をペンでグリグリと黒く塗りつぶす。

(俺だって、好きでこんなポジションにいるわけじゃない……)


 心の奥底にヘドロのように溜まった鬱屈。

 たまにはこいつらを見返してやりたい。俺を舐めきっている連中を黙らせて、見下ろす側に回ってみたい。

 そんなちっぽけな反骨心が、俺の中でくすぶり続けていた。


 +++


 チャイムが鳴り、一時間目の授業が終わった。

 休み時間になると、俺が所属する(というか端っこに置かせてもらっている)男子グループが賑やかになり始めた。


 中心にいるのは、元サッカー部の渡《わたり》大輔《だいすけ》だ。


「いやー、マジで昨日ヤバかったわ!新作のFPSゲームやってたらさ、気づいたら朝の四時でやんの」

「うわ、お前アホだろ。今日絶対小テスト寝るじゃん」

「仕方ねーじゃん、海外のフレンドとランクマ回してたんだから。結局三時間しか寝てねーよ。マジで今、目の前がチカチカしてるわー」


 渡が大声で笑いながら、目の下に指を当てる。

 また始まった。男子特有のくだらない『寝てない自慢』だ。

 渡は高校入学直後に足を痛めてサッカー部を辞めて以来、こういうどうでもいい自慢でマウントを取りたがるようになった。


「俺なんて課題終わらなくて二時間睡眠だぜ?」

「お前らはまだマシだよ。俺なんか親に隠れてスマホいじってたら、ほぼ徹夜状態だし」


 周りの連中も負けじと睡眠不足アピールに便乗する。まるで寝ていないことがステータスであるかのような謎の張り合い。

 健康的に八時間睡眠をとっている俺からすれば、ただの自傷行為にしか思えない。


 適当に相槌を打ちながら聞き流していると、不意に渡がニヤニヤしながら俺に話を振ってきた。


「ま、淳弥にはわかんねー話だよな!お前は毎日ぐっすりオネンネして、健康そのものって顔してんもんな!」


 周囲の男子たちがドッと笑う。


「たしかに!淳弥って授業中一回も寝たことないしな」

「規則正しい生活のお手本じゃん!ひゃはは!小学生かよ!」


 いつもなら、ここで「まあな、俺は健康第一だから」とヘラヘラ笑って茶化されて終わる場面だ。

 空気を読んで、いじられ役に徹する。それが俺の生きる術だったはずだ。


 だが、その時の俺はどうかしていた。

 一時間目に感じていた鬱屈が、渡の見下すような笑い声を聞いた瞬間、限界を突破したのだ。

(なんで俺が、こいつらにバカにされなきゃならないんだ?)


 いつもなら絶対に言わない言葉が、喉元までせり上がってきた。

 一瞬でいい。あいつらの度肝を抜いて、驚愕の表情を見下ろしてやりたい。ちっぽけなプライドが暴走し始めた。


 俺はゆっくりと立ち上がり、机に手をついて、渡たちを真っ直ぐに見据えた。


「……三時間?甘いな」


 俺の低く冷たい声に、騒いでいた渡たちの動きがピタリと止まった。


「は?淳弥、今なんて……」

「俺から言わせれば、二時間も三時間も同じだよ。たっぷりと寝てるじゃないか」

「いやいや、お前何言って……」


 俺は前髪を払い、クラスの空気を完全に支配したことを確信しながら、張り合いの頂点を取りにいく大風呂敷を広げた。


「俺なんて、毎日三十分しか寝てないからね」


 教室の時が止まった。

 渡も、他の男子たちも、口を半開きにしたまま俺を見つめている。


「……は?さ、三十分!?」

「冗談だろ……?人間、三十分睡眠で生きていけるわけねえじゃん!」


 動揺する渡たちを見下ろし、俺はかつてないほどの優越感に浸っていた。

 いつもの地味な自分を一瞬で脱ぎ捨て、場を支配する快感。


「冗談じゃないさ。俺はショートスリーパーなんだ。だから夜はいっつも、有意義に時間を使ってる」


 全くのデタラメだ。俺は毎日八時間、プレハブ小屋のふかふかベッドで爆睡している。

 しかし、俺の妙な迫力に押されたのか、彼らの表情は疑いから驚愕へ、そして奇妙な尊敬へと変わり始めていた。


「マジかよ……淳弥、お前そんなヤバい体質だったのか……!」

「三十分って……バケモンじゃん……」


 ざわめきは男子グループにとどまらず、周りの席の女子たちにも伝播していく。


「ねえ聞いた?鱈志野くん、三十分しか寝てないんだって」

「絶対に嘘だって」

「でも本当ならすごいよ!」


 噂は爆発的なスピードで教室中に広がり始めていくのが分かった。

(やった……!ついにこいつらを黙らせてやったぞ!)


 俺は心の中でガッツポーズを決めた。

 これでようやく俺への態度を改めてくれるだろう。そんな余裕が、心を楽にした。

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