067 血意
バビロンの下層、歓楽街の裏路地。
ネオンの毒々しい光が、降りしきる強酸性の雨に乱反射し、水たまりに極彩色の模様を描いている。
その路地裏の深い闇の中で、ヒバリは膝を抱えたまま、時間の感覚すら失ってうずくまっていた。
ハパロクラエナが、死んだ。
自分を生かすために、自らの命をチップにして、笑顔で爆薬を握り潰した。
頭蓋骨の奥で、あの圧縮魔力爆弾の絶対的な閃光と、鼓膜を破る轟音が、永遠のリフレインのように鳴り響き続けている。
(生きろ……って。どうやって……)
自分のために、自分の復讐に付き合ってくれた者たちは、すべていなくなった。
自分一人が、またこの冷たい雨の中で、心臓を動かし続けている。その事実が、ヒバリの魂を千切り、すり潰すような絶望を与えていた。
カツン、と。
微かな硬質な音が、雨音に混じって響いた。
「……?」
ヒバリが虚ろな目を上げると、彼の泥まみれのブーツを、一台の古びた自動掃除ロボットがつついているところだった。
円盤型の、バビロンの街中どこにでもいる清掃用ドローン。しかし、その側面の光学センサーは、バルカン社の正規の赤色ではなく、見覚えのある『紫色』に発光していた。
ロボットはヒバリの足をつついた後、少しだけ後退し、彼の方を向いてクルクルと回転した。
まるで、「ついてこい」と手招きをしているかのような、明らかな意志を持った挙動。
(これは……)
ヒバリは壁に手をつき、軋む身体を無理やりに立ち上がらせた。
掃除ロボットは、ヒバリが立ち上がったのを確認すると、雨の降る裏路地をゆっくりと進み始めた。バルカン社のサーチドローンが飛び交う大通りを避け、ゴミの山や廃棄パイプの影を縫うように、極めて複雑なルートを辿っていく。
どれほど歩いたか。
歓楽街の喧騒から完全に切り離された、最下層の廃棄区画。そこにある、かつては巨大なナイトクラブであったであろう、半ば崩壊した廃墟の奥深くに、そのロボットはヒバリを導いた。
雨風を凌ぐことしかできない、埃まみれの廃墟の中央。
紫色のノイズが走る複数のホログラムモニターに囲まれて、一人の少女が膝を抱えて座り込んでいた。
「……ミサゴ……」
ヒバリの掠れた声に、ゴスロリ衣装の少女がビクッと肩を震わせた。
振り返った彼女の顔を見て、ヒバリは息を呑んだ。
電脳空間でオリンディアスと正面から殺し合った代償は、想像を絶するものだった。彼女の両目からは血の涙が乾いた痕が痛々しく残り、鼻腔や耳からも出血した痕跡がある。極度の神経負荷により、彼女の顔は死人のように青ざめ、虚ろだった。
だが、ヒバリの姿を視界に捉えた瞬間。
ミサゴの瞳に、不器用で、泥臭くて、そして悲痛な生気が宿った。
「ヒバ、リ……ッ!」
ミサゴはモニターを放り出し、もつれる足で駆け寄ると、泥と血にまみれたヒバリの胸に力いっぱい抱き着いた。
「ヒバリ……! よかった……アンタ、生きて……っ」
ミサゴの小さな身体が、激しく震えている。
彼女は天才ハッカーとしての矜持も、飄々とした態度の虚勢もすべてかなぐり捨て、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「コルリが……コルリの生体反応が、途絶えたの……っ。ハパロも……地下施設の崩壊と一緒に、通信が、全部……っ! 私、必死に探したけど……どこにも……っ!!」
ヒバリの胸に顔を埋め、ミサゴが泣き喚く。
彼女は、地下施設へ向かった二人が帰らぬ人となったことを、そのネットワークを通じてすでに悟っていた。それでも、誰か一人でも生きていてほしいと、バビロン中の清掃ドローンをハッキングし、血眼になって捜索を続けていたのだ。
「私だけ……私だけ、置いていかれた……っ。ハパロも、コルリも……馬鹿野郎……ッ!!」
ヒバリは、自分の胸で慟哭する少女の背中に、腕を回すことができなかった。
ただ、両腕をだらりと下げたまま、暗い虚空を見つめている。
「……ごめん」
ヒバリの口から、感情の一切抜け落ちた、極めて冷たく、そして重い一言がこぼれ落ちた。
ヒバリのその異様な声色に、ミサゴは泣き声を詰まらせ、顔を上げた。
見上げたヒバリの双眸には、もはや怒りも悲しみもなく、ただ底なしの深い虚無だけが広がっていた。
「……ごめん、ミサゴ。……この物語は、すべて、僕が招いたものだったんだ」
「え……? 何を、言ってるの……?」
ヒバリはミサゴからゆっくりと身を引き離し、廃墟の壁に背を預けた。
彼の脳裏に、抽出ポッドのガラス越しに見た、あの女の顔が鮮明に蘇る。
「地下施設で拘束された時……僕は、見たんだ。バルカン社の社長……ミレポラを」
ヒバリの声が、カタカタと微かに震え始める。
「記憶が、繋がったんだ。僕の脳内に刻まれている『ジェネシス・コード』……それを僕に植え付けた人間。そして、僕という存在を、世界を壊すためのアーキテクトとして『設計』した張本人。……それが、ミレポラだった」
ミサゴの目が、驚愕に見開かれる。
ヒバリがダイダロスから追われていたのは、単に彼が偶然、神のコードを持っていたからではない。彼自身が、かつてミレポラの計画の中枢に組み込まれ、その記憶を封印されていたのだ。
「僕が、ソラリスにいたのも……ファウンテンに行き着いたのも、偶然じゃない。すべては、あの女の掌の上で、ジェネシス・コードを熟成させるための過程に過ぎなかった」
ヒバリは自らの両手を見つめる。
ナノ・ルーンを操り、魔導回路を構築し、奇跡を体現してきたこの手。
「アウラ・コピアの人たちも、コルリも、ハパロも……。彼らが死んだのは、僕のせいだ。僕という『爆弾』が存在していたから、あの女の計画に巻き込まれて、無惨に殺された。……僕が、彼らを死地に引きずり込んだんだ」
「違う……ッ!」
ミサゴが、ヒバリの言葉を遮るように叫んだ。
「違うわよ、ヒバリ! ハパロも、コルリも……アンタに巻き込まれたんじゃない! あいつらは、自分の意思で、アンタを助けるために戦ったのよ! 私だってそうよ! アンタの過去がどうであれ、私たちがアンタのために命を懸けたのは、私たちがそうしたかったから……ッ!」
ミサゴは必死に訴えかける。彼女の言葉は、ハパロが最期に残した言葉と全く同じものだった。
だが、その真実の言葉すら、今のヒバリの深く凍りついた心を溶かすことはできなかった。
「……そうだね。君たちは、優しすぎた。……だから、死んだんだ」
ヒバリはゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、かつて辺境のギルドで仲間たちに見せていた温もりや、ハパロたちと冗談を言い合っていた時の人間らしさは、完全に失われていた。
そこにあるのは、自らの存在そのものを呪い、世界を呪い、すべてを破壊することだけを渇望する、純度百パーセントの『復讐鬼』の双眸であった。
「ヒバ、リ……?」
ミサゴは、目の前の青年から放たれる圧倒的な冷気と拒絶感に、思わず一歩後ずさった。
泣き顔のまま、震える声で尋ねる。
「……これから、どうするの……? 私たちは、どうやって……あいつらの仇を……」
私たちは。
その言葉に、ヒバリは首を横に振った。
◆◆◆
「『僕』は、ミレポラを殺す。ダイダロスを、一つ残らず解体する。……でも、そこに君はいない」
「……えっ?」
ヒバリは、左手首のインプラント――かつてナノ・ルーンを制御し、通信を司っていたデバイスを起動した。
ジェネシス・コードの抽出によって魔力は枯渇し、パラディウムを展開することはできない。だが、僅かに残された電力を用いて、ある一つの暗号通信のみを送信した。
「トドロキ」
ヒバリが虚空に向かって呟く。
数秒の沈黙の後。
廃墟の天井の隙間から、雨を切り裂いて、巨大なサイボーグ飛竜が音もなく舞い降りた。光学迷彩を解除し、蒼いプラズマの光を放つトドロキが、主の前に静かに首を垂れる。
『――ヒバリ様。ご無事で何よりです』
人工声帯の紳士的な声が響く。
トドロキは、ミサゴがバビロン郊外から遠隔ハッキングを行っていた際に護衛として残され、その後、混乱に乗じて密かに潜入し、ヒバリの通信を待っていたのだ。
「ちょっと、ヒバリ……!? 何言ってんのよ! 私も行くわよ! 仇を討つんでしょ!? 私のハッキングがなきゃ、バルカン社の中枢なんて――」
「もう、いいんだ。ミサゴ」
ヒバリは、ミサゴの肩に静かに手を置いた。
その手は、氷のように冷たかった。
「今度こそ、誰も巻き込まない。……僕のために、これ以上誰かが血を流すのは、もうたくさんだ」
「ふざけないでよ!!」
ミサゴが、ヒバリの胸を両手で激しく叩いた。
「私だけ逃げろって言うの!? 私だって、みんなの仇を討ちたい! アンタを一人で死地に送るなんて、絶対に嫌だ!! 私を置いていかないで……ッ!!」
血の涙を流しながら懇願するミサゴ。
ヒバリは、その痛ましい顔をじっと見つめ、そして、ひどく穏やかで、絶望的な笑みを浮かべた。
「……君は、生きてくれ。ハパロたちが守った命だ。僕みたいな化け物のために、無駄にしないでほしい」
ヒバリはミサゴを優しく、しかし確かな力で突き放した。
そして、トドロキへと冷徹な命令を下す。
「トドロキ。ミサゴを乗せて、バビロンから離脱しろ。……二度と、僕の前に姿を見せるな。ダイダロスが追いつけない、遠い場所へ彼女を逃がせ」
『……承知いたしました。我が主よ』
トドロキが、ミサゴの襟首を器用に咥え上げ、自身の背中へと乗せる。
「離して! やめろ、トドロキ!! ヒバリィッ!!」
ミサゴの絶叫が廃墟に響き渡る。
だが、トドロキは主の命令に絶対の忠誠を誓っている。巨翼を広げ、ジェットスラスターを点火すると、ミサゴの叫び声を掻き消すような轟音と共に、雨の降るバビロンの夜空へと飛び立っていった。
「…………」
空へ遠ざかっていく紫色のノイズと、ミサゴの悲鳴。
ヒバリは、それが完全に雲の彼方へ消え去るまで、じっと見上げていた。
ついに、本当に、すべてを失った。
仲間も、相棒も、そして守るべき存在も。
自らの意思で、すべての繋がりを断ち切った。
冷たい雨が、ヒバリの頬を打ち据える。
彼はゆっくりと踵を返し、バビロンの中心――ミレポラが待つ、バルカン社の本社ビルがそびえ立つ摩天楼の方角へと視線を向けた。
「……待っていろ、ミレポラ」
もう、誰も守らない。
もう、誰にも背中を預けない。
ただ一つ、漆黒の復讐を成し遂げるためだけの『悪鬼』として。
天才アーキテクトは、一切の感情を捨て去った冷徹な足取りで、狂気と絶望が渦巻くバビロンの闇の中へと、たった独りで歩みを進めていった。




