065 光の意思
オリンディアスの冷徹な眼窩の奥で、ソースコードの明滅がピタリと止まった。
ハパロクラエナがカランサルティアの切っ先を純白のセラミックボディに向け、その首を刎ねようと踏み込んだ、まさにその刹那であった。
背後の分厚いチタン合金の隔壁が、ひしゃげた悲鳴を上げた。
それは爆発による破壊ではない。純粋な『物理的な握力』によって、数十センチの厚みを持つ防性隔壁が、まるで薄いアルミホイルのように内側へと捻り潰され、引き剥がされた音であった。
「……ッ!」
ハパロは本能的な死の悪寒に打たれ、オリンディアスへの攻撃をキャンセルして即座に横へと跳躍した。
直後、引き裂かれた隔壁の奥から、一つの巨大な影が絶対領域の中へと足を踏み入れた。
ドフレイニアだ。
その巨躯には、ミサゴが差し向けたであろう何十機という警備ロボットの残骸が、装甲の隙間にこびりつくようにへばりついていた。油と冷却液、そして焼け焦げた配線の臭いを撒き散らしながら歩みを進めるその姿は、文字通り地獄の底から這い上がってきた鋼鉄の魔神そのものであった。
ミサゴの命がけの遅滞戦術。
無尽蔵のロボットの壁は、確かに彼を足止めした。だが、それはあくまで『時間を稼いだ』に過ぎない。この規格外の化け物は、立ちはだかるすべての鉄屑を素手で粉砕し、ただ己の歩幅で、確実にここまで到達して見せたのだ。
ドフレイニアの琥珀色の義眼が、ゆっくりとハパロを捉える。
彼は一切の言葉を発しない。ただ、胸部のクリアパーツの奥で脈打つ『ゴリアテ』の魔力炉が、ドクン、ドクンと、空間の気圧を狂わせるほどの暴力的で重々しい駆動音を響かせるだけだ。
『……目標の合流を確認。これより、私はジェネシス・コードの抽出プロセスの最終監視に移行します。ダイダロス、イレギュラーの処理を』
オリンディアスの無機質な声が響く。
その言葉すら、ドフレイニアの耳に届いているのかは定かではない。ただ、彼にとって眼前に立つハパロクラエナは、踏み潰すべき路傍の石以上の意味を持っていなかった。
ドフレイニアが、右足を踏み出した。
それだけで、バルカン社の最深部の強固な床に亀裂が走り、重力そのものが歪んだかのような錯覚に陥る。
「……来い、化け物ッ!!」
ハパロは自身の恐怖を怒号で塗り潰し、並列処理能力を限界まで引き上げて迎撃の態勢を取った。
先ほどの『深き者』を消滅させた極光雫剣。あの極限に凝縮された一滴の光ならば、この超重装甲をも貫けるはずだ。
しかし。
ハパロが魔力を凝縮しようとした瞬間、彼の脳裏を凄まじい激痛が走った。
極光雫剣は、魔力回路の限界を意図的に突破する諸刃の剣。一度の行使でハパロの神経系は焼き切れ寸前となっており、二度目の発動には数秒の『タメ』が必要だった。
だが、ドフレイニアの暴力は、その数秒すら許さない。
巨躯が、景色がブレるほどの異常な速度で肉薄する。
質量と速度の絶対的な暴力。丸太のような右腕が、ハパロの胴体を両断せんばかりの勢いで横薙ぎに振るわれた。
「『展開』ッ!!」
ハパロは咄嗟にカランサルティアの刀身に光の魔力を纏わせ、防御の盾を形成する。
激突。
光の盾が、ガラスが割れるようにあっけなく粉砕された。
「が、はァッ……!!?」
防御の上から叩き込まれた圧倒的な質量。ハパロの身体は弾き飛ばされ、抽出ポッドの基部を保護する分厚い装甲板に背中から激突した。
肺の中の空気がすべて吐き出され、ムルキベルの戦いで砕け、ようやく繋がりかけていた肋骨が再び無惨な音を立てて折れる。
痛みを感じる暇すらない。
壁から崩れ落ちるハパロの眼前に、すでにドフレイニアの左拳が迫っていた。
ハパロは血を吐きながらも、並列処理能力による極限の予測で首を捻り、致命の一撃を紙一重で回避する。
ドフレイニアの拳がハパロの耳元の装甲板を深々と抉り取り、爆発のような轟音と火花が散った。
「おおおぉぉぉッ!!」
ハパロは回避の反動を利用し、ドフレイニアの懐へと潜り込んだ。
白銀の刃にありったけの光の魔力を込め、超重装甲の隙間――首筋の機械部品が露出している部位を正確に狙い澄まして突きを放つ。
並列処理が弾き出した、唯一の急所。
刃が、ドフレイニアの皮膚を捉える。光の魔力が機械部品を焼き切り、確かに浅からぬ傷を負わせた。
だが。
ドフレイニアは、首に突き刺さった刃など存在しないかのように、微動だにしなかった。
「……な、に……?」
ハパロの翡翠色の瞳が、驚愕に見開かれる。
ゴリアテの魔力炉と筋繊維が、常識を外れた速度で脈動していた。ハパロが与えた傷口から赤黒い蒸気が噴き出し、瞬く間に細胞と金属が結合して傷を塞いでいく。
ダメージの無効化ではない。ダメージを受けることすら前提とした、理不尽なまでの超回復と耐久力。
ドフレイニアの左手が、無造作にハパロの右腕――カランサルティアを握る手首を鷲掴みにした。
「あ、が……ッ!」
万力などという生易しいものではない。骨と肉が同時にミンチにされるような絶対的な圧力。
そして、ドフレイニアはハパロを片手で持ち上げると、そのまま床に向かって脳天から叩きつけた。
ゴアッ!!
視界が白濁し、ハパロの意識が完全に飛んだ。
全身の血管が破裂し、目、鼻、口から大量の血が噴き出す。カランサルティアが手からこぼれ落ち、甲高い音を立てて床を滑っていった。
圧倒的。あまりにも無慈悲な力の差。
ドフレイニアは、床に倒れ伏しピクピクと痙攣するハパロの背中に、巨大な足を乗せた。そのまま体重をかけ、背骨をへし折ろうとする。
(……動け。動け、俺の体……ッ!)
ハパロは薄れゆく意識の中で、自身の神経に強制的に魔力を流し込み、痛覚を完全に遮断した。
ここで俺が死ねば、ヒバリは完全にミレポラの所有物となる。
ミサゴの命がけのハッキングも、コルリの誇り高き死も、すべてが無駄になる。
難病の姉が、再び絶望の淵に立たされる。
(俺は……誰の、道具でもないッ!!)
ハパロは残された左手で床を殴りつけ、奇跡的な執念で身体を捻り、ドフレイニアの足から逃れた。
立ち上がる力はもうない。這いつくばり、血まみれの手で床を掻きむしりながら、抽出ポッドの方へと視線を向ける。
『――抽出率、九十九パーセントに到達。間もなく、ジェネシス・コードの完全なコピーが完了します』
オリンディアスの無機質な宣告が、死の鐘のように響いた。
培養液の中で、ヒバリの身体が激しく痙攣している。脳内への直接的なアクセスが、彼の生体限界を完全に超えようとしていた。
勝てない。
ハパロは、戦士としての冷徹な計算で、ドフレイニアという化け物を「打倒する」ことは絶対に不可能であると悟った。
極光雫剣を放つ隙は与えられない。そもそも、放てたとしても、あの超回復の前に致命傷を与えられる保証はない。
(ならば……)
ハパロの瞳に、狂気にも似た決意の炎が宿る。
彼の目的は、ドフレイニアを殺すことではない。
――ヒバリを救い出すこと、だ。
ハパロは自身の体内に残された、文字通り「命を燃やすため」の最後の魔力を、一滴残らず掻き集め始めた。
ドフレイニアが、ゆっくりとハパロを見下ろしている。
次の一撃で、確実にこの虫けらの息の根を止める。そのための予備動作として、右の拳を深く引いた。
その瞬間。
ハパロは、自らの命を前借りするような速度で跳躍した。
だが、彼が向かったのはドフレイニアではない。部屋の中央にそびえ立つ、巨大な抽出ポッド――そして、それに電力を供給している無数の魔導光ケーブルの『結節点』であった。
「――!?」
ドフレイニアの剛拳が空を切り、ハパロの身体がポッドの基部に到達する。
『……イレギュラーな行動を検知。対象の魔力回路が、臨界点を突破。自爆プロセス……?』
オリンディアスが初めて、僅かな狼狽を見せた。
ハパロクラエナは、自らの心臓を強制的に暴走させていた。自身の肉体を触媒とし、蓄積されたすべての光の魔力を、一気に、そして無差別に爆発させる。
「砕け散れェェェェェェッ!!!」
ハパロの絶叫と共に。
彼を中心に、太陽が直接現れたかのような、絶対的で破壊的な光の奔流が全方位へと解き放たれた。
敵を貫くための洗練された技ではない。ただただ、己の命の残火をすべて光熱へと変換した、純粋な魔力暴走。
閃光と轟音。
光の爆発は、ドフレイニアの巨躯を飲み込み、彼を後方へと数十メートル吹き飛ばした。超重装甲がひしゃげ、ゴリアテの魔力炉が一時的な機能不全を起こして明滅を停止する。
そして。
光の奔流は、バルカン社の地下施設そのものを内側から食い破った。
天井の強固なチタン合金が融解し、無数の瓦礫となって降り注ぐ。壁面を這う太い魔導光ケーブルが次々とショートし、誘爆を引き起こす。
何よりも。
パキリ、と。
絶対的な強度を誇っていた抽出ポッドのガラス面に、光の熱量と衝撃によって一本の亀裂が走った。
亀裂は瞬く間にクモの巣状に広がり――次の瞬間、凄まじい音を立ててポッド全体が粉々に砕け散った。
「ガ、ハァッ……!!」
数千リットルもの培養液が、砕けたガラス片と共に施設内に雪崩のように溢れ出す。
そして、その濁流の中に、全身に繋がれていた神経ケーブルを引きちぎられたヒバリの身体が、無造作に床へと放り出された。
『――エラー。エラー。被検体の生体接続が強制切断されました。抽出プロセス、中断。ジェネシス・コードの取得率、九十九パーセントにて停止――』
オリンディアスの警告音声が、崩壊する施設の中で虚しく反響する。
ハパロの死に物狂いの、文字通り命を削った最後の一撃が、奇跡的にヒバリの完全なコピーを阻止し、彼を拘束から解き放ったのだ。
「ゲホッ……! ガハッ……ァ……ッ!」
冷たい床の上で、ヒバリは肺に詰まった培養液を激しく吐き出した。
全身の筋肉が痙攣し、脳内を無数の針で刺されるような激痛が走っている。ジェネシス・コードの抽出という、神の領域の情報を無理やり読み取られていた反動。
視界がぼやけ、平衡感覚がない。
(ここは……僕は……)
ヒバリが朦朧とする意識の中で顔を上げる。
天井は崩落し、火の粉が舞い散っている。施設は半壊し、至る所で配線がショートして青白い火花を散らしている。
その崩壊の風景の真ん中に。
一人の男が、立っていた。
全身の皮膚が焼け焦げ、左腕はだらりと垂れ下がり、右足はあらぬ方向へ曲がっている。それでも、彼はカランサルティアを杖代わりに突き立て、自力で立ち上がろうとしていた。
「ハ、パ……ロ……?」
ヒバリの掠れた声に、男はゆっくりと振り返った。
ハパロクラエナ。
彼の顔は血と煤にまみれ、かつてテネブレ部隊の隊長として見せていた端正な面影はどこにもない。だが、その翡翠色の瞳だけは、狂おしいほどの優しさと、使命を全うした安堵の光に満ちていた。
「……よぉ。……お目覚めか、眠り姫……」
ハパロは血を吐きながら、無理やりに口角を上げて笑ってみせた。
「なんで……君が、ここに……。逃げたはずじゃ……」
「馬鹿……言え。……仲間を、見捨てて……逃げられるほど……俺は、器用にできてないんだよ……」
ヒバリの目から、大粒の涙が溢れ出した。
自分のために。すべてを失った自分の復讐に巻き込まれて、なぜ彼がこんな無惨な姿にならなければならないのか。
だが、感動の再会に浸る時間は、彼らには残されていなかった。
ズン、と。
崩落した瓦礫の山を吹き飛ばし、凄まじい殺意が再び顕現した。
ドフレイニアである。
ハパロの光の爆発を至近距離で浴び、装甲の半分が融解し、左顔の機械部品が剥き出しになってはいるものの、その歩みは止まっていない。胸部のゴリアテの魔力炉が、再び暴力的な脈動を開始し、周囲の空気を赤黒く染め上げている。
ドフレイニアの琥珀色の義眼が、確実にハパロを、そしてその後ろで倒れ伏すヒバリを捉えた。
「ハパロ! 逃げろ!!」
ヒバリが絶叫する。自身の身体はまだ麻痺して動かない。ナノ・ルーンを展開する魔力すら、抽出によって空っぽになっていた。
だが、ハパロは逃げなかった。
彼はカランサルティアを静かに手放し、両足でしっかりと床を踏みしめ、ドフレイニアとヒバリの間に立ち塞がった。
「……ハパロ……? 何を……」
ヒバリが呆然と呟く中、ハパロは右手を自身のコートの懐へと滑り込ませた。
そして、そこから『ある物』を取り出し、ヒバリに見せつけるように高く掲げた。
それは、ソフトボールほどの大きさの、無骨な金属の『球体』であった。
表面には複雑な魔導回路が刻まれ、中央のコアが不気味な赤い光を明滅させている。
それを見た瞬間、ヒバリの目が極限まで見開かれた。
彼は知っている。それが何かを。
オウギの島にある地下工房。ヒバリがかつて対モンスター用に作り上げていた未完成のアーキテクチャ。
莫大な魔力を限界まで圧縮し、起動と同時に周囲の空間ごとすべてを対消滅させる、戦術兵器クラスの『圧縮魔力爆弾』。
「な……なんで、それを……ッ!」
ヒバリが血を吐くような声で叫ぶ。
ハパロは、あの島を離れる直前。ヒバリが残した試作品の武器庫の中から、密かにこの爆弾を懐に忍ばせていたのだ。
もしも、自分たちの力が及ばず、ヒバリを助け出すための手段がすべて絶たれた時のための、最期の『切り札』として。
「……俺は、ずっと姉上のために生きてきた。自分の意思なんて、何もない……ただの操り人形だった」
ドフレイニアの足音が、死のカウントダウンのように間近に迫る。
ハパロは、爆弾の安全装置に指をかけ、ヒバリに向かって、これまでで一番穏やかな顔で微笑んだ。
「でも、お前たちに出会って……俺は、自分の足で立つ意味を知ったんだ。……ミサゴも、コルリも、マガンも……みんな、自分の意思で、お前のために命を張った」
「やめろ……! やめてくれ、ハパロ!!」
ヒバリは這ってでもハパロの元へ行こうとするが、四肢は痙攣するだけで前に進まない。
「だから……これは、俺の意思だ」
ドフレイニアの巨大な影が、ハパロの身体を完全に覆い隠す。
振り上げられた丸太のような剛腕が、ハパロを粉砕しようと振り下ろされた、その刹那。
ハパロは、金属の球体を強く握り込み、そのピンを完全に引き抜いた。
「ヒバリ! 生きろ!!」
その言葉が、地下施設に響き渡った。
次の瞬間。
音すらも置き去りにする、純白の閃光と、鼓膜を破壊する絶大な爆発が、バルカン社地下の最深部を完全に呑み込んだ。
「――――ッ!!!」
ヒバリの叫び声すら、爆音にかき消される。
戦術兵器クラスの圧縮魔力が解放され、空間そのものを物理的に消滅させていく。
ドフレイニアの巨躯が爆発の中心に捉えられ、その超重装甲が飴細工のように融解していくのが、ヒバリの網膜にスローモーションのように焼き付いた。
そして、その爆発の真ん中で、ハパロクラエナの姿が、光に包まれて完全に消失した。
すさまじい爆風と衝撃波が、ヒバリの身体を木の葉のように吹き飛ばす。
床を転がり、壁に激突し、視界が完全に赤と黒に染まる。
天井のチタン合金が次々と崩落し、地下施設全体が完全に崩壊を始めていた。炎が渦を巻き、酸素を食い尽くし、すべてを瓦礫の底へと沈めていく。
「ハパロォォォォォォォォォォォォォ!!」
紅蓮の炎の中で、ヒバリは喉が裂けるほどの絶叫を上げた。
血の涙が頬を伝い、炎の熱で瞬時に蒸発する。
ルキオラ、ディナステス、ファウンテンの仲間たち。そして今、自分のために地獄の底まで来てくれた誇り高き戦士までもが、自分の目の前で命を散らした。
絶望。喪失。
このまま炎に巻かれ、すべてを終わりにすれば、どれほど楽だろうか。
だが。
『ヒバリ! 生きろ!!』
爆音の奥で、確かに聞こえたハパロの最期の声が、ヒバリの鼓膜に、脳髄に、魂に、呪いのように深く刻み込まれていた。
彼らは命を賭けて、ヒバリの未来を繋いだ。
ここで死ねば、彼らの命を、覚悟を、そして誇りを、すべて泥に塗って足蹴にすることになる。
「あ、あァ……ッ!」
ヒバリは、痙攣する足に無理やり力を込め、ふらつく身体を立ち上がらせた。
炎の向こう側。ハパロが消滅した爆心地からは、もはやドフレイニアの気配も、オリンディアスのスペアボディの気配もない。
あるのはただ、すべてを飲み込む破壊の炎と、崩落し続ける瓦礫の雨だけだった。
「……ハァッ!……ハァッ……!!」
ヒバリは血を吐きながら、ハパロがいた場所を一度だけ深く見つめ、そして、背を向けた。
彼の黒髪が炎に煽られ、その双眸には、もはや一滴の涙も残されてはいなかった。
ただ、世界のすべてを焼き尽くし、ダイダロスという巨悪を根絶やしにするための、漆黒の復讐の炎だけが、彼の瞳の奥で狂気的に燃え上がっていた。
崩落するバルカン社地下秘密施設。
幾多の仲間の命を代償に解放された復讐のアーキテクトは、ハパロの残した爆発の炎の奥、地上へと続く唯一の退路の中へと、その身を消していった。




