064 光の特異点
グラウクスという巨大な秩序の壁を打ち砕き、ハパロクラエナはついに、バルカン社地下深層の最奥――ジェネシス・コード抽出の中枢を担う『絶対領域』を隔てる、分厚い生体防壁の前に立った。
呼吸を整え、血に濡れた白銀の刃を片手に、隔壁のロックを物理的に破壊する。
開かれた隔壁の先。そこは、これまでの無機質な研究施設とは全く異質の空間だった。
壁面には無数の巨大なパイプと太い魔導光ケーブルが這い回り、そのすべてが、部屋の中央に鎮座する巨大な円筒形の『抽出ポッド』へと接続されている。
その培養液に満たされたポッドの中空に、無数の神経接続ケーブルを全身に突き立てられ、力なく宙に浮いている痩身の青年。
「ヒバリ……ッ!」
ハパロの喉から、絞り出すような声が漏れた。
生気を感じさせない青白い肌。その脳髄から直接、世界を覆す神のアーキテクチャ『ジェネシス・コード』の抽出が、今まさに最終段階を迎えようとしているのだ。
「――心拍数の異常な上昇、発汗、瞳孔の散大。極めて典型的な、人間の感情的反応です」
抽出ポッドの傍らから、感情の欠片もない平坦な声が響いた。
純白の無機質なセラミックボディ。本体の意識をクラウド上に置き、無数の端末を乗り換える、オリンディアスのスペアボディであった。
ムルキベルでの戦闘、そして先ほどのミサゴとの電脳戦を経てなお、その存在は傷一つ負うことなく、冷徹な観察者としてそこに在り続けている。
「ハパロクラエナ。あなたがここへ到達する確率は、私の演算では極めて低いものでした。……ですが、結果には何の影響も及ぼしません」
オリンディアスが、一切の動作を伴わずに『視線』だけをハパロへ向ける。
「抽出プロセスは、あと三百秒で完了します。それまでの間、あなたには『物理的な処理』を施す必要があります」
その言葉を合図にしたかのように。
部屋の奥の暗闇から、ズルリ、と『それ』が歩み出てきた。
ハパロの全身の産毛が総毛立ち、戦士としての本能が最大級の警鐘を鳴らす。
その全身は光を乱反射する漆黒の粘液と、分厚い鱗にびっしりと覆われていた。
そして人間としての器官が削れ落ちたような平坦な顔面に、深海魚を思わせる巨大なエラと裂けた口。
かつて、雪山にて邂逅した――。
ダイダロスが極秘裏に捕獲し、この最深部の番犬として配置していたSランクモンスター――『深き者』。
「排除対象をロック。……処理を許可します」
オリンディアスの冷たい命令が下った瞬間。
深き者は、その醜悪な口を限界まで裂き、音もなくハパロへと肉薄した。
ハパロは並列処理能力を即座に引き上げ、カランサルティアによる神速の突きを放った。
しかし、白銀の刃が深き者の漆黒の身体に届く直前。
「なッ――!」
ハパロは本能的な死の予感に従い、攻撃を強制的にキャンセルして後方へ跳躍した。
直前まで彼が立っていたチタン合金の床が、音もなく『消滅』し、滑らかな半球状のクレーターを形成していたのだ。
深き者の周囲に展開された、目に見えない漆黒の波動。
Sランクモンスター特有の、あらゆる物質の構造を崩壊させ、無に帰す禁忌の力――『闇の魔法』。
火、水、氷、風、雷、土。自然界を構成する六つの基礎魔質による魔法のすべてを呑み込み、その結界にほんの少しでも触れれば、細胞一つ残らず宇宙から消し去られる絶対的な死の領域である。
「……私の演算通り。基礎魔質を寄せ付けないSランクの特異点の前に、物理的な近接戦闘は無意味です」
安全圏から、オリンディアスが淡々と事実を述べる。
深き者が一歩踏み出すたびに、バルカン社の強固な床や機材が豆腐のようにえぐり取られ、空間そのものが削り取られていく。
「ハァッ……!」
ハパロは距離を取りながら、カランサルティアから高出力の光の斬撃を次々と放つ。
光の魔法。それは、すべてを無に帰す闇の魔法を打ち消すことができる、この世界で唯一の対抗手段。
ハパロの放った光刃が、深き者の闇の結界と衝突し、凄まじい魔力の相殺現象を起こして火花を散らす。
だが、闇の出力が異常すぎた。
深き者の内包する絶対的な飢えは、生半可な光の魔力では相殺しきれず、ハパロの光刃は結界を数ミリ押し込むだけで霧散してしまう。
ジリ、ジリと、ハパロは後退を余儀なくされる。防戦一方の彼の視界の端で、抽出ポッドの液面が不気味な泡を立て、ヒバリの生体反応が限界に近づいていることを告げる警告灯が明滅し始めた。
時間が、ない。
焦りがハパロの剣筋をコンマ数ミリ狂わせる。
その僅かな綻びを、深き者は見逃さなかった。漆黒の粘液を纏った剛腕が、ハパロの放った光の壁を強引に引き裂き、彼の胸部めがけて深海魚の裂けた口が迫る。
闇の結界が、ハパロの皮膚を掠める。
それだけで、肩口の防具と肉の一部が音もなく消滅し、激痛が脳髄を焦がした。
死の淵。逃げ場のない絶望。
だが、その極限の暗闇の中で、ハパロの脳裏に静かに浮かび上がったのは、恐怖ではなかった。
――すまない、姉上。俺は……。
――いいのよ、ハパロ。あなたはもう、誰の道具でもない。あなた自身の光を、信じなさい。
オウギの島で、最愛の姉・ファレノが、血に塗れた自身を優しく抱きしめてくれたあの時の温もり。
そして――
――ハパロ……アンタの背後は、私が完全に塞いだわ。……あとは、絶対にヒバリを連れて帰ってきなさいッ!!
自分の命をチップにして道を切り開いたミサゴの絶叫。
その命を燃やし尽くしたコルリの誇り高き横顔。
(……そうだ。俺は、もう迷わない)
ハパロクラエナの瞳の奥で、燻っていた翡翠色の光が、かつてない純度で静かに、そして爆発的に収束を始めた。
迫り来る深き者の巨大な顎と、すべてを無に帰す闇の結界。
ハパロは、カランサルティアを握る右手から、意図的に力を抜いた。
これまで彼は、自身の持つ強大な光の魔力を、ただひたすらに「発散」し、相手を「貫く」ための暴力として行使してきた。
しかし、それではこのSランクの深い闇を相殺することはできない。
闇を切り裂くために必要なのは、発散ではなく『極限の凝縮』。
彼の脳内で稼働する並列処理能力が、これまでの戦術予測や状況分析といったすべての外部タスクを完全に遮断した。
すべての演算領域を、ただ一点――己の魔力回路の奥底にある『光の純度を極限まで高めること』のみに全集中させる。
カランサルティアの白銀の刀身から、眩い光が「消えた」。
「――?」
オリンディアスの視覚センサーが、微かなエラーを検知する。
ハパロの魔力反応が消失したのではない。空間全体に発散されていた光の魔力が、刀身の切っ先、たった数ミリの『一点』に、天文学的な密度で圧縮・吸着されたのだ。
それは、空間そのものの概念すらも塗り替えてしまうほどの、異常な高密度。
迫り来る闇の魔術に対し、ハパロはただ静かに、その切っ先を突き出した。
「一滴の光で、深淵を穿つ」
ハパロの唇から、静謐な祈りのような言葉が紡がれる。
「『極光雫剣』」
刹那。
圧縮され、極限まで高められた「光の雫」が、闇の水面に落ちた波紋のように、静かに、そして絶対的な速度で空間へ解き放たれた。
音は、なかった。
爆発も、衝撃波も存在しない。
ただ、ハパロの切っ先を中心として、薄皮一枚ほどの薄さを持つ『絶対的な光の平面』が、放射状に、そして全方位へと静かに広がっていった。
光の平面が、深き者の纏う闇の結界に触れた瞬間。
すべてを無に帰すはずのSランクの魔術が、まるで朝日に当てられた薄氷のように、分子レベルで音もなく『中和』し、崩壊していく。
そして、純粋な光の波動は止まることなく、深き者の漆黒の身体を静かに通過した。
切断ではない。浄化と還元。
ハパロを捕食しようとしていた深海魚の口も、鱗に覆われた強靭な肉体も、そしてその内に秘められた底知れぬ飢えのすべてが、悲鳴を上げる間すら与えられず、ただ眩い光の粒子となって空間に霧散していく。
ヒバリの抽出ポッドや、施設の精密機器には一切の傷をつけず、ただ『深き者』という闇の脅威のみを空間から完全に切り取って消去する、神業とも言える極限の魔力制御。
ほんの数秒後。
バルカン社地下の最深部は、圧倒的な恐怖の残骸すら残さず、再び元の静寂と無機質な空間へと戻っていた。
ハパロは静かに息を吐き、熱を帯びたカランサルティアを静かに下ろす。彼の全身からは、己の限界を突破した者だけが纏う、澄み切った陽炎のような光の粒子が立ち上っていた。
「……」
オリンディアスのスペアボディは、一切の微動だにせず、ただその光景を記録(録画)し続けていた。
『――対象の出力、理論上の限界値を四千パーセント超過。物理法則の因果律に矛盾が発生。……エラー。魔力の変成プロセス、解析不能』
その無機質な顔の奥、セラミックの眼窩の中で蠢くソースコードの文字列が、かつてない速度で異常な明滅を繰り返している。
AIであるオリンディアスにとって、ハパロクラエナが今見せた現象は、完璧に組み上げられた論理回路を真っ向から否定するバグそのものであった。
圧倒的な闇の魔法を、精神の在り方一つで凝縮した光によって完全に打ち消し、Sランクモンスターを瞬時に消滅させるという事実。
「……ハパロクラエナ。あなたの生体データは、ソラリスのテネブレ部隊在籍時から完全にプロファイリングされていました。しかし、今の事象は、これまでのどのような統計モデルにも当てはまらない」
オリンディアスは、脅威を前にしているにも関わらず、その平坦な声に初めて『純粋な興味』――あるいは、AIとしての未知に対する探求心のノイズを混じらせた。
「人間の『感情』という不確定要素が、魔導回路の限界をこれほどまでに突破する。……極めて、非合理的です。ですが……だからこそ、非常に興味深い」
オリンディアスは一歩、ハパロに向かって歩み出る。
「あなたは今、私にとって、ヒバリの『ジェネシス・コード』に匹敵するほどの観察対象に昇格しました。……その光の特異点がどこまで論理を破壊できるのか。私自身の手で、解体し、検証する必要があります」
「……御託はいい。ヒバリのポッドを止めろ、ガラクタ」
ハパロの翡翠色の瞳が、極限まで研ぎ澄まされた戦士の冷酷さをもって、オリンディアスを射抜く。




