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用済みだと追放された天才を怒らせてはいけない。彼は世界を壊す『技術』を持っているのだから/復讐のアーキテクト  作者: 赤腹井守
第六章 ブラッド・オブ・ザ・アイアンフォートレス

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059 ヘルプライン <●> <●>

 雨がトタン屋根を打ち据える。

 冷たい雨音だけが響いていた。

 工業都市ムルキベルの郊外。放棄されて久しい、カビと鉄錆の匂いが立ち込める廃屋の暗闇の中で、ハパロとミサゴは息を殺して身を潜めていた。


 空間を支配しているのは、底知れぬ喪失感と、完全なる敗北の重い空気であった。

 ハパロは床に座り込み、血と泥に塗れた手で己の砕けた肋骨を力無く押さえている。彼の腰にあったはずの剣はすでに無く、戦士としての牙は無残にへし折られていた。

 その対面で膝を抱えるミサゴもまた、絶望に瞳を濁らせ、何も映していない虚空をただ見つめ続けている。


 絶対的な頭脳であり、彼らの復讐の核であったヒバリを目前で奪われた。

 ダイダロスの圧倒的な戦力差を前に、為す術もなく叩き潰された。この廃屋でただ震える二人に、次の行動を起こすための気力など一欠片も残されてはいなかった。


 そんな死者のような沈黙が続く中。

 廃屋の外――雨音の向こう側から、ほんの僅かな、しかし確実に『何者かが泥を踏む音』が響いた。


「……ッ」


 ハパロの翡翠色の瞳に、戦士としての反射的な警戒の光が走る。

 ミサゴもビクリと肩を震わせ、血の気の引いた顔でハパロを見た。オリンディアスの監視網が、早くもこの郊外まで及んできたのか。あるいは、パンドラ社の暗殺部隊の追撃か。

 ハパロは激痛に耐えながら音もなく立ち上がり、丸腰のまま、入り口の朽ちたドアへと鋭い視線を向けた。ミサゴは自身の口を両手で塞ぎ、呼吸音すらも完全に殺す。


 極限の緊張。心臓の鼓動が耳障りなほどにうるさい。

 気配はドアのすぐ外で止まり、そして――フッと、完全に消失した。


 去ったのか。そうハパロが僅かに思考を緩めかけた、その刹那である。


「……随分と、派手にやられたようだな」


 ドアの外からではない。

 ミサゴの『真後ろの暗闇』から、極めて重く、岩を擦り合わせたような低い男の声が響いた。


「ひッ……!?」


 ミサゴが短い悲鳴を上げて前方に転がり出る。

 ハパロは驚愕に目を見開いた。入り口から誰かが入ってきた形跡など一切なかった。それにも関わらず、いつの間に侵入し、ミサゴの背後に立つまで気配を完全に消し去っていたのか。


 暗闇の中から、一人の大男がゆっくりと足音を立てて姿を現した。


 身の丈は二メートル近く。歴戦の闘争を物語るような、鋼を編み込んだかのような異常なまでに分厚い筋骨隆々の肉体。

 そして何より目を引くのは、その顔立ちであった。幾多の獣を素手で引き裂いてきたかのような、凶悪でいかつい面構え。左目には古く深い傷跡が走り、残された右目は、感情の一切を排した鋭い猛禽類のような光を放っていた。

 魔力は全く感じられない。だが、その男がそこに立っているというだけで、ハパロの生存本能が「絶対に逆らってはいけない」と警鐘を鳴らすほどの、圧倒的なプレッシャーが空間を支配した。


「……貴様、何者だ」


 ハパロが丸腰のまま、威嚇するように低い声を出す。

 しかし、その男のいかつい顔を見据えた瞬間、ハパロの脳裏に一つの記憶が稲妻のようにフラッシュバックした。

 それは、王都を追放された直後、死の病に侵された最愛の姉・ファレノをダイダロスの魔の手から逃がすため、ヒバリが手配してくれた「隠れ家」での出来事。

 姉を連れ去るようにして保護した、得体の知れない大男。ヒバリが、その実力を全幅の信頼を込めて『最強のハンター』と呼んでいた、あの男その人であった。


「……あんた、まさか……ファレノを預かってくれている……」


 ハパロの驚愕の呟きに、いかつい顔の男は表情を全く変えることなく、短く顎を引いた。


「私の名はオウギ。……あの小僧から、『一回きりのヘルプライン』を要請されてな」


「ヒバリが……?」


「そうだ。万が一、自分たちが完全な再起不能に陥った場合、残された者たちを回収してほしいと、前もって保険をかけられていた。……どうやらその懸念が、最悪の形で現実になったようだが」


 オウギの鋭い隻眼が、丸腰のハパロと、怯えるミサゴを静かに見据える。

 ヒバリは、自身が復讐の業火に焼かれて死地へと赴く一方で、もしも自分がしくじった時のために、仲間たちだけは確実に生き延びられるよう、この男に命綱を託していたのだ。


「ヒバリの奴……初めから、自分が捕まることまで計算に……」


 ハパロが唇を噛み締め、俯く。

 オウギは廃屋の外の暗闇へと視線を移し、短く、しかし絶対的な命令を下した。


「傷の舐め合いは後にしろ。ここはすでに奴らの庭だ。嗅ぎつけられるのも時間の問題だろう」


「……俺たちを、どうする気だ」


 ハパロの問いに対し、オウギは背を向けたまま、無造作に言い放った。


「とりあえず、ついてこい。……私の住む『島』へ案内する」


 それが、絶望に沈む彼らに差し伸べられた、蜘蛛の糸よりも細く、しかし決して切れることのない確かな逃走路であった。

 ハパロとミサゴは互いの顔を見やり、深く息を吐き出すと、謎の狩人の大きな背中を追って、ムルキベルの雨の夜へと足を踏み出していった。


 ◆◆◆


 漆黒の雨雲を切り裂き、蒼いプラズマの軌跡が夜空を駆け抜けていた。

 サイボーグ飛竜・トドロキは、ムルキベルの防空圏を完全に離脱した後、ヒバリが万が一に備えて機体に組み込んでいた『緊急退避用アーキテクト』の自動航行システムに従い、ただ真っ直ぐに海を越えて飛翔し続けていた。


 その背で、コルリは薄れゆくマガンの意識を必死に繋ぎ止めようと、自身の魔力で傷口を塞ぎ続けていた。だが、エメラルドブルーの凶刃が抉った内臓の損傷はあまりにも深く、すでに彼女の応急処置の限界をとうに超えている。


「マガン……お願い、目を開けて……死なないで……っ!」


 コルリの悲痛な叫び声は、吹き荒れる暴風にかき消されていく。

 やがて、夜が明けようとする仄暗い水平線の彼方に、地図には一切記載されていない小さな陸地の影が浮かび上がった。

 波荒れ狂う暗礁に守られた、陸から完全に断絶された絶海の孤島。

 トドロキはその島の中央に切り拓かれた広大な着陸帯へと、静かに降下し、重々しい足取りで大地を踏みしめた。


 トドロキの背から滑り降りたコルリの目に最初に飛び込んできたのは、無骨なコンクリート造りの建造物と、海風に白衣を靡かせて立つ一人の女の姿であった。

 黄金の糸を紡いだような美しい金髪を後ろで無造作に束ね、口元には不敵な笑みを浮かべている。女は血まみれで倒れ込むコルリとマガンを見下ろすと、極めて軽い調子で口を開いた。


「……随分と派手にやられたもんだね。ヒバリからの事前予約は受けてるよ。で、患者はどいつだい?」


「あなたは……!?」


「私はハクトウ。『天才ドクター』さ。……さあ、急ぐよ。そいつ、死にかけじゃないか」


 ハクトウは間延びした口調とは裏腹に、一切の無駄のない洗練された動作で医療用の浮遊ストレッチャーを起動させた。コルリは力なく頷き、すがるような思いでマガンの命をこの得体の知れない天才ドクターへと託した。


 ◆◆◆


 ハクトウの診療所。

 無機質な廊下に備え付けられた長椅子で、コルリは全身の泥と血を拭うことも忘れ、ただ手術室のランプを見つめて座り込んでいた。

 己の無力さへの悔恨と、マガンを失うかもしれないという恐怖が、彼女の精神を限界まで削り取っていく。


「……お疲れのようですね」


 不意に、静かな声が鼓膜を揺らした。

 コルリが顔を上げると、そこには温かいお茶の入ったマグカップを差し出す、十歳前後の幼い少女が立っていた。

 切り揃えられた黒髪に、歳の不相応なほどに静謐で、達観したような深い瞳を持つ少女。


「……ありがとう。あなたは?」


「スズメと申します。ハクトウ先生の助手のようなものです」


 コルリはマグカップを受け取り、その温もりに少しだけ強張った肩の力を抜いた。

 そして、警戒と疑問の入り混じった視線をスズメへと向ける。


「ねえ、スズメちゃん。ここは一体何なの? どうして、ダイダロスから追われている私たちを助けてくれるの……? あなたたちは、何者なの」


 矢継ぎ早の質問に対し、スズメは表情を変えることなく、ただ静かに首を横に振った。


「多くは語れません。……私たちはただ、出来ることしかできないのです」


 あまりにも意味深で、要領を得ない回答。

 しかし、スズメはコルリの泥だらけの手を自身の小さな両手で包み込み、酷く優しい声で告げた。


「でも、安心してください。……私たちは、あなたの味方だから」


 その言葉には、一切の嘘や打算を感じさせない、純粋な慈愛の響きがあった。コルリは、張り詰めていた糸がふっつりと切れたように、少女の手を握り返したまま静かに涙を零した。


 ◆◆◆


 翌日の朝。

 長時間に及ぶ大手術を終えたハクトウが、手術室の扉を開けて姿を現した。

 白衣には痛ましい血痕が飛び散っているが、その金色の瞳には医者としての確かな自信が宿っている。


「先生……! マガンの容態は……」


 飛び起きたコルリに対し、ハクトウは首の汗を拭いながら短く答えた。


「ギリギリだったが、一命は取り留めたよ。破壊された内臓の修復と魔力回路の縫合はすべて終わらせた。……ただ、極度の失血と精神的負荷で、意識がいつ覚めるかは彼の生命力次第だね」


 その言葉を聞き、コルリはその場にへたり込みそうになるほどの安堵の息を吐き出した。

 呼吸を整え、コルリは改めてハクトウを真っ直ぐに見据えた。


「助けてくれて、本当にありがとうございます。……でも、教えてください。あなたたちは何故、世界を敵に回しているヒバリさんや私たちに、ここまでしてくれるんですか」


 コルリの真剣な追及。

 しかしハクトウは、ひらりと身をかわすように肩をすくめ、とぼけたような笑みを浮かべた。


「天才ドクターが、目の前の死にかけの患者を治すのに、一々大層な理由がいるのかい? 私はただ、自分の腕を振るいたいだけさ」


 核心に触れさせない、完璧なはぐらかし。

 コルリがさらに食い下がろうとした、その時である。


 診療所の外――島の着陸帯の方角から、空気を震わせる巨大な飛竜の駆動音が鳴り響いた。


「……おや。どうやら、次のお客さんが到着したみたいだね」


 ハクトウが白衣のポケットに手を突っ込んだまま、扉の外へと視線を向ける。

 コルリが弾かれたように外へと飛び出すと、そこには、再び島へと舞い戻ってきたトドロキの巨体が降り立つところであった。

 凄まじい風圧が収まり、トドロキの背から三つの影が地上へと降り立つ。


 先陣を切って歩み出てきたのは、いかつい顔に隻眼を持つ、圧倒的な威圧感を放つ大男、オウギ。

 その後ろから、泥と血に塗れたハパロクラエナと、アタッシュケースを抱えてふらつくミサゴが続く。ムルキベルの郊外でオウギに拾われた彼らは、トドロキの合流座標へと誘導され、この島へと辿り着いたのだ。


「コルリ……生きていたか……!」


 肋骨を押さえながら歩くハパロが、コルリの姿を認めて声を振り絞る。

 ムルキベルの死闘で散り散りになり、すべてを失った敗残の反逆者たち。

 彼らは今、絶海の孤島という『最果ての聖域』にて、満身創痍の姿で再びの合流を果たしたのである。

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