058 敗北
瓦礫によって分断された闘技場の右半面。
そこでは、ゼニスの猟犬とパンドラ社の最高位暗殺者による、極限の次元の死闘が繰り広げられていた。
カルキアの動きは、完全に物理法則を無視していた。
紫がかった銀髪を揺らし、壁面や天井の僅かな凹凸を蹴り渡りながら、視界から消失するほどの速度で多角的な斬撃を放ってくる。左腕の義手から展開された高周波ブレードが空気を焼き切り、コルリの命を執拗に、かつサディスティックに削り取りにきていた。
「アハハハッ! どうしたのよ雷娘! さっきの威勢はどうしたの、もっと面白く逃げ回りなさいよ!」
カルキアの嘲笑が、闘技場の四方八方から反響する。
しかし、コルリは『雷纏』による限界駆動で身体能力を極限まで引き上げ、大太刀『祢祢』から紫電の斬撃を放ってその凶刃を的確に弾き落としていた。
雷光がカルキアの退路を格子状に塞ぐ。暗殺者の機動力が雷の網によって制限されたそのコンマ数秒の隙を、ゼニスの特任監察官は見逃さなかった。
「ええ。所詮は暗殺者。正面から光の当たる舞台に引きずり出せば、恐るるに足りません」
マガンが銃型アーキテクチャの銃口を床へと突き立てる。
カルキアの着地地点に、局地的な重力場が展開された。大地の魔力が彼女の足を泥沼のように縛り付ける。
「チッ……またこの小賢しい重力魔法ッ! 鬱陶しいのよ!」
動きが鈍ったカルキアに対し、マガンは一切の魔力を使わず、純粋な体術(CQC)の踏み込みでその懐へと潜り込んだ。
カルキアが高周波ブレードを反転させてマガンの首を狙うが、マガンは極めて冷徹な軌道でその左腕を絡め取り、関節の可動域を完全にロックした。
「……捕まえましたよ、死神」
マガンの氷のような瞳と、カルキアの憎悪に満ちた瞳が至近距離で交錯する。
「離しなさいよこの変態がッ!」
「お断りします」
次の瞬間、マガンは自身の銃口をカルキアの義手の根元へと押し当て、魔力封殺の重圧弾を零距離で炸裂させた。
金属が凄惨に拉げ、装甲が内部から爆発する。カルキアの最大の武器であった左腕の義手が、肩の付け根から完全に破壊され、黒いオイルを噴き出して床に崩れ落ちた。
「アァァァァッ!? 私の、私の腕がァッ!!」
片腕を失ったカルキアが、顔を夜叉のように歪めて絶叫する。
「よくも……よくもやってくれたわねッ! ぶっ殺してやる、ミ挽肉にしてやるわよォッ!!」
カルキアが狂ったように飛びかかろうとする。
しかし、マガンの氷のような瞳は微塵も揺るがない。彼は重力干渉でカルキアの動きを泥沼のように縛り付け、さらに一歩踏み込んで決定的なトドメを刺そうとした。ゼニスの猟犬による、完全なる制圧。
その刹那である。
闘技場の上空、強固なチタン合金で完全に封鎖されていたはずの天井が、外側からの凄まじい物理的衝撃によって円形に融解し、吹き飛んだ。
降り注ぐ高熱の鉄の雨の中、一筋の流星のような影が闘技場へと舞い降りる。
一切の装飾を削ぎ落とした、深海を思わせるエメラルドブルーのパワードスーツ。
『――当機の専用端末、現着。これより、障害物の排除をカルキアより引き継ぎます』
抑揚のない少年の声。
オリンディアスの意識が直接ダウンロードされたそのスーツは、空間を跳躍した。
コルリの動体視力すらも完全に置き去りにする、異次元の加速。スーツの腕部から展開された高圧縮のエネルギーブレードが、無防備なコルリの心臓めがけて無慈悲に突き出される。
「ッ――!?」
回避は不可能。コルリが死を悟った瞬間。
彼女の視界を、紫色の重厚なコートが覆い隠した。
マガンであった。
彼はコルリを強引に突き飛ばし、自らの肉体を盾にしてその凶刃の軌道へと割り込んだのだ。
肉を断ち、骨を砕く凄惨な音が響く。エメラルドブルーの刃が、マガンの右胸から腹部にかけてを深く、致命的に切り裂いていた。鮮血が噴き出し、マガンが声にならない苦悶を漏らして膝をつく。
「マガンッ!!」
「アハハハッ! いい気味ね! さっさとその雷娘も串刺しにしなさい、ポンコツAI!」
カルキアが残忍な笑い声を上げる。
エメラルドブルーのスーツが、刃を血塗れのマガンから引き抜き、次にコルリへと狙いを定めたその時だった。
突如、スーツの機体各所から異常なスパークが弾け飛んだ。
『――警告。外部からの不正なアクセスを検知。ファイアウォール、突破されました。機体制御に重篤なエラー』
地下の聖域から、ミサゴが血を吐くような執念で放ったハッキングが、オリンディアスのスーツのローカル制御を強引に食い破ったのだ。
次の瞬間、エメラルドブルーのスーツはコルリからクルリと背を向け、なんと味方であるはずのカルキアへ向けてエネルギーブレードを振り下ろした。
「はァッ!?」
カルキアが咄嗟に後方へ跳躍するが、ブレードの切先が彼女のライダースーツを掠め、脇腹を浅く切り裂いた。
「ちょっと! 何してんのよこのイカレたガラクタッ! 殺す相手が違うでしょ!」
『……ローカル制御、一時的喪失。敵味方識別コードの書き換えを確認。……迎撃システム、再起動中』
オリンディアスの無機質な声と、カルキアの半ギレの怒号が交錯する。
ダイダロスの最強戦力同士が予期せぬ同士討ちを始めた、その数秒間の絶対的な混乱。
「……コルリ殿、今です!!」
血まみれのマガンが吠える。
コルリは自身の限界を超えた『極限駆動』を再起動し、倒れそうになるマガンを強引に担ぎ上げた。そして、敵の包囲網が緩んだ隙を一直線に駆け抜け、ひしゃげていた闘技場の防爆扉を雷の全力の一撃で粉砕し、暗闇の搬入路へと姿を消した。
『――システム復旧。不正アクセス元の排除、完了。機体制御、正常化』
コルリたちが逃げ去った数秒後、オリンディアスのスーツがようやく本来の動きを取り戻し、刃を収めた。
「ッざけんじゃないわよ!!」
カルキアは自身の脇腹から流れる血を忌々しげに拭い、エメラルドブルーのスーツを睨みつけて苛立ちを爆発させた。
完全なる処刑の場は、ミサゴの起死回生のハッキングによって、無惨に掻き乱されたのであった。
◆◆◆
工業都市ムルキベルの外周、暗闇の中。
排水溝から這い出したハパロクラエナは、砕けた肋骨の激痛に顔を歪めながら、雨の降る路地裏を泥水に塗れて這いずっていた。
相棒を奪われ、剣も砕け散った。絶望に沈む彼の前に、小さな足音が近づいてくる。
「……アンタ、本当に、見苦しいわね」
顔を上げると、そこには血まみれのキーボードを抱え、息を切らしたミサゴが立っていた。彼女は自身の地下アジトを放棄し、危険な地上へとハパロを回収しに来たのだ。
ハパロは言葉を返す気力もなく、ただミサゴの肩を借りて、共に郊外の闇へと逃亡の歩みを進めた。
――同時刻。
少し離れた廃工場地帯で、コルリは重傷のマガンを背負い、よろめきながら歩き続けていた。
マガンの傷は深く、背中を伝う血の量がすでに致死量に達しようとしている。
「……置いていきなさい、コルリ殿」
マガンの息も絶え絶えな、しかし極めて冷静な声が耳元で響く。
「私の内臓はすでに致命的な損傷を受けている。このままでは、二人とも追いつかれて死ぬだけです。……あなただけでも逃げろ」
「黙って! 私に指図しないでって言ったでしょ!」
コルリは泣き叫ぶように言い返し、マガンの身体をさらに強く背負い直した。リンビアを失った彼女にとって、目の前の命を見捨てるという選択肢は存在しない。
二人の体力が完全に尽き、泥の海に崩れ落ちそうになった、その時。
上空の分厚い雨雲を切り裂き、青白いプラズマの炎が舞い降りた。
サイボーグ飛竜・トドロキである。
主が囚われたことを検知した鋼鉄の竜は、残された者たちを回収するようプログラムされた最後の命令に従い、コルリたちの眼前に静かにその巨体を横たえた。
◆◆◆
ムルキベル中枢工場、巨大なメインフレーム室。
ドフレイニアの巨腕によって完全に拘束され、意識を失っているヒバリ。
その傍らで、機体を正常化させたエメラルドブルーのスーツが、極秘回線を通じて報告を行っていた。
『――こちらオリンディアス。ネズミ数匹の逃亡を許しましたが、目標個体である「ジェネシス・コード」の確保は完了しました』
通信の先。重層都市バビロンの頂点に座す女帝、ミレポラは、その報告を聞いて妖艶な笑みを深めた。
『よくやったわ。そのまま、彼を丁重にバルカン社の本社地下施設へ連れてきなさい。……私たちの計画を、ついに完成させる時よ』
◆◆◆
数日後。
バルカン社の最深部に位置する、一切の汚れが存在しない純白の秘密施設。
ヒバリの生身の肉体は、冷たい手術台の上に魔導拘束具で完全に固定されていた。
その頭上から、白衣を纏ったミレポラが、慈母のような、しかし悍ましい笑みを浮かべて彼を見下ろしている。
「本当に愛らしいわ、私の最高傑作。……さあ、あなたの頭部にある『ジェネシス・コード』のチップを、物理的に頂戴するわよ」
ミレポラが手術用の精密な魔導メスを手にし、ヒバリの側頭部へ刃を当てようとした瞬間。
傍らのモニターを監視していたオリンディアスの合成音声が、警告を発した。
『――お待ちください、ミレポラ様。目標の脳内に、極めて悪質な自立型トラップ・アーキテクチャが確認されました』
「トラップ?」
ミレポラが眉をひそめてモニターを覗き込む。
そこには、ヒバリの脳とジェネシス・コードのチップを複雑に絡みつくように覆う、特殊な魔力回路の存在が示されていた。
『対象のチップを物理的に摘出、あるいは強制的な切断を試みた場合、即座に脳内の魔力が暴走し、チップもろとも被検体の頭部が内側から自爆するよう設計されています。……彼自身が、自分自身に仕掛けた「自殺用の防衛機能」です』
その報告を聞き、ミレポラは少しの間沈黙し、やがて呆れたような、そして愛おしげなため息を吐いた。
「ふふっ……自分が生きたまま捕まった時のことまで計算していたのね。ダイダロスにだけは絶対に自分の頭脳を渡さないという、最後の抗い。……本当に、執念深くて頑固な子」
メスを置き、ミレポラはヒバリの頬を冷たい指先で撫でた。
「でも、無駄よ。私がそんなことで諦めると思っているの?」
ミレポラが指を鳴らすと、手術室の壁が開き、異様な数のケーブルが接続された巨大で禍々しい演算装置が姿を現した。
「物理的な摘出が無理なら、ジェネシス・コードの構造を外側から『丸ごとコピー』させてもらうわ。……抽出には随分と時間がかかるけれど、私は待つことには慣れているの」
ミレポラの指示で、無数の魔導プローブがヒバリの頭部を囲むように配置され、演算装置へと接続されていく。
ヒバリは、自身のすべてをゆっくりと削り取られる絶望の装置に拘束されたまま、暗い意識の底へと沈んでいった。




