053 Mr.シンギュラリティのプロメテウス
空を覆い尽くす重苦しい黒煙と、絶え間なく街を震わせる巨大な排気タービンの重低音。
鋼鉄と煙の街、工業都市ムルキベル。その市街地から遠く離れた郊外に、すでに何十年も前に稼働を停止した旧式発電所の広大な廃墟が広がっていた。
酸性雨が降りしきる深夜の暗闇の中。
錆びついた鉄条網と瓦礫の隙間を縫うようにして、深くフードを被った小柄な影が歩を進めていた。
右腕をだらりと下げ、息も絶え絶えに歩くその姿は、天才ハッカー『Mr.シンギュラリティ』こと、ミサゴの生身の肉体であった。
「……っ、痛ッ……マジで、ふざけんなあの女……!」
ミサゴは雨に濡れた顔を歪め、悪態を吐き捨てた。
ダイダロスの暗殺者カルキアに抉られた右腕の傷が、熱を持ち、脈打つたびに視界が明滅する。失血による悪寒で歯の根が合わず、膝は今にも崩れ落ちそうだった。
彼女の左手には、無骨なオフライン用の小型デバイスが握られている。
ムルキベルの郊外とはいえ、この街の至る所に監視カメラの眼が光っている。彼女はそのデバイスを道沿いの配電盤や中継器に物理的に突き刺し、自身が通過する数秒間だけ、カメラの映像を『無人のループ映像』へと強制的にすり替えながら、この最果ての廃墟まで血を吐くような思いで辿り着いたのだ。
(電脳空間に繋がってさえいれば、こんなアナログな真似、しなくていいのに……ッ)
自身の最大の武器であるネットワークを自らの手で切り捨てた代償を、彼女は骨の髄まで味わっていた。
やがて、発電所跡地の最も奥深く。半分崩れかかったみすぼらしい管理小屋の前に辿り着くと、ミサゴは重い扉を強引に押し開けた。
小屋の中には、埃を被った旧式の工具やガラクタが散乱している。
ミサゴは躊躇うことなく部屋の隅に置かれた巨大な配電盤の前に立ち、そのカバーを素手で引き剥がした。中には配線ではなく、極めて高度な生体認証パネルが隠されている。
彼女が血に濡れた左手をパネルに押し当て、網膜スキャンと複雑な魔力波長の認証をパスすると、床下から重々しい油圧の駆動音が響き渡った。
土埃が舞う中、床板が静かにスライドし、冷たい金属の階段がその口を開ける。
階段を下りきった先にあるのは、地上の廃屋からは到底想像もつかない、極めて高度に洗練された『電脳の聖域』だった。
床下には巨大なスーパーコンピュータのタワーが林立し、規則的な冷却ファンの音を響かせている。壁面を覆い尽くすほどの無数のモニター群が、主の帰還を待つように暗い青色を放っていた。ここが、彼女の真の城であり、絶対的な安全圏であった。
「……プロメテウス、起きてる?」
ミサゴが血の気を失った唇で呼びかけると、中央のメインコンソールに緑色の美しい波形が浮かび上がり、極めて流暢で、紳士的な男性の人工音声が室内を満たした。
『システム起動。お帰りなさいませ、ミスター。……バイタルサインに著しい異常を検知しました。直ちに医療プロトコルに移行しますか?』
「あー……その前に。即座に外部ネットワークとの接続を物理的に遮断して。完全にオフライン環境にするのよ。ダイダロスに逆探知されたら終わりだからね」
ミサゴが革張りのキャスターチェアにドサリと崩れ落ちながら指示を出すと、コンソールの緑色の波形が微かに揺らいだ。
『そのご指示に関しましては、すでに完了しております、ミスター』
「は?」
ミサゴは目を丸くし、コンソールを見上げた。
「あんた、私が命令する前に勝手に回線切ったわけ?」
『数日前、貴女様からの定期通信プロトコルが完全に途絶した瞬間から、敵対的組織による大規模な物理的襲撃および逆探知攻撃を予測し、当施設の防衛システムを完全にローカルへと移行させておりました。いかなる外部からのハッキングも、現在のこの施設には届きません。……貴女様がご無事で戻られると、信じておりましたので』
ミサゴが独自に開発し、進化を続けてきた世界最高峰の支援AI『プロメテウス』。
その人間離れした、いや、人間以上に気が利く先読みの対応に、ミサゴは思わず毒気を抜かれたように小さく笑い声を漏らした。
「……ホント、有能ね、あんた。私が作っただけのことはあるわ」
『恐縮です。……ミスター、右腕の処置を。出血量が危険域に達しています』
「わかってるわよ。医療キット出して」
コンソールの脇のパネルが開き、自動アームが医療器具を積んだトレイを押し出してくる。
ミサゴは分厚い防寒着を乱暴に脱ぎ捨て、血と泥に塗れた包帯をハサミで切り裂いた。露わになった傷口は、暗殺者カルキアの高周波ブレードによって肉が深く抉られ、神経が焼け焦げた無惨な状態だった。
「ッ、痛ぁぁ……マジでふざけんな、あの銀髪女……! 次に会ったら絶対に社会的な個人データ全部書き換えて、借金まみれの指名手配犯にしてやるんだから……!」
悪態を吐きながら、ミサゴは消毒液を傷口に直接浴びせ、局所麻酔を自身の左手で打ち込んだ。
プロメテウスが操作する極小の医療アームが、ミサゴの指示に合わせて正確に縫合糸を操り、抉れた肉を縫い合わせていく。肉を刺す鋭い痛みに脂汗を流しながらも、彼女はもう片方の手で、懐に隠し持っていた無骨なオフラインデバイスを取り出した。
「プロメテウス、痛いからさっさと終わらせて。……それより、これの解析を回してちょうだい」
ミサゴはデバイスのケーブルをコンソールに接続した。
「私が逃亡中に、各地のダミーサーバーを経由して断片的に掻き集めた、連中のデータよ。暗号化が何重にも掛かってるけど、あんたの演算能力ならいけるでしょ?」
『畏まりました。解析を実行します。……暗号強度は極めて高いですが、解読完了までおよそ百二十秒と推測されます』
モニターの画面が切り替わり、膨大な文字列とプログレスバーが恐るべき速度で流れ始める。
ミサゴは医療アームによる縫合の痛みに耐えながら、天井を仰ぎ見た。
オーラムでのデコイは破られた。カルキアという死神は、必ず物理的な足跡を辿ってこのムルキベルへと迫ってくるはずだ。そして自分は、あの王都の落ちこぼれ(ヒバリ)に向けて、一縷の望みを託した無音のSOSを放流した。
(頼むから、早く気づきなさいよ。アンタのそのイカれた頭脳なら、私がなんでネットワークから完全に消えたか、意味くらい分かるでしょ……?)
『――解析が完了いたしました。ミスター、これは極めて重大な事実です』
プロメテウスの電子音が、ミサゴの思考を現実に引き戻した。
壁面の巨大モニターに、無数の企業ロゴ、資金の流れを示す複雑なグラフ、そして不気味な計画書の断片が次々と展開されていく。
「何これ……。バルカン社、TALOS、パンドラ社……それに、ソラリスをはじめとするトップギルドの裏帳簿?」
ミサゴは痛む右腕を庇いながら、身を乗り出してモニターを凝視した。
表の世界では互いにライバル関係にあり、時に血みどろの利権争いを繰り広げているはずの巨大軍事企業や医療企業たちが、裏のネットワークでは完全に一つの極太の資金源とデータリンクで結ばれていたのだ。
『ダイダロスという組織は、単なる裏社会の犯罪シンジケートではありません。彼らは表経済の中枢企業を完全に掌握し、それらの技術を意図的に統合させています。……彼らが裏で推し進めているのは、【アノマライザー計画】と呼ばれる、極秘の生態兵器開発です』
「アノマライザー……計画? 何それ?」
『解析された断片データによれば、それは強靭な魔獣の細胞と、パンドラ社のマインドコントロール技術、そしてTALOS社の機械装甲を人間に直接移植し、理性を排した「不死の兵器」を量産する計画です』
その悍ましい計画の全容を聞かされ、ミサゴの背筋に氷のような悪寒が走った。
人間を魔獣と融合させ、自我を破壊して兵器化する。そんな倫理の欠片もない狂気の実験が、巨大企業たちの手によって組織的に行われているというのか。
「……待って、プロメテウス。その計画の中心……その兵器の開発や量産を実際にやってる『工場』は、どこなの?」
『資金の最終到達点、並びに特殊な魔獣細胞や機材の搬入ルート、および貴女様が最後にオフラインに切り替わった際の周辺のマップデータを照合しました』
モニターの画面が切り替わり、広域地図から一つの都市、そしてある特定の区画へと急速にズームアップされていく。
『……ここです。この工業都市ムルキベルの心臓部。プラント乱立地帯の最深部に位置する、バルカン社とパンドラ社の「共同管理資材庫」と偽装された巨大施設。ここが、アノマライザー計画の中枢工場である確率が極めて高いと推測されます』
「…………は?」
ミサゴは絶句した。
画面に映し出されているその施設の座標は、彼女が今いるこの廃発電所から、直線距離でわずか数キロしか離れていない場所だったのだ。
自分がダイダロスの監視網から逃れ、絶対的な安全圏だと思って血を吐きながら逃げ込んできたこの街。
その街そのものが、実はダイダロスの最も巨大で、最もおぞましい『心臓部』だったという皮肉。
「……マジで言ってんの? 灯台下暗しってレベルじゃないわよ、これ……」
ミサゴはキャスターチェアに深く背中を預け、乾いた笑いを漏らした。
逃げたつもりが、最も危険な獅子の檻の中に自ら飛び込んでいたのだ。カルキアが執拗にこの街へ向かってくる追跡の足音が、幻聴となって耳の奥で響く。
しかし、ミサゴの瞳は絶望に染まることはなかった。彼女は自身の脆弱な肉体と、情報という武器の限界を誰よりも冷静に理解している。
「……なるほどね。わざわざ自分から首を突っ込む気はないけど、向こうの心臓がすぐそこにあるっていうなら話は別よ」
ミサゴは縫合を終えた右腕を庇いながら、左手でコンソールを操作した。
「でも、今は動かない。私がここでヘタにハッキングを仕掛けて攻撃の意志を見せれば、奴らはすぐに逆探知でこのアジトを特定して、物理的な部隊を送り込んでくる。……防弾ガラス一枚ないこの部屋で、銃を持ったサイボーグに囲まれたら一瞬で終わりだからね」
『賢明な判断かと存じます、ミスター。では、いかがなさいますか』
「プロメテウス、当施設の防衛プロトコルを最高レベルに維持しつつ、工場の周辺ネットワークをパッシブモードで傍受しなさい。こちらからは一切の干渉をせず、漏れ出る通信データと防犯カメラの映像だけを一方的に吸い上げるのよ」
ミサゴは、モニターに映る巨大な工場の図面を、冷徹なハッカーの眼差しで睨み据えた。
「……ヒバリが、私の無音のSOSに気づいてここまで来るまで。私たちはひたすら息を潜めて、ダイダロスの情報をかき集めるわよ。物理的な武力が揃うまでは、あくまでも完璧な『傍観者』よ」
『畏まりました。パッシブ監視モード、起動します』
地下の聖域は再び深い静寂に包まれた。ミサゴは傷の痛みに耐えながら、いずれ訪れるであろう戦乱の時に備え、ただ静かに情報の海へと意識を沈めていった。




