051 監察官マガン
地下生簀での凄絶な死闘を終え、コルリが重層都市バビロンの地上へと帰還した時、すでにハルモニアの本部タワー周辺は異様な空気に包まれていた。
降りしきる酸性雨の中、周囲の道路を完全に封鎖していたのは、ギルドの人間ではない。漆黒の装甲車両と、統一された制服を纏うゼニス直轄の治安維持部隊『ノヴァ』の精鋭たちであった。
血と泥に塗れ、満身創痍の状態でエントランスに姿を現したコルリに対し、無数の魔導銃の銃口が一斉に向けられる。
だが、その張り詰めた殺気を片手で制し、装甲車両の影から一人の男が悠然と歩み出てきた。
「お疲れ様です、コルリ副長」
雨音を切り裂くような、極めて通る、しかし温度を感じさせない低い声。
年齢は四十五歳。長身で、スリムでありながらも極限まで鍛え抜かれた鋼のような筋肉の躍動が、衣服の上からでも容易に見て取れる。深緑色の髪をオールバックに撫でつけ、一筋だけ右目へと垂らした前髪の奥で、紫色の鋭い瞳がコルリを射抜いていた。
ゼニスの監察官であることを示す、暗い紫色の重厚なロングコート。
「……ゼニスの監察官が、何の用?」
コルリは極度の疲労に苛まれながらも、大太刀の柄から手を離さずに睨み返した。
男は雨に濡れることも意に介さず、恭しく一礼してみせた。
「申し遅れました。ゼニス特任監察官、マガンと申します。此度のハルモニア内部における幹部たちの大量失踪、ならびに地下区画における異常な魔力反応……その調査に参りました。もっとも、原因の排除はすでにあなたが済ませてくれたようですが」
マガンの瞳が、コルリの足元に滴る異形の血液を一瞥する。その口調は極めて丁寧であったが、言葉の端々には対象を冷酷に値踏みするような棘が隠されていた。
「これ以上の無駄な抵抗はお控えください。あなたには、事情聴取のために同行していただきます。……ご安心を。私としても、満身創痍の女性をこの雨の路上で組み伏せるような、野蛮な真似は好まないので」
その言葉は気遣いなどではない。明確な『実力差の宣告』であった。
コルリの研ぎ澄まされた直感が、目の前の男の異常性を告げていた。ただの官僚ではない。マガンの立ち姿には、いざとなれば一瞬で対象の急所を破壊できるプロフェッショナルな近接格闘の構えが、完全に自然体として内包されている。
さらに彼の腰のホルスターに収められた、無骨な銃型のアーキテクチャ。あれが単なる銃器ではないことを、コルリの肌を刺す魔力の圧が証明していた。
コルリは静かに大太刀から手を離し、降伏の意を示した。
マガンは微かに口角を上げ、彼女を装甲車両の後部座席へと促した。
◆◆◆
雨のハイウェイを走る、ゼニスの装甲車両。
分厚い防弾ガラスと防音材に囲まれた車内には、マガンとコルリの二人だけが向かい合って座っていた。
「……私がやったわけじゃない。地下にいたのは、怪物よ」
沈黙を破り、コルリが重い口を開いた。彼女は、リンビアがダイダロスと癒着し、不死の実験台としてSランクモンスターに変貌した事の顛末を語ろうとした。
しかし、マガンは組んだ足の上に両手を置き、どこか達観したような静かな瞳でそれを制した。
「弁明は不要です。あなたが地下で『何』を屠ったのか。そして、テネブレの隊員たちを惨殺し、ヒバリとハパロクラエナを指名手配犯へと仕立て上げたのが何者なのか……私には、痛いほど重々承知しておりますので」
マガンの言葉に、コルリは弾かれたように顔を上げた。
「知っているなら、なぜヒバリたちを追うの! ダイダロスという本当の敵を……!」
「ゼニスは、法と証拠という鎖に縛られた巨大なシステムです。確たる証拠もなく、世界経済の根幹を担う超巨大軍事企業や医療企業に踏み込むことなど、いかなる権力者であっても不可能。……昨今のギルドは、ひどく薄汚れている。そしてそれは、ギルドを裏で操る企業もまた然りです」
マガンは窓の外を流れるバビロンのネオンを冷ややかな目で見つめ、言葉を継いだ。
「だからこそ、法という光の届かない場所を掃除するための、『非公式の猟犬』が必要なのです。……例えば、ギルドの反乱分子として社会的に抹殺された、あなたのような優秀なハンターが」
マガンが視線を戻し、コルリの瞳を真っ直ぐに射抜いた。
彼はコルリを罪人として裁くために拘束したのではない。彼女をゼニスの記録上から「死人」あるいは「行方不明者」として処理し、ダイダロスを内部から破壊するための独自の裏の駒としてスカウトしたのだ。
「私の得物であるこの銃型アーキテクチャは、被弾した対象の魔力を強制的に地へと縫い付け、完全に封殺する『土』の特化型。……そして私は、対象の四肢を物理的にへし折る作業も得意としています。どうです? これでも、私と組むには不足でしょうか」
慇懃無礼な口調の裏に隠された、確かな殺意と覚悟。
マガンもまた、腐敗した世界を憎み、己の手を血に染めてでも真の悪を滅ぼそうとする、孤高の捕食者であった。
コルリは小さく息を吐き、口元に不敵な笑みを浮かべた。ヒバリとハパロに再び合流するためには、この男の持つゼニスの情報網と権力は極めて有用な切り札となる。
「……いいわ。その代わり、私は誰の命令にも縛られない。私の好きに動かせてもらうわよ」
「ええ、大いに結構です。期待していますよ、コルリ殿」
◆◆◆
一方その頃。
世界の頂点にそびえ立つ、バルカン社本社の最上階。
ミレポラは、広大な夜景を見下ろす豪奢な社長室のデスクで、表向きの業務である軍事兵器の輸出書類に優雅なサインを走らせていた。
音もなく執務室の扉が開き、側近であるオリンディアスが静かに歩み寄る。
「ミレポラ様。ゼニスの監察が動きました。特任監察官のマガンが、ハルモニアのコルリの身柄を拘束した模様です」
オリンディアスの報告に、ミレポラは万年筆の手を止めることすらなく、極めて退屈そうにため息をついた。
「ゼニスの犬が、今更嗅ぎ回ったところで何になるというの。放っておきなさい。……鬱陶しいようなら、グラウクスに任せておけばいいわ。あの冷血漢なら、装甲車ごと綺麗に氷のオブジェに変えてくれるでしょう」
「承知いたしました。……それと、もう一つの問題について、続報がございます」
オリンディアスが仮想コンソールを展開し、数枚のホログラム画像を空中に浮かび上がらせた。
「『Mr.シンギュラリティ』の足取りが掴めました」
その名を聞いた瞬間、ミレポラの指先がピタリと止まり、彼女の瞳に冷酷なサファイアの光が宿った。
王都のハッキング事件において、パンドラ社の最高峰の防壁を突破し、ヒバリを逃がした正体不明の天才ハッカー。ダイダロスにとって、その存在はヒバリに次いで排除すべき最優先ターゲットであった。
「小娘はどこにいるの」
「二時間前、黄金都市オーラムのネットカフェにおいて、広域監視カメラの映像に対するハッキングの痕跡を検知しました。その鮮やかな手際から見て、彼女で間違いないでしょう」
オリンディアスの報告に対し、ミレポラは美しい唇を歪め、深く皮肉に満ちた笑みを漏らした。
「ふふっ……おかしいわね。あの用心深く、パンドラ社を手玉に取ったほどのハッカーが、あからさまに自身の居場所を示すような『痕跡』を、わざわざ残していくかしら?」
「ええ。私も同意見です」
オリンディアスが恭しく頷く。
「或いは、我々の追跡の目をオーラムへと釘付けにするための、極めて高度な『罠』である可能性が高いかと」
「構わないわ」
ミレポラはサインを終えた書類を無造作に放り投げ、冷たい夜景へと視線を向けた。
「罠だろうと何だろうと、一度掴んだ尻尾を逃す理由にはならない。引き続き、カルキアに追わせなさい」
ミレポラの瞳の奥底で、嗜虐的な炎が揺らめいた。
「自身は物理的な力を持たず、電脳の海で神を気取る愚かな小娘が……死神の足音からいつまで逃げ切れるか、見ものね」




