050 深淵のリンビア・後編
何重もの強固な魔力防壁と分厚いコンクリートに封鎖された、広大な地下生簀。
酸素すらも腐敗しているかのような閉鎖空間の泥濘の中で、二つの全く異なる魔力が、大気の次元を歪めながら激突の時を待っていた。
一つは、身の丈三メートルを優に超える漆黒の異形。
Sランクモンスター『深き者』の細胞に肉体の主導権を完全に奪われ、人間の理性を永遠に喪失した元ハルモニア次期団長、リンビアの成れの果てであった。その全身を覆う黒鱗は地下水路の暗緑色の非常灯を不気味に反射し、両腕の巨大な鉤爪からは、触れたコンクリートを瞬時に融解させる有毒な粘液がとめどなく滴り落ちている。
もう一つは、その圧倒的な質量の暴力と相対する、小柄な雷の戦乙女。
ハルモニア副長、コルリ。彼女が静かに下段に構えた身の丈ほどもある大太刀『祢祢』の刀身からは、紫電の魔力が幾重にも絡み合い、高密度のプラズマとなって暗闇を青白く照らし出していた。
先制したのは、コルリであった。
極限まで圧縮した雷の魔力を自身の神経回路と筋肉細胞に直接流し込み、肉体の物理的限界を強制的に引き上げる彼女の代名詞的身体強化魔法――『雷纏』。
大気が爆発的に膨張する衝撃を残し、コルリの姿が視界から完全に消失する。
次の瞬間、怪物の巨大な背後に、紫電の軌跡が鋭角に現れた。
神速の踏み込みから放たれた、袈裟懸けの重い一撃。あらゆる魔獣の装甲を両断してきた『祢祢』の鋭利な刃が、超高圧の雷撃を伴いながら、怪物の強靭な背中の黒鱗へと深々と食い込む。
肉を断ち切り、背骨の半ばまで達する確かな手応え。並のモンスターであれば、この一撃で両断され、雷の熱量によって内臓まで完全に炭化しているはずだった。
しかし。
刃が怪物の肉体を抜けきるよりも早く、コルリの顔色に驚愕の色が走った。
両断されたはずの怪物の分厚い背中の筋肉が、切断面から無数の触手のような筋繊維を異常な速度で増殖させ、コルリの大太刀の刀身に直接絡みついてきたのだ。
Sランクモンスター『深き者』の持つ、常軌を逸した超再生能力。
細胞を焼き焦がす雷の熱量すらも凌駕する速度で細胞分裂を繰り返し、怪物は自身の傷口を瞬時に縫い合わせると同時に、コルリの獲物をその肉の力だけで完全に拘束したのである。
背後に獲物を固定したまま、怪物は巨大な上半身をあり得ない角度で捻り、丸太のような太さを持つ右腕の鉤爪をコルリの頭部へと薙ぎ払った。
刃を手放すか、あるいは頭蓋骨を粉砕されるか。
コルリは一瞬の逡巡もなく、柄から両手を離して後方へと跳躍した。コンマ数秒の差で、猛烈な風圧を伴った巨大な鉤爪が彼女の鼻先を掠め、背後の分厚いコンクリートの支柱を豆腐のように抉り取る。
空中で体勢を立て直したコルリは、自身の靴底に雷の魔力を集中させ、地下水路の壁面を垂直に蹴り上げて着地した。
怪物は拘束していた大太刀を自身の背中から無造作に引き抜き、汚水の中へと投げ捨てる。そして、深海の底のように赤黒く濁った両眼で、壁面に立つコルリを冷酷に睨み据えた。
(……なんて出鱈目な細胞。あんな再生速度を許していれば、どれだけ致命傷を与えてもいずれこちらの体力が尽きる)
コルリは呼吸を整えながら、自身の腰に帯びたもう一つの得物――予備の小太刀をゆっくりと引き抜いた。
ダイダロスは、この不死の肉体という悍ましい器を完成させるために、リンビアという愚かな小者を実験台にしたのだ。そして、その狂気に満ちた計画の真の脅威は、この異常な再生能力だけではないことをコルリは知っていた。
怪物が、異常に長く発達した両腕を自身の胸の前で交差させる。
周囲の空気が、物理的な重さを持って軋み始めた。地下水路に滞留していた腐臭や、汚水が波打つ音、そして非常灯の微かな光さえもが、怪物の掌の中心に向けて「吸い込まれていく」ような不可解な引力が発生する。
空間そのものが、欠落していく。
怪物の交差した両腕の間に、バスケットボールほどの大きさを持つ『漆黒の球体』が産み出された。
それは単なる黒色の魔法ではない。光も、音も、物質も、触れたあらゆる事象を分子レベルで完全に消滅させる、神の領域の演算によってのみ構築される絶対破壊の極地――闇の魔法であった。
本来、人間の脆弱な生体脳でこの魔法を構築すれば、先ほどのリンビアのように脳神経が焼き切れて絶命する。しかし、人間の理性を完全に放棄し、魔獣の細胞に脳髄の全てを明け渡した今のこの化け物には、その反動による自壊作用が機能していなかった。
怪物が、交差した腕を力任せに前方へと振り抜く。
漆黒の球体が、一切の風切り音を立てることなく、無音のままコルリに向かって直進してきた。
コルリは即座に壁面を蹴り、その軌道から横方向へと全力で飛躍した。
彼女が直前まで張り付いていた壁面に、闇の球体が着弾する。
爆発は起きなかった。破片が飛び散ることも、衝撃波が発生することもない。
ただ、強固な魔力防壁が施された数メートル四方の分厚いコンクリートの壁が、そこだけ最初から存在しなかったかのように、完璧な球状に『消滅』したのである。えぐり取られた空間の向こう側から、地下の冷たい土塊が剥き出しになっていた。
着地と同時にその光景を横目で確認したコルリの背筋に、氷を当てられたような強烈な悪寒が走る。
(掠っただけでも、その部位の肉体が完全に空間ごと消される……。防御も、相殺も不可能。絶対に触れてはならない一撃必殺の事象兵器)
思考を巡らせる暇は与えられなかった。
怪物の咆哮と共に、今度は両手の鉤爪の先端から、小型の漆黒の球体が無数に産み出され、散弾のように広範囲に向かって放たれたのだ。
コルリは『雷纏』の出力を一段階引き上げ、地下水路の縦横無尽に張り巡らされた配管や瓦礫を足場にして、三次元的な神速の回避運動を展開する。
彼女が蹴った配管が、着地した瓦礫が、次々と音もなく消滅していく。水面に着弾した闇の魔法は、大量の汚水を蒸発させることなくただ『無』へと変換し、地下水路の水位を不自然に低下させていった。
回避に徹するコルリの体力が、紫電の魔力と共に急激に消耗していく。
怪物の放つ闇の魔法は、弾道こそ直線的で単調だが、その破壊範囲と密度が常軌を逸していた。さらに、回避の死角を突くように、怪物はその巨体に似合わぬ敏捷性で肉薄し、コンクリートを融解させる猛毒の鉤爪を幾度も振り下ろしてくる。
防戦一方の極限状態。
コルリの小太刀が怪物の鉤爪の軌道を逸らすが、その圧倒的な質量差によって彼女の華奢な腕の骨が悲鳴を上げ、関節が軋む。攻撃を躱しきれず、彼女の左肩の皮膚が鉤爪の先端に掠れると、それだけで軍服の特殊繊維が融解し、焼けるような激痛が神経を焼いた。
次第に追い詰められ、コルリの息が荒くなる。肺に取り込む酸素が足りず、視界の端が僅かに点滅し始めた。
(……このままじゃ、持たない。再生能力を上回る火力で、あの怪物の核を一撃で破壊しなければ……)
だが、今の自身の出力では、あの分厚い黒鱗と筋肉の鎧を突破し、細胞の増殖速度を上回って急所に到達することは不可能であった。
限界が、すぐそこまで迫っていた。
闇の魔法の無音の弾幕が、コルリの退路を完全に塞ぐ。怪物が彼女の頭上へと跳躍し、両腕を大きく振りかぶって、これまでで最大級の漆黒の球体を生成し始めた。
回避できる空間はない。防御も通じない。
絶対的な死の気配が、コルリの全身を冷たく包み込んだ。
その絶望の淵で。
彼女の脳裏に浮かんだのは、自らをこの闇へと突き落としたリンビアへの憎悪ではなく、意識不明のまま眠り続ける、偉大なる恩人――マジュスクラ団長の大きく、温かい背中であった。
――コルリ。強さとは、己を誇示するための力ではない。誰かの尊厳を、そして誰かの帰るべき場所を護り抜くための、揺るぎない魂の在り方だ。
かつて、スラムで生きるためだけに剣を振るっていた彼女の泥だらけの手を引き、その太い腕で優しく頭を撫でてくれた男の言葉。
彼の作ってきたハルモニアというギルドは、確かに内部から腐敗してしまった。だが、彼がコルリの魂に刻み込んだ『強き者としての誇り』は、今も彼女の胸の奥で、決して消えることのない黄金の炎として燃え続けていた。
(……私は、ハルモニアの副長。団長の残したこの場所を、ダイダロスの悪意に食い潰された哀れな怪物の手に渡すわけにはいかない……!)
コルリの双眸に、死への恐怖を完全に塗り潰す、凄絶な覚悟の光が宿った。
彼女は小太刀を逆手に握り直し、深く、長く、地下の淀んだ空気を肺の底まで吸い込んだ。
そして、自身の肉体のリミッターである『生存本能』を、自らの意志で完全に断ち切った。
「――『雷纏』」
コルリの全身の毛穴から、鮮血が微かな霧となって噴き出した。
自身の生命力そのものを燃料として魔力回路を強制的に暴走させる、死と引き換えの――
「――極限駆動」
紫電であった彼女の魔力光が、一切の色を失った純白の閃光へと変貌した。
地下水路の空間全体が、強烈なプラズマの発生に伴う電磁場の異常によって激しく明滅し、水面を這うように無数の静電気が走る。
彼女の筋繊維が限界を超えた出力に耐えきれずに断裂し、毛細血管が次々と破裂していく。しかし、その激痛すらも純白の雷の速度が置き去りにしていく。今の彼女は、人の形を保った単なる『雷霆』そのものであった。
頭上から、怪物が巨大な闇の球体をコルリに向けて投下した。
空間を消滅させる絶対の死。
しかし、コルリの姿は、闇の魔法が彼女の頭上の空間をえぐり取るコンマ数秒の刹那には、すでにそこには存在していなかった。
怪物の赤黒く濁った眼球が、直下から消失した標的の姿を捉えられず、初めて戸惑いのように泳いだ。
知覚の限界を超えた速度。
純白の閃光が、地下水路の壁、天井、そして水面を、反射する光そのものの軌道で駆け抜ける。
怪物は本能的な恐怖を覚え、全方位に向かって闇の魔法を乱れ撃ち、さらに全身の毛穴から融解粘液を噴出させて絶対防御の姿勢をとった。
だが、遅かった。
コルリは、乱れ飛ぶ闇の球体の隙間――物質が存在する僅かな空間の糸を縫うように、神速のステップで駆け抜けた。触れれば死という極限の恐怖すらも、今の彼女の研ぎ澄まされた精神には一切のノイズとならない。
彼女の狙いはただ一つ。
怪物の分厚い胸甲の奥深くで、魔力を生成し、異常な再生能力の源泉となっている急所――『深き者の細胞核』。
純白の雷が、怪物の眼前に直角の軌道を描いて出現する。
コルリは全身の骨が軋むのも構わず、己の全存在、全生命力、そして恩人への敬意とギルドへの誇りの全てを、右手に握った小太刀の一振りに集約させた。
「――穿てッ!!」
コルリの咆哮と共に、純白の雷の刃が怪物の胸部へと突き立てられた。
怪物の分厚い黒鱗が砕け散り、強靭な大胸筋が無理矢理に押し広げられる。しかし、即座に怪物の再生能力が発動し、傷口から無数の肉芽が飛び出して小太刀の刃を押し返そうとする。
物理的な刺突の力だけでは、核には届かない。
コルリは、自身の肉体を巡る『極限駆動』の全ての雷を、刃を通して怪物の体内へと直接、爆発的に解放した。
「――『極雷斬』!!」
地下水路に、太陽が墜落したかのような白昼夢の光が溢れ返った。
小太刀から放たれた数千万ボルトに及ぶ超高圧の雷撃が、怪物の体内を嵐のように駆け巡る。
細胞が再生しようとする速度よりも遥かに早く、そして深く。雷の熱量は怪物の強靭な筋肉を内側から完全に炭化させ、神経網を焼き切り、沸騰した血液が怪物の全身の鱗の隙間からプラズマの蒸気となって噴き出した。
怪物が、音にならない絶叫を上げて身悶える。
その巨体を支えていた両腕が力なく垂れ下がり、赤黒く濁っていた両眼から、ついに光が完全に失われた。
雷撃の熱量は、怪物の胸の奥底に隠されていた深き者の細胞核を完全に焼き尽くし、ただの灰へと変えたのである。
再生能力という絶対の盾を失い、内側から完全に焼き焦がされた怪物の巨体は、コルリが刃を引き抜いた瞬間、崩れ落ちる土塊のように後方へと倒れ込んだ。
巨大な質量が、淀んだ水面に激突する。
水飛沫が高く舞い上がり、そして重々しい波紋を広げながら、やがて地下生簀は元の冷たい静寂へと包まれていった。
勝負は、決した。
強大なSランクモンスターの細胞に呑み込まれ、力に溺れた哀れな妄執の王は、恩人の誇りを胸に己の限界を超えた雷の戦乙女の刃によって、完全にその命脈を断たれたのである。
コルリは、静かに水面へと着地した。『極限駆動』の反動が、時間差で彼女の肉体を容赦なく襲う。
全身の筋肉が断裂するような激痛に苛まれ、肺からは血の混じった咳がこみ上げてくる。立っていることすら困難なほどの疲労感と破壊的なダメージ。
しかし、彼女は決して膝をつくことはなかった。
コルリは震える手で小太刀の血振りをし、鞘へとゆっくりと納めた。
焦げた肉の匂いと、微かなオゾンの香りが漂う地下水路で、彼女は倒れ伏した半人半魚の残骸を冷徹な瞳で見下ろした。
「……あなたの妄執は、ここで終わりよ。リンビア」
その声に、怒りや哀れみは含まれていなかった。ただ、ハルモニアというギルドの膿を完全に断ち切った、真の副長としての確かな覚悟と責任の響きだけが存在していた。
彼女は振り返ることなく、暗闇に包まれた地下水路の出口へと向けて、重い足取りで歩みを進めた。




