049 深淵のリンビア・中編
トビの物理ハッキングによって、ハルモニア本部タワーの最下層を封鎖していた分厚い隔壁が、重々しい金属の摩擦音を立てて開いた。
開放された暗闇の奥から、コルリの鼻腔を強烈な腐敗臭が打ち据えた。それは単なる泥やカビの匂いではない。大量の血液と内臓が腐乱した鉄錆びた悪臭と、深海の底を思わせる冷たく淀んだ水生生物の匂いが混ざり合った、死そのものの悪臭であった。
「通信はここで切ります。……ご武運を、コルリ副長」
インプラント越しに響いたトビの淡々とした声を最後に、外部との接触は完全に遮断された。
コルリは大太刀『祢祢』の柄に手を添えたまま、暗緑色の非常灯だけが等間隔で明滅する地下水路へと足を踏み入れた。
ここはかつて、マジュスクラ団長が特別な生態を持つ魔獣を隔離・飼育するために建造させた、広大な地下生簀である。強固な魔力防壁と分厚いコンクリートで覆われたこの空間に、外界の光や音が届くことは永遠にない。
コルリの靴底が、湿ったコンクリートを踏みしめる硬質な音だけが反響する。
やがて、巨大な貯水槽を中心とした広大な空間へと辿り着いた。
彼女の視界に飛び込んできたのは、地獄絵図と呼ぶにふさわしい惨状だった。
貯水槽の縁や、汚水が淀む岸辺には、リンビア派の幹部たちが身につけていた仕立ての良いオーダースーツの残骸や、高価な魔導時計、そして金貨の入った財布が無数に散乱していた。
それらの装飾品に紛れるように、人間の骨盤や大腿骨、噛み砕かれた頭蓋骨の破片が無惨に転がっている。彼らは自身の懐を温めることだけを考え、玉座の化け物を見て見ぬ振りをした結果、最も残酷な形で自身の血肉を『餌』として捧げることになったのだ。
コルリが惨状を冷徹な瞳で見据え、静かに大太刀の鯉口を切った、その時。
黒く淀んだ貯水槽の水面が、大きく盛り上がった。
大量の汚水が滝のように崩れ落ち、泥濘の奥底から、信じがたい質量を持った『異形』が這い上がってくる。
「……遅かったじゃないか、コルリ」
粘液に塗れた声帯から絞り出されたその声は、かつて人間の言葉を話していた生物の残響でしかなかった。
水辺に姿を現したその化け物は、すでに人間の姿をほとんど保っていなかった。
身長は優に三メートルを超え、全身の八割が深海魚のような漆黒の鱗と、触れるものを腐食させる粘液に覆い尽くされている。両腕は鋭利なヒレを備えた巨大な鉤爪へと変貌し、背骨からは異様な棘が幾本も突き出していた。
唯一、顔の右半分から首筋にかけての皮膚だけが、辛うじてリンビアとしての本来の面影を残している。しかし、その残された右目も、すでに理性の光を失い、赤黒く濁った捕食者の眼球へと成り果てていた。
Sランクモンスター『深き者』の細胞が、ついに人間の器をほぼ完全に喰い破ったのだ。
「そんな姿に成り果てて、まだ自分が人間だとでも思っているの?」
コルリの冷ややかな問いかけに、半人半魚の怪物――リンビアは、裂け開いた巨大な顎を歪めて気味の悪い笑い声を上げた。
「人間? 違うな。俺は人間という不完全な生き物を超越したんだ。……ダイダロスの連中が教えてくれた。この力こそが、新世界の王にふさわしい『不死』の器だと」
リンビアの右半分の顔に、底知れぬ狂喜と、異様な優越感が浮かび上がる。
「あの偉大だった親父でさえ、老いには勝てず、魔獣の一撃でベッドから起き上がれなくなった。だが俺は違う。細胞が無限に再生し、どれほど傷つこうが死ぬことはない。俺は親父を超えた。ハルモニアの歴史上、最も偉大で、最も強大な王になったんだ!」
自身の身体が異形に呑み込まれ、理性が削り取られているという現実から目を背け、クロエイアの甘言を盲信し続ける哀れな妄執。
彼はダイダロスの「神の力(闇の魔法)を量産するためのモルモット」として利用されているに過ぎないという真実に、最後まで気づくことはなかった。彼を突き動かしているのは、偉大な父への強烈な劣等感だけだった。
「哀れね」
コルリの短く鋭い宣告が、地下水路の空気を切り裂く。
「不死でもなんでもない。あなたはただ、自身の弱さから逃げるために、怪物の細胞に自分の魂を売り渡しただけの……空っぽの肉塊よ。団長は誰よりも部下を愛していた。自分の利益のために配下を喰い殺すあなたに、彼を語る資格なんて一ミリもない」
「黙れえええええええええっ!!」
コルリの言葉が最も痛いところを突いたのか。リンビアの残された右顔面が、極度の憎悪と屈辱に激しく歪んだ。
その瞬間。
リンビアの巨体の周囲の空間が、物理的な法則を完全に無視して『欠落』し始めた。
彼が巨大な鉤爪を振りかざすと、手のひらに光の一切を吸い込む漆黒の球体が出現する。完全なる虚無。触れたものを分子レベルで消滅させる、神の領域の事象兵器――闇の魔法の予兆であった。
「見ろ、コルリ! これこそが神の力だ! お前も、親父の作り上げたこの古臭いギルドも、俺の闇で完全に消し去って……っ!?」
狂喜の絶叫は、途中で不自然に途切れた。
漆黒の球体が極限まで膨張した瞬間、リンビアの残された半分の人間の顔が、かつてない激痛に見舞われたように激しく痙攣し始めたのだ。
人間の脆弱な脳神経で、神の領域の演算である闇の魔法を行使することなど、本来不可能なのだ。ヒバリのような特殊なアーキテクチャを持たない生身の人間がそれに触れれば、絶大な魔力負荷の反動によって、自己の精神と脳細胞が内側から完全に焼き切られる。
クロエイアが「理性が崩壊しなければ」と冷笑していた理由が、そこにあった。
「あ……が、ああああっ!? 頭が、割れ……親父、おや、じ……!」
リンビアが自身の頭部を両手で抱え込み、床を転げ回る。
彼の眼球から、鼻腔から、そして耳の孔から、どす黒い血液が噴出する。残されていた人間の右顔面の皮膚が内側から弾け飛び、その下からディーパーの漆黒の鱗が瞬く間に顔全体を覆い尽くしていく。
最後に彼が口にしたのは、あれほど憎み、超えようとしていた父親への助けを求めるような呼び声だった。
しかし、その声すらも粘液の泡に消え、リンビアの右瞳から、人間としての『理性の光』が完全に、そして永遠に消滅した。
静寂が降りた。
数秒後。泥濘の中からゆっくりと立ち上がったのは、もはやリンビアという人間の名残を一切持たない、完全なる虚無の化身。
Sランクモンスターの細胞に肉体の主導権を完全に奪われた、純粋な捕食者としての圧倒的な暴力の塊であった。
化け物は、地下水路のコンクリートの天井を震わせ、大気の次元そのものを歪めるような、底知れぬ咆哮を上げた。
コルリは自身の死を予感させるその圧倒的な絶望の圧力を前に、一歩も退くことはなかった。
彼女は深く息を吸い込み、抜刀した大太刀『祢祢』の刀身に、まばゆい紫電の魔力を纏わせる。




