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用済みだと追放された天才を怒らせてはいけない。彼は世界を壊す『技術』を持っているのだから/復讐のアーキテクト  作者: 赤腹井守
第五章 メメント・モリ

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048 深淵のリンビア・前編

 重層都市バビロンの歓楽街が最も深い眠りにつく、午前三時。

 ハルモニア本部の薄暗い執務室で、コルリは一人、ギルドの監視カメラの死角をマッピングした図面と睨み合っていた。

 不意に、施錠されているはずのドアの向こうから、一切の足音を伴わずにトビが姿を現した。彼女はいつも通りの気怠げな表情のまま丸眼鏡を押し上げ、ただ一言だけを告げた。


「……動きましたよ。専用の地下通路へ向かっています」


 その言葉を合図に、コルリは即座に立ち上がった。

 彼女は自身の代名詞である『雷纏(らいてん)』の魔力出力を極限まで絞り込み、発光と放電音を完全に殺したステルス状態へと移行する。雷の戦乙女は音のない影と化し、トビが物理ハッキングで開いたセキュリティゲートを抜け、リンビアの尾行を開始した。


 向かった先は、バビロンの地下深層。かつて旧時代のインフラ設備として使われ、現在は有毒なガスと汚水が滞留する広大な廃棄区画だった。

 コルリは腐食した鉄骨の陰に身を潜め、呼吸すらも意識の下へと沈み込ませた。

 視線の先。明滅する非常灯の下に、異常なほどに背中を丸め、自身の身体を掻き毟りながら歩くリンビアの姿があった。彼の足取りは泥酔者のように覚束なく、荒い呼気が白く濁って闇に溶けている。


「……遅い。遅いぞ、クロエイア! 早く、早くそれを寄越せ……っ!」


 リンビアが血を吐くような声で暗闇に向かって叫ぶ。

 すると、汚水の溜まる空間の奥から、黒いダークスーツを着た女――ダイダロスの幹部であるクロエイアが、音もなく歩み出てきた。

 彼女の冷徹なサングラスの奥のセンサーアイが、哀れな獣を見下ろすように赤く光る。彼女の手には、重厚な金属製のジュラルミンケースが握られていた。


「慌てないでください。ダイダロスの最高傑作たる薬液です。輸送には細心の注意が必要なのですよ」


 クロエイアがケースを開くと、中には赤黒く濁った液体が満たされた特殊な注射器が何本も整然と並んでいた。

 それを見たリンビアは、なりふり構わずクロエイアに飛びつき、一本の注射器を奪い取った。そして自身の首筋――どす黒い鱗が浮き上がりかけている肉の隙間へと、太い針を乱暴に突き立て、内容物を一気に体内へと押し込んだ。


 瞬間、リンビアの肉体が激しく痙攣し、背骨が異常な角度に反り返る。

 しかし数秒後には、彼の異常な肌の乾燥が僅かに収まり、荒れ狂っていた呼吸が落ち着きを取り戻していった。理性を喰い破ろうとしていた怪物の細胞が、強力な薬物によって強制的に鎮圧されたのだ。


「あ、ああ……これだ。これでまた、俺は無敵の王でいられる……」

「ええ。貴方は『第二次アノマライザー計画』において、Sランクモンスター『深き者(ディーパー)』の細胞と最も高い適合率を示した、極めて貴重な成功例です。その細胞を完全に手懐ければ、闇の魔法の行使も可能となる。……その理性が、完全に崩壊しなければ、ですがね」


 クロエイアの淡々とした、しかし明確な嘲笑を含んだ言葉に、リンビアは血走った目を剥いた。


「舐めるな。俺の自我が化け物なんかに食い潰されるはずがないだろう。……俺はあの親父を超えるんだ。マジュスクラの名前をこの世から完全に消し去り、俺がハルモニアの、いや、この世界の頂点に立つ!」


 偉大すぎる父への根深いコンプレックス。彼が不死の怪物へと身を堕とした最大の理由は、強固な信念や野望などではなく、ただ己の弱さを直視できない小者の見栄と妄執に過ぎなかった。

 クロエイアは口元に極めて冷ややかな笑みを浮かべ、残りのアンプルを無造作にリンビアの足元へと投げ捨てた。


「素晴らしい覚悟です。ミレポラ様も期待しておいでですよ。……では、次回の投薬まで、その人間の姿を保っておくことです」


 クロエイアが闇の中へと姿を消すと、リンビアは地面に転がった注射器を泥水ごと掻き集め、自身の懐へと狂ったように押し込んだ。


 鉄骨の陰でそのすべてを目撃したコルリは、自身の歯を強く食いしばった。


(……第二次アノマライザー計画。深き者の細胞の移植、そして闇の魔法……)


 ダイダロスの真の目的。それはリンビアに不死を与えることではなく、最強の魔獣の力と闇の魔法を軍事利用するための「生態実験」に過ぎない。

 そして何より恐ろしいのは、クロエイアの持ってきた薬の効果が、目に見えて短くなっている事実だった。リンビアの肉体は、すでに人間の限界を超え、完全な怪物へと変貌しようと臨界点に達しつつある。


 そのコルリの最悪の予感は、数日と経たずに、ハルモニア内部における『凄惨な実害』となって現れ始めた。


 ◆◆◆


 薬の供給が、ディーパーの細胞の増殖速度に完全に追いつかなくなったのだ。

 理性を保つための投薬効果が切れるたび、リンビアの肉体を支配するのは、極限の飢餓感と、生物を喰らわねばならないという抗いがたい『捕食本能』であった。


 ハルモニアの本部タワー。

 深夜の廊下を、リンビア派の重鎮である恰幅の良い幹部が一人、上機嫌で歩いていた。彼は新たな裏カジノの利権をリンビアから任されたばかりであり、頭の中は膨れ上がる自身の口座残高のことで満たされていた。

 ふと、廊下の角を曲がった先。照明の落ちた薄暗い空間に、リンビアの後ろ姿が立っているのを見つけた。


「おお、リンビア様。こんな夜更けにどうなさいました? 何か私めに御用命で……」


 幹部が卑屈な笑みを浮かべてすり寄ろうとした、その瞬間。

 リンビアが振り返った。

 しかし、そこに人間の顔は存在していなかった。

 両目は深海のように赤黒く濁り、口は人間の骨格の限界を遥かに超え、両耳の裏側まで異常なほどに裂けて開いていた。その口腔内には、サメのように何列にも並んだ鋭利な牙がびっしりと生え揃っている。


「え――」


 幹部が恐怖に声帯を引きつらせるよりも早く。

 リンビアの極端に巨大化した両腕が、幹部の太い首を左右から万力のように挟み込んだ。

 そして、裂け開いた巨大な顎が、幹部の頭部から肩口にかけてを、衣服ごと完全に丸呑みにした。


 断末魔の悲鳴すら上がることはなかった。

 ただ、強靭な牙が人間の硬い頭蓋骨と鎖骨を同時に噛み砕く、不快極まりない破砕音だけが暗い廊下に響き渡る。

 肉が削ぎ落とされ、大量の血液が噴水のように天井と絨毯を汚染していく。リンビアは両腕で幹部の肉体を固定したまま、何の感情もなく、ただ純粋な捕食者として人間の肉と内臓を貪り喰らった。

 自らを「王」と崇め立てていたはずの配下の命を、単なるカロリーの摂取として胃の腑へと詰め込んでいく。


 その夜を境に。

 ハルモニアの内部から、リンビア派の幹部たちが次々と「行方不明」になり始めた。

 ギルドの資産を持ち逃げしたのか、あるいは内部抗争による暗殺か。残されたメンバーたちの間に猜疑心と恐怖が蔓延し、ギルドは機能不全へと陥っていく。


 だが、真実を知る者はただ一人。

 誰もいなくなった幹部室で、コルリはトビが用意した極秘の生体感知レーダーのモニターを見つめていた。

 ハルモニアのタワー地下深く。かつてマジュスクラ団長が特別な魔獣を隔離飼育するために作られた、強固な防壁を持つ広大な地下水路。

 そこから、人間ではない巨大な熱源が、複数の死体の熱と共に感知されている。


「……彼らは逃げたのではありません。すべて、あの地下の『生簀』へと引きずり込まれ……彼に食べられたのです」


 トビが感情の読めない声で宣告する。

 利権に目が眩み、化け物を見て見ぬ振りをした者たちが、自らが担ぎ上げた玉座の化け物の胃袋に収まるという、あまりにも皮肉で凄惨な末路。

 リンビアの理性は、もう完全に崩壊している。今やハルモニアの地下には、ただの強大なSランクモンスターが巣食っているのと同じだ。


「これ以上、被害を広げるわけにはいかない」


 コルリは自身の腰にある大太刀『祢祢(ネネ)』の柄を強く握りしめた。

 恩人が人生を懸けて築き上げたギルドを、これ以上ダイダロスの実験場にさせるわけにはいかない。そして何より、父親への歪な愛情とコンプレックスに支配されたまま、怪物の細胞に喰い殺されたリンビアという哀れな男の魂に、引導を渡さなければならない。


「トビ、地下水路への隔壁を開けて。……私が、終わらせる」


 雷の戦乙女の瞳に、静かな、だが決して消えることのない紫電の光が灯った。

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