043 アノマライザー計画
人類の進化は、とうの昔に停滞していた。
ミレポラは常々、人間の肉体の脆弱さと、魔力という不平等な才能に依存する社会の構造に限界を感じていた。どれほど高度な魔導兵器を開発しようとも、それを行使する「人間」という器が貧弱であれば、真の絶対的秩序を世界にもたらすことは不可能である。
彼女が立案した『アノマライザー計画』。それは、その進化の停滞を物理的に打破し、神の領域へと人類を強制的に引き上げるための禁忌の儀式であった。
強靭なモンスターの肉体器官と、極限の演算を可能にするアーキテクチャ。その「双方」を人間に直接融合させ、圧倒的な暴力と絶対的な知性を併せ持つ『究極の兵士』を造り上げる。
その過酷な負荷に耐えうる「器」として集められたのは、肉体が未成熟であり、魔獣の細胞への順応性が極めて高い年端もいかない幼い子供たちだった。
地下施設の無菌室に響き渡る絶叫は、彼女にとって研究データを刻むための単なる環境音に過ぎなかった。
手術台の上で拘束具に繋がれた幼子たちの皮膚が切り裂かれ、その背骨や神経の束に、強靭な魔獣の細胞が物理的に縫い付けられていく。しかし、大半の被検体は適合できず、悲惨な末路を辿った。
魔獣の持つ暴力的な生命力に、人間の脆弱な免疫機構が耐えきれなかったのだ。激烈な拒絶反応によって全身の細胞が内側から破壊され、皮膚が融解し、骨が砕け、ただの赤黒い肉塊へと変わっていく。
死臭と消毒液、そして肉が焼け焦げる匂いが濃密に立ち込める中、ミレポラは返り血で赤く染まった白衣を纏い、冷酷な目でモニターの数値を記録し、失敗作の焼却指示を出し続けていた。
何百、何千という無垢な命を、文字通りすり潰した果てに。
ついに、一つの『異形の成功例』が産声を上げた。
実験番号〇四五。当時、八歳であった一人の少年。
彼に移植されたのは、Aランク指定モンスター『ゴリアテ』の器官であった。自然界の理を破壊するほどの暴威を誇るその魔獣の、力の源泉である「魔力炉」と、鋼鉄よりも強靭な「筋繊維」。
手術の途上、少年の肉体は凄まじい変貌を遂げた。細かった手足はゴリアテの細胞に急速に侵食され、異常な細胞分裂を起こして膨張を始めたのだ。少年の本来の皮膚が内側から引き裂かれ、その下から赤黒く隆起した巨大な筋肉の鎧が形成されていく。
胸部の中央の肉が裂け、肋骨が砕かれる。そこへ、ゴリアテの心臓たる巨大な魔力炉が直接埋め込まれ、少年の大動脈と物理的に接続された。
炎と雷の莫大な魔力が少年の血管を駆け巡り、体表から発せられる超高熱が、手術室の空気を陽炎のように歪ませる。
肉体的な融合という点においてのみ言えば、それは完璧な成功だった。
しかし、その代償は少年の『人間としての理性』の完全なる崩壊であった。
数日後。分厚い防爆ガラスで覆われた特別培養槽を、その少年は素手で粉砕して這い出てきた。
年齢に似合わぬ異常な巨体へと成長を遂げ、肩幅が極端に広い丸太のような腕を持つ圧倒的な巨漢。だが、その瞳に知性の光は一切なかった。あるのは、魔獣ゴリアテから引き継いだ、純粋な破壊衝動と殺戮の飢えだけだった。
彼が咆哮を上げるたびに、胸部の魔力炉から炎と雷の嵐が吹き荒れた。鎮圧に向かった武装研究員たちは、その巨大な腕に掴まれるや否や、紙屑のように真っ二つに引き裂かれ、あるいは超高圧の雷撃によって瞬時に炭化させられた。
施設の一部が炎に包まれ、阿鼻叫喚の地獄と化す中。
ミレポラは安全な隔離室から、暴れ狂う炎と雷の獣を、極めて冷淡な、底知れぬ失望を込めた瞳で見下ろしていた。
「……肉体と魔力の出力は申し分ない。だが、これではただ人間の皮を被った魔獣に過ぎない。私の求める『人類の進化の結晶』には程遠いわ」
彼女が求めているのは、魔獣の肉体と神の演算の『双方』の統合である。獣の衝動に支配された失敗作に、アーキテクチャの極致を埋め込むことなど不可能であった。
ミレポラは即座に、冷酷な決断を下した。
「あの獣を捕獲しなさい。……そして、パンドラ社へ協力を要請するわ。アレの左半身の皮膚を剥ぎ取り、装甲を被せるの。理性が失われているのなら、機械の力で強制的に縛り付けるまでよ」
数ヶ月に及ぶ、常軌を逸した改造手術が行われた。
暴れる獣の四肢を分厚いチタン合金の鎖で縛り付け、麻酔すら効かないその巨大な肉体に、パンドラ社が開発した非合法なサイボーグ技術が容赦なく施されていく。
厳めしい武人のような顔つきに成長した彼の、左顔面から首筋、そして左半身の全ての肉が削ぎ落とされた。そこへ、直接脳神経へと干渉し、肉体の主導権を強制的に奪い取るハイテク超重装甲がボルトで打ち込まれ、物理的に溶接されていく。
左目は抉り取られ、代わりに感情の存在しない無機質な『琥珀色の義眼』が埋め込まれた。胸部で激しく脈打つゴリアテの魔力炉を封じ込めるように、分厚いクリアパーツの装甲が嵌め込まれる。
圧倒的な物理的暴力。枯渇することのない莫大な魔力。
そして、パンドラ社のマインドコントロール技術によって完全に自我を破壊され、命令のみに忠実に従う、心を持たない最強の傀儡。
魔獣の肉体という計画の半分を体現したその悲しき獣こそが、のちのダイダロス第1位となる男、ドフレイニアの誕生であった。
だが、最強の兵器を手に入れてもなお、ミレポラの魂の渇望が満たされることはなかった。
彼女の目的は兵器の開発だけではない。魔獣の力と並び立つ、神の領域の演算を可能にする『機神』の創造――。
そして、ドフレイニアの完成からさらに数ヶ月後。
何千という死体の山の果てに。
実験番号〇七三。六歳の、ひどく痩せ細った黒髪の少年が、手術台の上に運ばれてきた。
ミレポラは、その少年の生体脳に、自らが設計した『アーキテクチャを最効率で稼働させるための特殊な魔導回路』を直接刻み込む手術を行った。
本来であれば、生身の脳髄がその膨大な情報量と魔力負荷に耐えきれるはずがない。脳の血管が破裂し、即座に脳死に至るのがこれまでのデータが示す絶対的な結末だった。
しかし――
獣の力に支配されたドフレイニアとは対極に、その少年は奇跡を起こした。
特殊な魔導回路がもたらす暴力的な情報量に自我を破壊されることなく、少年の未発達な脳神経そのものが、回路の構造を自ら読み取り、それに適応すべく物理的に再構築を始めたのだ。
痛みに泣き叫ぶこともなく、麻酔から覚めた少年はただ静かに、虚ろな黒い瞳を開けていた。彼の細い血管を通して、脳内の魔導回路が青白く発光し、全身へと情報が駆け巡っている。
モニターに弾き出される、人類の限界を軽々と数千倍も超越した異常な演算数値。
ミレポラは培養槽の分厚いガラスにすがりつき、自身の爪が割れるのも構わずにガラスを掻き毟りながら、歓喜の絶叫を上げた。
「ああ……! 素晴らしい! 貴方こそが、人類の進化……神の領域に到達した、私の最高傑作よ!」
見つけた。ついに見つけた。
ミレポラの人生の全てが、その六歳の少年の瞳の中に集約された瞬間だった。
魔獣の肉体と、神の演算能力。この二つの器が揃ったことで、計画は次の段階、すなわちこの二つの力の完全なる統合へと進むはずだった。
だが、その狂信的な陶酔は、わずか二週間後に最も残酷な形で打ち砕かれることになる。
深夜――厳重極まりないはずの地下研究施設の物理セキュリティが、突如として次々と沈黙し始めたのだ。
外部からの襲撃ではない。六歳の少年が、その規格外の頭脳と、完全に定着した特殊な魔導回路を用いて、ベッドの上にいながらにして、思考のみで施設のメインサーバーを密かにハッキングしたのである。
強固な魔力防壁は紙屑のように破られ、少年は施設全体のインフラを完全に掌握。魔力炉の冷却システムを強制停止させ、臨界点を超えるオーバーライドを引き起こした。
分厚い隔壁が次々と吹き飛び、灼熱の爆風が研究員たちの肉体を瞬時に灰へと変えていく。
すべてを焼き尽くす業火と、崩落する瓦礫の雨。
その地獄の猛火の中、ミレポラは自身のドレスが燃え、美しい肌が焼け焦げることすら意に介さず、狂ったように血眼になって少年の姿を探し求めた。
炎の向こう側。崩れ落ちた鉄骨の隙間。
そこに、小さな影があった。
走るわけでも、怯えるわけでもない。燃え盛る炎の熱量も、崩落する天井の軌道も、脳内の魔導回路を極限まで駆動させて完全に演算し尽くし、ただ冷徹に計算された『生存の最短ルート』を歩み、闇の中へと消えていく少年の背中。
ミレポラが絶叫と共に伸ばした手は、煙の向こうへ消えたその小さな背中を、二度と掴むことはできなかった。
一方で、施設の最下層。
分厚い拘束衣に縛り付けられていた獣の成功例、ドフレイニアは、崩壊する施設の中でただ炎に焼かれながら、己の意思で逃げることすら許されず、パンドラ社の回収部隊によって無造作にコンテナに詰め込まれ、別の施設へと移送されていった。
――あの子だけが、私の奇跡。私の神。私のすべて。
「…………」
長い、長すぎる過去の幻影から現実へと引き戻され、ミレポラは恍惚とした、ひどく熱を帯びた吐息を漏らした。
彼女が立っているのは、重層都市バビロンを見下ろす、バルカン社本社の最上階に位置する特別応接室。
ミレポラは革張りのソファからゆっくりと立ち上がり、冷酷な女帝の瞳で、傍らに控えるオリンディアスを見据えた。
「オリンディアス。地下深層へ向かうわよ」
「……ドフレイニア様を、解き放つおつもりですか」
オリンディアスの感情の読めない問いに、ミレポラは深紅のルージュが塗られた唇を歪め、三日月のような笑みを浮かべた。
「ええ。彼には、本来の役目を果たしてもらう時が来たの」
バルカン社の最上階から、ミレポラとオリンディアスは専用の直通エレベーターに乗り込み、陽光が永久に届かない地下最深部の『特別保管区画』へと降下していった。
到着した地下空間は、冷たいコンクリートと無機質な金属の壁に囲まれた、巨大な霊廟のような場所だった。
何重もの生体認証と物理ロックを解除し、最も奥に位置する巨大な鋼鉄の隔壁が開かれる。
そこには、大地そのものを震わせるような重々しい呼吸音が響き渡っていた。
呼吸のたびに、周囲の空気が圧倒的な熱と魔力密度によって陽炎のように歪み、微かな青白い静電気が床の金属プレートを這い回る。
暗闇の中から姿を現したのは、人間の規格を完全に逸脱した、身長二一五センチ、体重一六〇キロに及ぶ、圧倒的な暴力の化身だった。
ダイダロス最強の男、ドフレイニア。
彼の右半身は、幾多の死線を越え、あらゆる命を蹂躙してきた厳めしい武人の顔つきと、無数の傷跡が深く刻まれた丸太のような極太の筋肉で構成されている。その隆起した筋繊維の一つ一つが、魔獣ゴリアテの恐るべき生命力を主張していた。
対照的に、左顔面から首筋、そして左半身のすべては、パンドラ社製の分厚いハイテク超重装甲と、複雑に絡み合う無機質な機械のケーブルによって完全に覆い尽くされている。生身と機械の、あまりにも歪な融合。
彼の胸部には分厚いクリアパーツの装甲が嵌め込まれており、その奥で、強靭な魔力炉が、彼自身の心臓として不気味な脈動を打っている。脈打つたびに、炎の赤と雷の黄金色の光が、彼の巨体を内側から禍々しく照らし出した。
ドフレイニアは、一切の言葉を発することはない。
極端に無口であるという次元を超え、マインドコントロールによって自我を完全に縛り付けられた彼の『琥珀色の義眼』には、ただ命じられた標的を粉砕し、肉塊に変えるためだけの、冷たく濁った殺意だけが灯っていた。
理性を失い、獣の力と機械の呪縛に囚われた悲しき成功例、ドフレイニア。
感情を殺し、神の演算と復讐の装甲を纏う至高の最高傑作、ヒバリ。
二十数年前。アノマライザー計画という狂気の坩堝が生み出した、二つの極端な果て。
決して交わることのなかった因縁の二つの軌跡が、長い年月を経て、今まさに血で血を洗う対消滅の舞台へと引きずり出されようとしていた。
「行きなさい、ドフレイニア」
ミレポラは、自らの手で生み出した哀れな獣を見上げ、甘く、そして残虐な命令を下した。
「私の愛しい最高傑作を、その腕で四肢をもぎ取ってでも、連れ戻してちょうだい」
命令を受諾した瞬間。
ドフレイニアの琥珀色の義眼が、システム起動の強烈な光を放った。
同時に、胸部の魔力炉が爆発的な咆哮を上げ、彼の足元の金属プレートが、溢れ出した超高熱の雷炎によって一瞬にしてドロドロに融解し始めた。




