042 不死
スカディ山の麓にひっそりと佇む、ソラリスの仮拠点。
石造りの広い部屋には壁際に大きな暖炉が据えられており、赤々と燃える炎が冷え切った空気を僅かに和らげていた。しかし、部屋を包み込む空気は、暖かさとは無縁の重苦しい緊張感に満ちていた。
部屋の中央に置かれた長大なソファには、テネブレの面々が身を沈めている。ヘテラクティス、ダシアティス、キロネクス、クリサオラ、そしてアラティナ。いずれも先ほどの死闘で負った深い傷に応急処置を施しただけの、痛々しい姿であった。
彼らと対峙するように、ハパロは向かいの単独のソファに深く腰を下ろしている。少し離れた壁際にはコルリが静かに寄りかかり、さらに部屋の最も暗い隅では、ヒバリが壁に背を預け、全員の様子を無言で観察していた。
薪が爆ぜる乾いた音が響いた後、沈黙を破ったのはヘテラクティスだった。
「……現状を、詳しく説明していただきたい」
疲労と痛みを押し殺した、ひどく強張った声だった。それを皮切りに、テネブレの面々に渦巻いていた困惑が一斉に噴き出す。
「なぜ、そこに彼がいるの」
クリサオラが鋭い視線を部屋の隅へと向ける。
「俺も同意見ッス。そいつはもううちをクビになった無関係の人間じゃないんスか。なんで隊長と一緒にいるんスか」
アラティナもそれに同調し、不審そうな目を向けた。
「ていうかハパロ、お前今までどこで何をしていたんだ? ずっと姿を消していたくせに」
ダシアティスが身を乗り出してハパロに詰め寄る。
「それより、あの氷の化け物はどうなったわけ? 私たちは気を失ってて……」
キロネクスが周囲を見回しながら問いかける。
「質問に答えてほしいッスよ。ヒバリさんがなんでいるすんかどういうことっすか!」
アラティナが気まずさと苛立ちを隠せず、ガムを強く噛み潰して再びヒバリの存在について追及した。
矢継ぎ早に飛んでくる質問攻めと、彼らの向けた疑心暗鬼の刃。
ハパロは深く息を吐き出すと、重みのある低い声で一喝した。
「落ち着け、お前ら」
かつてのソラリスにいた頃の彼とは違う、歴戦の戦士のような威圧感。その変貌にテネブレの面々が息を呑んで口を噤むと、壁際にいたコルリが口を挟んだ。
「私たちは、この二人に命を救われたのよ」
コルリの落ち着いた声が、室内の刺々しい空気を僅かに鎮めた。ヒバリは無表情のまま、一言も発することなく彼らのやり取りを眺めている。
ヘテラクティスがゆっくりと右手を挙げ、場を制した。
「……そういえば、リンビア殿は? 彼は我々と共にいたはずだが」
その問いに対し、ハパロの瞳に暗い影が落ちた。
ハパロは視線を逸らさず、雪山の地下室で起きた凄惨な出来事を淡々と語り始めた。リンビアがハパロたちを陥れようとしていたこと。そこへ現れた規格外の化け物。そして――機密保持のために、頭部に仕込まれた爆発物で無残に弾け飛んだ、リンビアの末路を。
語り終えた後、部屋には完全な静寂が落ちた。
「ば、馬鹿な……」
ヘテラクティスが血の気の失せた顔で呟く。他の面々も、あまりにも凄惨で信じがたい事実に言葉を失い、恐怖に顔を引きつらせていた。
「そんな、にわかには信じがたい話だ……。彼が我々を裏切っていたと? 一体、ハルモニアになんと報告すればよいというのだ……」
ヘテラクティスが頭を抱え、苦悩に顔を歪めた、その時だった。
「もはや、そんなことで悩んでいる場合じゃなくなったんだ」
部屋の隅にいたヒバリが、冷徹な声で会話に介入した。全員の視線が一斉に彼へと集中する。
「君たちは殺されかけた。何らかの目的のために、巨悪が君たちを抹殺しようと、氷の女王をけしかけたんだ。ポケル討伐直後というタイミングで」
淡々とした事実の羅列が、テネブレの面々の背筋を凍らせる。
「巨悪、とは……何のことだ」
震える声で尋ねるヘテラクティスに対し、今度はハパロが口を開いた。
「『ダイダロス』だ」
その単語が響いた瞬間、部屋の空気がさらに冷え込んだ。
ハパロは言葉を紡ぐ。自身が経験した襲撃。そして直近で世間を騒がせた不可解な事件の数々。姉であるファレノと自身が命を狙われたこと。ガストリディウムを瞬く間に抹殺した謎の黒いパワードスーツ。ファウンテンやオーラムで起きた大事件。
それらすべてが、点と点となって『ダイダロス』という謎の組織に繋がっているのだと。
「俺がこの一ヶ月間、姿を消していたのは、姉のファレノの安全を確保するためだった」
ハパロの言葉には、確固たる信念が宿っていた。
続けてヒバリが一歩前に出て、テネブレの面々を見据える。
「皆も、警戒を怠らないようにしてほしい。テネブレそのものが、すでにダイダロスの標的となっているかもしれない」
忠告を受けたテネブレの面々は、互いに顔を見合わせた。未だに全容が掴めない巨大な陰謀の話に、半信半疑の面持ちを隠しきれていない。
「……信じがたいが、我々が罠に嵌められ、命を落としかけたのは事実だ」
ヘテラクティスが重々しく頷き、ハパロへと向き直った。
「今回の事態は、当然ソラリスの団長に報告せざるを得ない。ハパロ……一度、ソラリスに戻ってきてはくれないか」
かつての上官からの、切切な懇願。
だが、ハパロは迷うことなく首を横に振った。
「すまない。まだやるべきことが残っている」
彼の決意は固かった。テネブレの面々は、その毅然とした態度に少し残念そうな顔を見せる。
暖炉の火が赤々と燃えているにもかかわらず、部屋の空気は晴れることなく、ただ重たく沈殿していくばかりだった。
◆◆◆
時間は、ヒバリたちが雪原で倒れているヘテラクティスたちを救助しに向かっていた頃へと少し遡る。
完全に崩落し、静寂だけが支配するセーフハウスの地下室。その密閉された空間に、突如として不自然なほど冷たい空気が流れ込み始めていた。
瓦礫の隙間から這うように侵入した冷気は、床に広がるリンビアのどす黒い血溜まりを瞬く間に凍結させていく。やがて、ひしゃげた鉄骨を無造作に蹴りのけ、一人の男が歩み寄ってきた。
グラウクス。
彼は顔の孔という孔から血を流し、絶命しているリンビアの死体を、路傍の虫けらを見るような極めて冷淡な目で見下ろした。
「ゴミめ」
吐き捨てるような一言。そこに同情や憐憫の色は一切ない。
彼が踵を返し、その場を立ち去ろうとした、まさにその時だった。
こと切れているはずのリンビアの死体が、微かに痙攣を起こした。
グラウクスが不快げに眉を顰める。やがてリンビアの身体は激しい痙攣へと移行し、突き刺さったままの鉄柱を無理やり引き抜くようにして、糸の絡まった操り人形のように不気味に立ち上がり始めた。
喉の奥から、人間のものとは思えない獣のような低い唸り声が漏れ出す。その両眼は異常なほど赤く染まり、完全に血走った濁った瞳が、憎悪に駆られるようにグラウクスを睨みつけていた。
機密保持の爆発で脳を破壊されてなお活動を再開する、死を逸脱した肉体。
しかし、その異様な光景を前にしても、グラウクスは微塵も動揺を見せなかった。
「やはり、欠陥品だな」
酷薄な声と共に、グラウクスの腕を覆う手甲に極低温の魔力が収束していく。
自我を失い、純粋な殺意の塊となったリンビアが、獣のようにグラウクスへと襲い掛かる。だが、その動きはグラウクスの目にはあまりにも遅すぎた。
グラウクスは一歩も退くことなく、絶対零度の冷気を纏った拳を、跳びかかってきたリンビアの腹部へと冷酷に叩き込む。
すさまじい物理的衝撃と、細胞そのものを凍てつかせる魔力の暴威。
リンビアの身体は後方へと大きく弾き飛ばされ、崩れかけたコンクリートの壁面に激突した。その衝撃で壁や周囲の瓦礫にまで霜が広がり、急激な温度低下によって白く凍りつく。
リンビアは壁に縫い付けられたまま完全に活動を停止し、再び深い意識の底へと沈んだ。
グラウクスは氷気を放つ手甲を下ろすと、気絶したリンビアの襟首を掴み、乱暴に肩へと担ぎ上げた。そして、瓦礫の山を越え、猛吹雪の吹き荒れる雪原へと歩みを進める。
地下室から少し離れた、視界の悪い雪山の雑木林。
そこには、純白の雪景色とは対極の、闇に溶け込むような装束を纏った男が静かに待ち構えていた。オリンディアスである。
「作戦は失敗のようですね」
常に恭しい態度を崩さないオリンディアスが、静かな声で問いかける。
グラウクスは何も答えず、背負っていたリンビアの身体をオリンディアスの足元の雪中へと無造作に投げ捨てた。
「だから俺は言ったんだ。こいつに任せるべきではないと」
不機嫌さを隠そうともしないグラウクスの言葉に、オリンディアスは薄く微笑む。
「今回のテネブレ部隊暗殺作戦は、彼のテストも兼ねていましたので。結果として不適合であったという、有益なデータは得られました」
その弁明に対し、グラウクスは鋭い眼光でオリンディアスを睨み返した。
「解せんな。奴の外堀から攻めていくという全体計画には概ね同意だったが、やり方があまりにも遠回りすぎる」
「ミレポラ様は、常に多くのことをお考えですので」
オリンディアスは、絶対的な忠誠を込めてその名を口にした。グラウクスは小さく舌打ちをし、それ以上の追及を諦めたように視線を逸らす。
「では、いきましょうか」
オリンディアスは雪に沈むリンビアの身体を、まるで羽毛でも扱うかのように片手で軽々と抱え上げた。
二人の姿は、猛り狂う吹雪の中へと音もなく溶け込み、後にはただ、不自然に凍てついた地下室の痕跡だけが残された。
◆◆◆
魔導と機械が極限まで融合した極東のメガロポリス、重層都市バビロン。
無数の魔導車が光の帯を作って飛び交うその街の中心には、都市のすべてを見下ろすように、バルカン社の超高層本社ビルが威容を誇ってそびえ立っている。
その最上階に位置する、外界の喧騒から完全に隔絶された特別応接室。
床には光を吸い込むような漆黒の大理石が敷き詰められ、壁面には最新の魔力防壁システムが幾重にも張り巡らされている。極めて無機質で、冷徹な機能美だけを追求したその空間の中央で、バルカン社社長であるミレポラは、最高級の革張りソファに深く腰を沈めていた。
深紅のイブニングドレスの上に、使い古された研究者の白衣を羽織るという特異な出で立ち。彼女の艶やかな銀髪と、二十代にしか見えない完璧な美貌が、部屋を照らす冷たい間接照明の光を妖しく反射している。
彼女の傍らには、雪山にいるものと全く同じ容姿をした、完璧な美少年の端末――もう一つのオリンディアスが、彫像のように静かに佇んでいた。
室内の空間に、青白いホログラムモニターが展開される。
そこに映し出されたのは、猛吹雪の雪原に立つグラウクスと、凍結したリンビアの死体を抱える雪山側のオリンディアスの姿であった。
『――リンビアのテストは失敗に終わりました。しかし、それ以上に特筆すべき事項が一つ』
通信越しのオリンディアスが、感情の読めない声で報告を紡ぐ。
『この一ヶ月間、我々の監視網から完全に姿を消していたヒバリが、スカディ山に現れました。未知の重装甲アーキテクチャを展開し、深き者を殲滅』
その名が出た瞬間、ミレポラの手の中で燻っていた煙管型の電子ハーブの動きが、微かに止まった。
驚愕ではない。彼女の形の良い唇が三日月のように歪み、完璧なプロポーションの奥底から、どす黒く、そして甘美な歓喜の炎が這い上がってくる。
「……そう。潜伏を終え、ついに自ら舞台へと上がってきたのね」
ミレポラは紫煙を深く肺へと吸い込み、ホログラムの通信を切断するよう手で合図を送った。
モニターが消失し、バルカン社最上階の部屋に再び重苦しい静寂が戻る。彼女はソファの背もたれに頭を預け、冷たい天井を見上げた。
傍らに立つオリンディアスが何かを報告しようとするのを手で制し、ミレポラの意識は、ゆっくりと、しかし確実に、二十数年前の血塗られた記憶の底へと沈み込んでいく。
――それは、世界から完全に隔離された、冷たく無機質な地下研究施設での狂気の日々。




