041 不穏な影
雪原を焦がした破壊の熱狂が去り、極寒の山嶺に再び絶対的な静寂が降り積もり始めていた。
深き者を討伐し終えたヒバリは、すでに役目を終えたイージスの重装甲を解除し、元の白いYシャツ姿へと戻っていた。極度の消耗に肩で息をするハパロとコルリと合流し、三人は完全に崩落したセーフハウスの跡地へと無言で足を踏み入れる。
巨大な質量が天井を貫通し、すべてを押し潰した地下室の惨状は目を覆うものだった。砕け散ったコンクリートの塊と、ひしゃげた鉄骨の隙間から、ひどく掠れた声が漏れ聞こえてくる。
「たす……けて……」
幾重もの瓦礫の下敷きになっていたのは、此度の襲撃の引き金を引いたリンビアだった。
崩落のすさまじい衝撃によって、彼の身体には何本もの太い鉄柱が深々と突き刺さっており、大量の血液が周囲の瓦礫をどす黒く染め上げている。もはや致命傷であることは、誰の目にも明らかだった。
かつての権力を笠に着た傲慢な薄ら笑いは完全に消え失せ、死の恐怖と激痛に歪んだ顔が、見下ろす三人へと必死に向けられる。
「助けてくれ! なんでも話すから! 頼む! ダイダロスのことすべて話すから!」
涙と自らの血に塗れた顔で、リンビアは泣き喚きながら懇願した。テネブレの精鋭を罠に嵌め、コルリを蹂躙しようとした男の、あまりにも惨めな末路。
ハパロは同情の余地もない冷徹な視線で彼を見下ろし、ダイダロスの情報をすべて吐き出させようと歩み寄った。
しかし、その直後だった。
リンビアの体内で、ひどく鈍く、くぐもった震動が響いた。
それは頭蓋骨の内側で、何かが物理的に破裂したような異様な響きだった。
「え……?」
コルリが息を呑む。
リンビアの命乞いの声が、唐突に途切れた。彼の両眼が、眼窩からこぼれ落ちんばかりに異常なほど膨張し、限界を超えた眼球の毛細血管が次々と断裂していく。
そして次の瞬間――目、鼻、耳、口。顔面にあるあらゆる孔という孔から、どす黒い血液が止めどなく溢れ出した。
痛みを訴える断末魔すら上げる間もなく、リンビアの身体は糸の切れた傀儡のように完全に弛緩し、生気を失った肉塊へと成り果てた。
冷たい風が、地下室に充満する濃密な血の匂いを攫っていく。
あまりにも凄惨で、かつ不自然な最期を前に沈黙するハパロとコルリ。その傍らで、ヒバリは感情の読めない静かな声で、冷淡な事実だけを口にした。
「……おそらく彼の頭に、爆発物が仕込まれていたのだろう」
機密を漏らそうとした瞬間に作動する、自動的な口封じ。
ダイダロスという組織の底知れぬ闇の深さと、リンビアという男が彼らにとって単なる使い捨ての駒に過ぎなかったという事実が、凍てつく冷気と共に三人の心に重くのしかかっていた。
◆◆◆
深い意識の底から引き上げられたのは、肌を刺すような極寒のせいだった。
雪原に倒れ伏していたヘテラクティスが重い瞼を開くと、どんよりとした鉛色の空が視界に広がった。全身の骨が軋むような痛みを覚えながら身を捩ると、頭上から一つの影が落ちた。
「立てるか」
差し出された手と、その声の主を見上げ、ヘテラクティスは己の目を疑った。
「ハパロ……? なぜ、お前がここに……」
ソラリスを去り、決別したはずの男がそこにいた。極限状態による幻覚か。困惑に思考が追いつかないまま、ヘテラクティスは無意識にその手を掴み、雪の中から身を起こす。
さらに視線を巡らせた先、傍らに佇む白いYシャツ姿の青年の顔を認め、ヘテラクティスはさらなる驚愕に目を見開いた。
「ヒバリまで……どういうことだ。一体何が起きている」
「詳しい事情はあとで話す。まずは麓まで降りるぞ」
ハパロは短く告げ、ヘテラクティスの疑問を制した。周囲には彼を薙ぎ払った氷の女王の残骸はなく、ただ地形すら変わるほどの異常な戦闘の爪痕だけが雪原に刻まれている。ダシアティスやアラティナたちも近くの雪だまりで気を失っているのが見えた。ヘテラクティスは痛む身体を引きずりながら、この不可解な状況を飲み込むしかなかった。
◆◆◆
下山の準備を進める中、ヒバリとコルリの二人は、再び完全に崩落したセーフハウスの地下室へと足を運んでいた。
目的は、先ほど息絶えたリンビアの死体の状態を最終確認するためであったが、二人はそこにあるはずの光景の欠落に足を止めた。
「……ないわね」
コルリが短く呟く。
幾重にも重なる瓦礫と、突き刺さった鉄骨。血の海だけが赤黒い染みとなって残されているものの、そこにあるべきリンビアの死体は跡形もなく消え失せていた。
もぬけの殻となった空間を観察し、ヒバリの目が鋭く細められる。
地下室の壁面や砕けた床、飛び散ったコンクリートの破片の表面に、薄っすらと霜が降り、凍結しているのが見受けられたのだ。
「外気による冷え込みじゃないね」
ヒバリは指先で瓦礫の表面をなぞり、即座に断言した。気温の低下による自然な凍結ではなく、魔力的な干渉を伴う、極めて人為的な冷気による現象。
「おそらく、誰かが彼の死体を連れ去ったのだろう」
死してなお、ダイダロスは彼らの手駒を回収しに来たのか。それも、極めて高度な氷の魔法を扱う何者かを差し向けて。
得体の知れない冷気を帯びた地下室を見つめながら、ヒバリとコルリの胸の内に、新たな不穏の影が静かに落とされていた。




