039 闇の魔法
雪原に刻まれるのは、視認すら困難な速度で繰り出される死闘の軌跡だった。
ヒバリの操る対ハンター用自己防衛アーキテクチャ『パラディウム』は、その基本性能のすべてを稼働させてなお、眼前のSランクモンスター『深き者』の圧倒的な身体能力に押され始めていた。
熱量圧縮砲を放つための照準を合わせるコンマ数秒の隙すら与えられない。深き者の硬質な鱗に覆われた拳や脚が、空気を叩き割るような風圧と共にパラディウムの装甲を捉えるたび、白亜のボディに深い亀裂と歪みが刻まれていく。
その絶体絶命の死闘の最中。
完全に破壊された偽装ロッジの大穴から、血と土埃にまみれた人影が雪原へと躍り出た。
意識を取り戻し、痛む腹部を押さえながら戦場に駆けつけたハパロクラエナだった。
「ヒバリ、退けッ!」
ハパロは雪を蹴り、新生した愛剣『カランサルティア』を上段に構え、深き者の死角へと肉薄した。
彼の周囲の空気に、瞬く間に幾十もの幾何学的な魔法陣が展開される。
「――『白銀の流星』!」
ハパロの剣閃に呼応し、魔法陣から無数の光の弾丸が射出された。それは吹雪を切り裂きながら、逃げ場のない飽和攻撃となって深き者の漆黒の背中へと殺到する。
さらにハパロは歩みを止めず、カランサルティアの刀身に極限まで圧縮した光の魔力を纏わせた。
「『閃光の断頭台』!!」
巨大な光の刃が、深き者の首元を斜めに断ち斬らんとする。
しかし。
光の弾丸群も、必殺の光刃も、深き者の身を包む漆黒の鱗に触れた瞬間、硬質な破砕音を立てて無残に弾け散った。
直撃を受けているにもかかわらず、深き者の巨体は微動だにしない。傷一つ、焦げ跡一つすら刻むことができなかったのだ。
「馬鹿な……!」
ハパロの顔に、愕然とした色が浮かぶ。
パラディウムの打撃すらも耐え凌ぐ絶対的な装甲硬度。人間の放つ魔法など、そよ風に等しいと言わんばかりの理不尽な耐久力だった。
鬱陶しそうに背後を振り返った深き者が、不意にその動きを止めた。
怪物の赤い双眸が細められ、右の掌がゆっくりと天に向けられる。
その瞬間、周囲の雪原の温度が急激に低下するのとは全く別の、名状しがたい『悪寒』がハパロたちの背筋を撫でた。
深き者の掌の上に、周囲の光を全て吸い込むような『完全な漆黒の球体』が生成され始めたのだ。
「……ハパロ、離れろ!!」
パラディウムの外部スピーカーから、これまでになく焦燥に満ちたヒバリの絶叫が響いた。ヒバリの網膜スクリーンが、その黒い球体から発せられる波長を『解析不能な致命的脅威』として真っ赤な警告色で埋め尽くしていた。
ハパロが咄嗟に後方へと跳躍した、その直後。
深き者は、掌の上の黒い球体を、両手で挟み込むようにして無造作に叩き潰した。
音が、消えた。
叩き潰された黒い球体を中心にして、漆黒のドーム状の結界が爆発的に膨張した。
それは破壊という現象ではなかった。
黒いドームが通過した空間にあったはずの舞い散る雪、冷たい大気、そして強固な凍土。そのすべてが、まるで最初からこの世界に存在していなかったかのように、音もなく『消滅』したのだ。
結界が収束した後に残されたのは、球状にえぐり取られた、完全な虚無の痕跡だけだった。
「……な、なんだ、今の魔法は。地面が、消えた……?」
間一髪で結界の範囲外へ逃れたハパロが、えぐり取られた雪原の断面を見て戦慄の声を漏らす。
「……闇の魔法だ」
パラディウムが重々しい駆動音を立ててハパロの傍らに並び立ち、ヒバリが酷く緊迫した声で告げた。
「火、水、氷、風、雷、土。自然界を構成する六つの基礎魔質とは完全に逸脱した、あらゆる物質の構造を崩壊させ、無に帰す禁忌の力。……結界にほんの少しでも触れれば、細胞一つ残らず消し去られる。完全な死だ」
ハパロは息を呑んだ。
闇の魔法。噂には聞いたことがあった。過去にその力に魅入られ、人為的に操ろうとした研究者やハンターたちが、自らの肉体を消滅させて命を落としたというおとぎ話のような禁忌。
その原理がいまだ解明されていないため、人類には決して扱うことのできない神の領域の力。
「……それが、Sランクモンスターに指定される絶対条件というわけか」
ハパロの額から、極寒の雪原であるにもかかわらず冷たい汗が流れ落ちた。
物理的な硬度も、防御魔法も、一切の盾が意味をなさない。触れれば終わりの、理不尽極まりない虚無の捕食者。
「ハパロ」
絶望的な沈黙を破るように、ヒバリが静かに、だが確かな力強さを込めてハパロの名を呼んだ。
「六つの基礎魔質では、あの闇の浸食は防げない。だが……唯一、あの禁忌の魔法と対消滅を起こし、打ち消すことのできる性質がある」
「まさか……」
「君の魔法は、光の性質だ。ハパロ、深き者の闇魔法に対抗できるのは、この戦場で君しかいない!」
ヒバリの言葉に、ハパロは己の手にある新生カランサルティアを強く握り直した。
彼が操る高密度の魔力による連撃は、希少な『光の魔質』を帯びている。今まで彼が王都の頂点に君臨できたのは、ヒバリの設計した剣の性能だけでなく、彼自身が持つその極めて稀有な才能ゆえでもあったのだ。
「……上等だ」
ハパロの翡翠色の瞳に、かつての天才剣士としての強烈な矜持と、絶対に退かないという死狂いの光が宿った。
彼はカランサルティアの美しい刀身に、己の生命力を削るほどの膨大な魔力を注ぎ込む。剣身が眩いばかりの純白の光を放ち、雪原の暗闇を真昼のように照らし出した。
同時に、深き者の掌の上で、あらゆる光と物質を食い尽くす完全な漆黒の球体が形成される。それが再び弾ければ、今度こそ逃げ場はない。
「させるかッ!」
ハパロクラエナが、生命力を削り出すような咆哮と共にカランサルティアを天へと突き上げた。
刀身から迸る極限の光の魔力が、幾何学的な魔法陣を雪空に展開する。
「――『貫く光天』!!」
魔法陣から放たれたのは、一条の極太の光の槍だった。それは吹雪を切り裂き、深き者の掌の上で膨張しようとしていた漆黒の球体へと真っ直ぐに突き刺さる。
光と闇。相反する絶対的な二つの魔質が激突した瞬間、空間が軋むような無音の衝撃が発生した。破壊は起きない。光の槍が闇の球体を包み込み、そのまま静かに『対消滅』を引き起こして虚空へと霧散したのだ。
「今だ!」
闇魔法が完全に無効化されたその僅かな隙を、ヒバリが見逃すはずはなかった。
パラディウムの背部スラスターが爆発的なプラズマを噴き上げ、白亜の装甲が音を置き去りにして深き者の懐へと飛び込む。動力コアから右腕へと莫大なエネルギーを伝達し、最大火力の拳を怪物の顔面へと叩き込もうとする。
しかし。
深き者は闇魔法を打ち消された直後であるにもかかわらず、その赤い双眸を鋭く光らせ、パラディウムの拳を迎え撃つように漆黒の拳を突き出した。
パラディウムの白亜の拳と、深き者の硬質な鱗に覆われた拳。
二つの規格外の暴力が真正面から激突した。
大気が悲鳴を上げ、足元の雪原がクレーター状に爆発的に抉り取られる。パラディウムの圧倒的な質量と推力をもってしても、生態系の頂点たる怪物の膂力を上回ることはできなかった。
互いの破壊力が拮抗し、パラディウムと深き者は激しい衝撃波と共に、互いに後方へと大きく弾き飛ばされた。
「くっ……!」
ヒバリは空中で姿勢制御を行い、雪面を滑るように着地する。
一方、着地した深き者の視線は、パラディウムではなく、一人の人間――ハパロへと固定されていた。
自分の絶対的な力である『闇』を無に帰した、光の魔法の使い手。Sランクモンスターの本能が、ハパロを「最優先で排除すべき脅威」として明確に認識したのだ。
深き者の巨体が瞬時に消えた――。
神速の踏み込み。迫り来る漆黒の死神に対し、ハパロは退かずにカランサルティアから光の連撃を放つ。だが、光の魔法は闇を打ち消すことには特化していても、深き者を覆う常軌を逸した装甲硬度を貫くほどの物理的な破壊力は備えていなかった。
放たれた光の刃は、漆黒の鱗に傷一つ刻むことなく無残に弾かれ散っていく。
ハパロの迎撃を意に介さず、深き者は再び掌の上に漆黒の球体を生み出した。
今度はそれを周囲に展開するのではなく、両手で挟み込むようにして強引に叩き潰し、極度に圧縮する。
直後――
圧縮された虚無の闇が、一条の『漆黒のレーザー』となってハパロの心臓へと一直線に射出された。
(速い……ッ!)
ハパロの天才的な動体視力はそれを捉えていたが、肉体がそれに追いつかない。回避不能の速度で迫る、触れれば細胞一つ残らず消滅する絶対死の光線。
ハパロが死を覚悟した、その刹那だった。
横合いから、黄金色の閃光が雪原を切り裂いて飛来した。
閃光はハパロの身体に猛烈な勢いでタックルし、彼を射線上から強引に弾き飛ばす。
直後、ハパロが先ほどまで立っていた空間を漆黒のレーザーが通過し、背後にあった雪原の地表を、音もなく、球状にえぐり取って完全に消滅させた。
「がはっ……! な、何だ……!?」
雪面を転がり、むせ返るハパロ。
彼を助け起こしたのは、全身から激しい黄金色の雷光を立ち昇らせている、見慣れた女剣士だった。
「まったく……エリート様が、情けない顔を見せないでよね」
「お前、動けるのか!?」
「あんな三流の蹴りくらいで、私が沈むわけないでしょ。少し、休憩させてもらってただけよ」
肉体を極限まで活性化させる『雷纏』の魔法を纏ったコルリは、凛とした顔で立ち上がり、腰に提げた大太刀『祢祢』の柄に手をかけた。
「ヒバリさん……だよ、ね? お、遅れてごめんなさい!」
「無事でよかった。……相手はSランクだ。油断しないでくれ」
パラディウムが重い駆動音を立てて二人の傍らに並び立つ。
光の天才剣士、雷の戦乙女、そして白亜のパワードスーツ。三人の戦力が一つになり、漆黒の怪物との総力戦が幕を開けた。




