038 深き者
一階の病室。暖炉の薪がはぜる音が、静かな空間に微かに響いていた。
「……でも、なぜ『操獣の魔鉱石』が、よりによって氷の女王の体内に埋め込まれていたの?」
コルリはベッドに浅く腰掛けたまま、ヒバリに向けて純粋な疑問を投げかけた。
ポケルを討伐した直後に現れた、あの規格外の氷の巨人。もしあれが自然発生したものではなく、魔鉱石によって操られていたのだとすれば、実行犯は相当な危険を冒してあの怪物を雪山に解き放ったことになる。
「以前にも、似たような事例があってね」
ヒバリは、ファウンテンの街を襲ったAランク指定モンスター『カルコサ』の顛末を静かに語った。あの時も、討伐された竜の延髄から全く同じ構造の魔鉱石が発見されたのだ。
「この魔鉱石のシステムは、極めて高度で複雑なアーキテクチャだ。ただモンスターの脳に石を埋め込めばいいというものではない。現地の気候や地磁気の乱れを計算し、専用の端末を使って、対象の脳神経を完全に支配するための『波長』を精密に同調させ続ける必要がある。……そんな狂ったマネをミスなく遂行できる人間は、世界中を探してもごく一握りだ」
「その稀有な人材のひとりがリンビアだっていうの?」
コルリは信じられないといった様子で眉をひそめた。
リンビアという男の底の浅さと、ハンターとしての実力の無さは、戦場での立ち振る舞いを見れば一目でわかる。あれほどの緻密な制御を、あんな小悪党が一人でこなせるとは到底思えなかった。
「彼自身の能力かどうかは分からない。だが、ハルモニア団長の息子という立場を利用すれば、ダイダロスから支給された『制御用の自動化デバイス』を隠し持っていたとしても不思議じゃない。彼には、それを実行するだけの動機と悪意があった」
ヒバリがそう推測を口にした、その時だった。
ヒバリの左手首に埋め込まれたインプラントが、皮膚を焼くほどの熱を発し、視界の網膜スクリーンに『計測不能』の真紅のアラートを無数に弾き出した。
同時に、歴戦の剣士であるコルリの全身の産毛が、一斉に逆立った。
「……ヒバリ、さん」
「ああ。分かっている」
二人の会話が、唐突に途切れる。
暖炉の火が、まるで目に見えない巨大な圧力に押し潰されたかのように、不自然に小さく萎んだ。
空間の温度が急激に下がり、肺に吸い込む空気がガラスの破片のように冷たく、痛い。それは、単なる魔力の高まりなどではない。生物の本能に直接死を予感させる、濃密で純粋な『殺気』の塊が、このセーフハウスの真上から迫ってきているのだ。
ヒバリは瞬時に立ち上がり、コルリを庇うように一歩前に出た。
コルリもまた痛む身体に鞭を打ち、ベッドの脇に立てかけてあった大太刀『祢祢』の柄に手をかける。
彼らが上空の異変に備えて身構えた、まさに次の瞬間だった。
鼓膜を物理的に叩き割るような、壮絶な破砕音が頭上から降り注いだ。
偽装ロッジの強固な木造の屋根が、まるで薄い紙細工のように爆発的に粉砕される。
猛烈な吹雪と大量の建材の破片が室内に舞い込む中、空から飛来した『規格外の質量の塊』が、隕石のような速度で一階の床に激突した。
しかし、その物体は一階のフロアで停止することはなかった。
厚い木材の床が悲鳴を上げて弾け飛び、巨大な穴が開く。
ヒバリとコルリの視界をほんの一瞬だけよぎったその『何か』は、凄まじい運動エネルギーと破壊の余波を撒き散らしながら、そのまま一階を貫通し、ハパロとリンビアがいる地下室へと一直線に落下していった。
「地下へ行った……! ハパロ!」
ヒバリは床にぽっかりと開いた大穴の縁に駆け寄り、吹き上がる土煙の奥の暗闇を見下ろした。
そこから這い上がってくる気配は、これまで彼らが対峙してきたどの敵のデータとも一致しない、全く次元の違う『深淵』の底知れなさを含んでいた。
◆◆◆
頭上から突き抜けてきた破壊の余波が、薄暗い地下室に大量の土煙とコンクリートの破片を撒き散らした。
カランサルティアの柄を握りしめ、ハパロクラエナは土煙の晴れゆく空間へと鋭い視線を向ける。
横倒しになったパイプ椅子に縛り付けられたまま、リンビアが埃にむせながら悪態をついていた。
だが、ハパロの意識はすでにその小悪党からは完全に離れていた。リンビアのすぐ背後、天井から貫通した大穴の真下に、『それ』は降り立っていたのだ。
「……嘘だろ」
ハパロの喉から、乾いた呻きが漏れた。
これまで数多の死線を潜り抜け、Aランクモンスターとも対峙してきた彼の本能が、警鐘を鳴らすことすら放棄して凍りついている。
身長はおよそ二メートル。人間の男に近い骨格をしていながら、その全身は光を乱反射する漆黒の粘液と、分厚い鱗に覆われていた。
そして何よりも異質なのは、その頭部だった。人間としての器官が削れ落ちたような平坦な顔面に、深海魚を思わせる巨大なエラと裂けた口。そこには知性ではなく、ただ純粋で底知れぬ捕食者の飢えだけが張り付いている。
暗闇の中で、血のように赤くぎょろりとした双眸が、じっとハパロを見据えていた。
世界に十数体しか存在が確認されていない、生態系の絶対的頂点。
遭遇すること自体が「死」と同義とされるSランク指定モンスター、『深き者』。
なぜ、歴史上の災厄とも呼べる存在が、王都から遠く離れたこの雪山の地下室にいるのか。ハパロの思考が完全に追いつく前に、場の空気を読まない甲高い声が響いた。
「おい! とっととこの手錠を外せ! 俺が誰だか分かってんのか!」
床に転がったままのリンビアが、背後の怪物に気づいていながら、己の命の危機よりも不快感を優先して喚き散らしていた。自分が操獣の魔鉱石のシステムを持っていれば、この怪物すらも己の駒として従えられると信じ込んでいるかのような、底知れぬ傲慢さだった。
「黙れ! 動くな!」
ハパロは新生したカランサルティアに急激な魔力を流し込み、極限の臨戦態勢をとった。
しかし。
彼が防御の魔法陣を展開しようとした、まさにその一瞬の隙間。
漆黒の怪物の姿が、ハパロの網膜からフッと消失した。
動体視力が追いつかなかったのではない。ハパロの持つ天才的な空間認識能力の限界を、怪物の純粋な『速度』が完全に上回ったのだ。
視界がブレた次の瞬間には、深き者はハパロの懐へと潜り込んでいた。
回避も、防御も、一切の思考を許さない速度。漆黒の鱗に覆われた硬質な拳が、空気を叩き割る破砕音と共に、ハパロの腹部へと深々と突き刺さった。
「ァ、が……ッ」
カランサルティアが床に転がり落ちる。
内臓が完全にひしゃげるような衝撃がハパロの身体を貫き、彼の長身は文字通り弾丸のように後方へと吹き飛ばされた。分厚いコンクリートの壁に激突し、亀裂を走らせて崩れ落ちる。
ハパロは一筋の血を吐き出し、そのままピクリとも動かなくなった。一撃での完全な意識の刈り取り。
「おい! 聞いてるのか! 早く俺をほどけ!」
ハパロが壁に叩きつけられたというのに、リンビアは未だに事の重大さを理解せず、苛立たしげに深き者に向かって命令を叫び続けていた。
だが、深き者は足元のリンビアに一瞥すら与えなかった。捕食者にとって、喚く餌などいつでも屠れる。怪物の赤い双眸は、壁際で倒れ伏したハパロを「まだ息がある」と認識し、確実なとどめを刺すべくゆっくりと歩みを進めた。
その時。
頭上の大穴から、凄まじい熱波と青白いプラズマの炎が降り注いだ。
重厚な着地音が地下室を揺らす。
白亜の流線型の装甲。全身を這い回る真紅のエネルギーライン。ヒバリが展開した自己防衛アーキテクチャ『パラディウム』が、ハパロと深き者の間に割って入るように降り立った。
「わかった! いいから、まずはそこの金髪を殺せ!」
リンビアが血走った目で喚き、ハパロの抹殺を指示する。
だが、深き者はまたしてもその命令を無視し、ピタリと足を止めてパラディウムの方へと首を向けた。本能が、眼前にある白亜の機械が「最大の脅威」であると認識したのだ。
パラディウムのバイザーの奥で、ヒバリは信じられないものを見るように息を呑んでいた。
網膜スクリーンに表示される対象の魔力波長と骨格データが、ゼニスのデータベースに登録されている最悪の災厄のデータと完全に一致している。
(Sランクモンスター……深き者。こんな場所に、なぜ生きているSランクが……)
驚愕に思考が支配されかけた直後、深き者が動いた。
再びの神速。空気が歪むほどの踏み込みで、漆黒の怪物がパラディウムの眼前へと迫る。
ヒバリは即座に思考を切り替え、スラスターを全開にして迎撃の姿勢をとった。
怪物の放つ一撃を、パラディウムの腕部装甲を交差させて受け止める。二つの規格外の力が激突し、地下室の空気が爆発したように弾け飛んだ。
ヒバリは反撃のエネルギーダガーを展開し、深き者の急所を狙う。だが、深き者はその刃を鱗で覆われた腕で軽々と弾き返し、人間離れした柔軟な体術でパラディウムの死角へと回り込んだ。
装甲の背後から、深き者の渾身の蹴りが放たれる。
強固な魔力障壁が展開されるよりも早く、物理的な破壊の塊がパラディウムの背中を正確に打ち抜いた。
金属が悲鳴を上げる音が響き、ヒバリの視界が激しく揺れる。
規格外の衝撃を吸収しきれず、パラディウムの機体は重力を無視したように上方向へと激しく吹き飛ばされた。
ヒバリの身体は、自身が先ほど一階からぶち抜いた大穴を逆再生するように通り抜け、そのまま偽装ロッジの木造の屋根を完全に粉砕して、外の空間へと放り出された。
冷たい風が頬を打つ。
パラディウムは空中での姿勢制御システムを稼働させ、スラスターの逆噴射でかろうじて着地の体勢を整える。
眼下に広がるのは、夜の闇に沈む白銀の雪原。完全に半壊した仮拠点のロッジを背に、パラディウムの重い脚部が深く雪を踏みしめた。
休む間もなかった。
破壊されたロッジの屋根の穴から、漆黒の影が跳躍し、凄まじい跳躍力で雪原へと飛び出してきた。
雪の降る平原の中央。
音を吸収するような静寂の白銀を背景に、白亜の装甲と漆黒の怪物が対峙する。
真紅のバイザーと、血走った赤い瞳が交差した。




