036 卑劣な男
荒れ狂っていた吹雪が嘘のように静まり返り、冷たい風だけが氷の巨人の骸を撫でていく。
コルリは肩で大きく息をしながら、変形させていた『祢祢』の刀身を元のサイズへと戻し、ゆっくりと鞘に納めた。
全身を活性化させていた雷の魔力が抜け落ちると同時に、激しい疲労と筋肉の断裂にも似た痛みが彼女の身体を襲う。Aランクモンスターを立て続けに単騎で屠るという規格外の戦闘は、彼女の強靭な肉体をも限界の縁まで追い込んでいたのだ。
「……ん?」
雪原に膝をつきそうになるのを堪え、コルリはふと、崩れ落ちた氷の女王の巨大な切断面に目を留めた。
青白い氷と鋼鉄の皮膚の奥。巨人の体液とは明らかに異なる、不自然な『何か』が埋まっていた。
それは握り拳ほどの大きさの鉱石で、生命活動を停止したはずの巨人の肉体の中で、未だにチカチカと赤黒く不気味な脈動を繰り返している。自然界の魔獣には絶対に存在し得ない、人工的で禍々しい魔力の波長だった。
(あれ、なに…………?)
コルリの優れた直感が、この異常事態の裏に潜む巨大な悪意の存在を嗅ぎ取った。
しかし、彼女がその赤い鉱石に歩み寄ろうとした、まさにその刹那だった。
突如として、背後から凄まじい質量を伴った硬質な衝撃が、コルリの無防備な背中を打ち据えた。
「――がはっ!?」
防御する間すら与えられなかった。
肺から空気が弾き出され、コルリの身体は雪原を数メートルも吹き飛び、無様にうつ伏せに倒れ込んだ。
口の中に鉄の味が広がる。先の激闘で魔力を限界まで使い果たし、肉体的なダメージも蓄積していた彼女は、すぐには立ち上がることができなかった。
視界が激しく揺れる中、コルリを背後から殴り飛ばした『何者か』が、雪を踏みしめて悠然と近づいてくる。
「……っ、リンビア……!?」
「ったく。あのバケモンに大人しくやられとけってのによぉ。余計な体力使わせやがって」
頭上から降ってきたのは、苛立ちを隠そうともしない、軽薄な男の声だった。
コルリが痛みに顔を歪めながら見上げると、そこにはリンビアが立っていた。
彼はハルモニアの制服の上にじゃらじゃらと着け歩いていた高価な魔導具の一つ――右腕に装着した重厚な『魔力増幅ガントレット』から微かな放電の煙を上げながら、ひどく冷めた目でコルリを見下ろしていた。
再度、リンビアの容赦のない蹴りが、彼女の無防備な腹部へと深く突き刺さった。
「あ、ぐぅっ……!」
「ははっ! なんだよ、さっきまでの威勢はどうした?」
リンビアは、腹を抱えて悶え苦しむコルリを見下ろし、ゲラゲラと下劣な笑い声を上げた。
雪に這いつくばるコルリの美しい顔と、苦痛に歪む艶やかな唇を見下ろしているうちに、彼の眼に浮かんでいた苛立ちは、徐々に卑劣で粘着質な『欲情』へと変わっていった。
「……まあいいや」
リンビアは舌なめずりをし、コルリに向かって顔を歪ませた。
「俺さー、前からお前に一発かましてみたかったんだよなあ!」
彼は歓喜の声を上げながら、下品な視線でコルリの全身を舐め回した。
普段は団長の息子である自分に対して、冷たい猫のような目つきで反抗的な態度ばかりとるこの生意気な副長。その女が今、自分の足元で無様に血を流して転がっているのだ。彼の小者ゆえのサディズムが、これ以上ないほどに満たされていく。
「ああ! 寒さで縮こまってたくせによぉ! お前のその無様なツラ見てたら、段々段々興奮してきて元気もりもりしてきたわぁっ!」
これから何をしようとしているのか、その言葉が意味する悍ましい暴力の気配に、コルリは全身の毛穴が粟立つのを感じた。
力を振り絞り、腰の『祢祢』へと手を伸ばそうとする。
しかし、リンビアはそれを許さなかった。
彼は残忍な笑みを浮かべたまま、コルリの腹部をさらに容赦なく蹴り上げ、彼女が苦痛に身を丸めた瞬間、その細い手首を高級な革靴で渾身の力で踏み躙った。
「あぁっ……!」
「おっと。余計な抵抗はするなよ? お前はもう魔力すっからかんなんだからさ」
手首の骨が軋むほどの圧力。もはや武器を握ることすらできない。
絶対的な窮地の中で、コルリはそれでも決して意志の光を絶やさず、氷のような瞳でリンビアを睨みつけ、ありったけの嫌悪感を込めて吐き捨てた。
「この……クソ野郎……っ!」
「はははっ、いいぜその目! 最高だ!」
リンビアはにやりと口角を吊り上げ、踏みつけた手首をさらにグリグリと押し潰しながら、自身の脂ぎった顔をコルリの顔面スレスレまで近づけた。
「生意気な口たたけるのも今のうちだよ、コルリちゃん。……これからたっぷり、俺の凄さを教えてやるからよ」
リンビアの下卑た吐息が、コルリの頬にかかる。
絶望が、彼女の心を真っ黒に染め上げようとした。
だが。
――ズドォォォォォンッ!!
突如として、背後の雪原が爆発したかのような、桁違いに重厚な『着地音』が響き渡った。
「……あ?」
リンビアの動きが止まる。
暴風が吹き荒れ、舞い上がった雪煙が二人の頭上に巨大な影を落とした。
それは、ただの人間が雪原に降り立ったような軽い音ではない。何百キロという途方もない質量が、空から隕石のように激突した音だった。
コルリの薄れゆく視界の端に、その『白亜の装甲』が映り込んでいた。
リンビアが、煩わしそうに背後へと振り返る。
猛吹雪の残滓が舞う雪原に、そびえ立つようにして現れた異形の装甲。
純白の流線型のボディに、まるで血液のように這い回る真紅のエネルギーライン。胸部で静かに脈打つ動力コアと、冷酷に対象を見下ろす複眼状のバイザー。
「……あ? なんだ、てめえ……」
状況が呑み込めず、リンビアは間の抜けた声を漏らした。
高価な魔導具で身を固めているとはいえ、目の前の存在が放つ次元の違う気配に、彼の本能が警鐘を鳴らすよりも早く――
その疑問の言葉を最後まで紡がせる慈悲すら、白亜の装甲は持ち合わせていなかった。
視界から、装甲の姿が瞬時に消えた。
いや、極限まで圧縮されたスラスターの推力による、神速の踏み込み。リンビアが反射的に腕の魔力増幅ガントレットを作動させようとしたコンマ数秒後には、パラディウムはすでに彼の懐深くへ潜り込んでいた。
強烈な鋼鉄の拳が、リンビアの顔面を正確に、そして容赦なく打ち抜く。
その薄っぺらな自尊心を根元からへし折る、絶対的な物理打撃。
悲鳴を上げる間もなかった。リンビアの身体は、まるで蹴り飛ばされた小石のように雪原を宙を舞い、数十メートル後方の凍てついた雑木林へと一直線に吹き飛んでいく。
硬い樹木の幹に激突し、骨が砕ける鈍い音が響いた後、彼はそのまま雪の中に崩れ落ち、完全に意識を刈り取られた。
残されたのは、再び訪れた冷たい静寂だけだった。
雪に這いつくばったまま、コルリは薄れゆく意識の中で、自分を見下ろす巨大な白い影を見上げていた。
恐ろしい外見のはずなのに、なぜか、酷く懐かしく、安心するような気配。白亜の装甲がゆっくりと膝をつき、彼女の傍らに屈み込む。
「――大丈夫かい、コルリさん」
装甲の外部スピーカーから響いたのは、機械的に変換されながらも、どこか温もりを感じさせる青年の声だった。
全身を苛む激痛と、Aランクモンスターとの単独戦闘で限界を超えた疲労が、コルリの視界を急速に暗転させていく。
「どうして……私の、名前を……」
コルリは微かに唇を動かし、疑問を口にした。
だが、その答えを聞く前に、彼女の意識は深い闇の底へと沈んでいった。




